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インプロヴァイザーの立脚地No. 329

インプロヴァイザーの立脚地 vol.35 宮坂遼太郎

Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2025年8月4日 サムライ(新宿)にて

打楽器奏者の宮坂遼太郎のおもしろさは、純粋な演奏技術の追求ではなく、ヒエラルキーの無効化や独特の立ち位置の追求からきている。

目立ちたがりの成功体験

1995年、長野県諏訪市生まれ。ロック好きの父親がカーステレオで流す山下達郎や南佳孝を覚えている。宮坂も、ARBの石橋凌から取って凌と名付けられるところだったが、祖父が反対して遼太郎になった。ただ、特に息子に音楽教育を受けさせようなどという気はなかったらしい。

小中時代は野球部に所属した。その一方で合唱は好きで、小学生・宮坂の声は著しく高く、合唱団の教師にもっとやるよう強く勧められていた。

転機が訪れたのは小学4年生のとき。学年みんなで器楽演奏をやることになった。用意された楽器は、まずは鍵盤ハーモニカとリコーダー、さらに打楽器、アコーディオン、エレクトーンなど。鍵盤ハーモニカは15人もいて目立つことができない。宮坂は意地でも目立ちたかった。最初の年にはラッパを吹き、モーツアルトの<おもちゃのシンフォニー>を演ったが、合奏のなかでかき消されてしまった。翌年、小5のときは打楽器を担当し、うまくいった。演った曲はメキシコの<ラ・バンバ>。ラテンパーカッション隊を組んで目立ったし、なにより楽しかった。曲の最初はカウベルを使ったソロ、自分だけである。楽譜を見たら「ad lib」とあり、調べたら「自由に」という意味。とても心が動いた。よし、叱られるまでは好きに演ってしまおう―――ちゃんとできるわけでもないのに。

自分の性質はこのころから明らかになっていたと宮坂が振り返る。それは「目立ちたがり」に加えて「思い込みが激しい」ことだ。だから、打楽器以外は自分には「できない」と思い込み、また打楽器は「できた」という成功体験が残った。

音楽を聴くという体験

地元の中学校でも野球を続けたが、特に選手としてすぐれていたわけでもなかった。快感を得られるのは一塁手として手を伸ばして捕球する瞬間だけだったというから奇妙だ。その一方で「音楽を聴く」ことが楽しくなってしまった。きっかけは野球の応援だ。吹奏楽団もいないなかで、ベンチ外の下級生たちが口をそろえて「パパパパ」と歌った。それが好きだった。そして、おこづかいではじめて買ったCDが『ブラバン!甲子園』。やけに応援歌に詳しくなった宮坂は、チームの控えだったこともあり、応援を皆に教える係になった。

あるとき、読売ジャイアンツがチャンスを迎えると応援団が演る<ライディーン>を歌いたいと、ある後輩が言った。指導係としてYouTubeであれこれ調べるうちに、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のライヴ動画にたどりついた。1979年の米国グリークシアターにおけるライヴ映像であり、YMOの3人に加えて渡辺香津美(ギター)、矢野顕子(キーボード)、松武秀樹(プログラム)が参加したものだ。宮坂は雷に打たれた。そこには、6人それぞれが異なる作業をしているのに全体として演奏が成立している世界があった。合奏や合唱で「せえの」と始める音楽とは、まるでちがう。音楽が空気のような存在ではなく立体的なものとして立ち現れる体験だった。野球部をやめることはなかなかできなかったが、実のところどうでもよくなってしまった。考えるのは音楽のことばかり。

YMOをとっかかりにしてテクノをいくつか聴いてみたが、ハマることができなかった。クラフトワークは宮坂にとって過度に電子音楽的であり、地元の長野県の風景には合わない。YMOが音として丸く、かわいいものなのに。

そのうち、ポップなインスト音楽にシンパシーを抱くようになってきた。カッコいいジャズよりも、気持ちいいフュージョン。T-SQUAREなんて、こんないい音楽があるのかと痺れた。それからパット・メセニー(ギター)、グローヴァー・ワシントン・ジュニア(サックス)。当時、地元上諏訪の周辺はさびれており、半ば廃墟のような風景が広がっていた。その中で聴く音楽として、これらは最適なものだった(だから、上京後にヴェイパーウェイブが流行った時は心底驚いた。自分が感じていた気持ちは、自分だけのものではなかったのだった)。

打楽器を選択する

宮坂はYMOのなかでも坂本龍一に憧れた。シンセサイザーの音色が好きで、来る日も来る日もひたすらKORG、ローランド、ヤマハのウェブサイトを眺める日々。そして中学を卒業するタイミングで、ピアノを習いたいと父親に頼んでみた。放任主義の父親は、なぜかそのときに限って助言をくれた―――みんな小さいときから習っているのに今からやって大丈夫?と。「思い込みが激しい」宮坂は、ああ、もうピアノもシンセも無理だと決めつけてしまった。

それではベースを演ってみようかなと思い、自転車で楽器店に走った。細野晴臣の音色も好きだったからだ。いきなり、アンプにつないで自由に演っていいよとベースを渡された宮坂は、フレットの真上をおさえてみた。なにやら情けない音が出た。そこに隣町の女子高生バンドが通りがかり、宮坂の姿を見てクスクスと笑った(おそらく被害妄想)。もう、この時点で心が折れてしまった。あとYMOにいるのはドラムの高橋幸宏だ。

高校生になった宮坂はなにか部活に入ることにした。演劇部か、野球部のマネージャーか。だが演劇部のノリがどうも自分に合わない気がして、結局、音楽をやることにした。ここでも「音楽をやるなら部活に入らなければならない」という思い込みがあったわけである。軽音楽部はいまいちカッコよくない気がする。クラシックギター部は陰鬱なムードでフラメンコなどをやっていてどうも違う。弦楽部はこれまで楽器をやっていないと資格がない気がする。合唱部は自分にとっては新しくない。そんなわけで、吹奏楽部を選んだ。T-SQUAREのサックスはカッコよかったし。

吹奏楽部は部員が少ない弱小部だった。それにもかかわらず、夏のコンクールに14曲を演るのだという。あと2か月、楽譜もあまり読めないのにサックスで参加するなんてどだい無理。ここで宮坂の脳裏によみがえってきたのはカウベルの成功体験である。宮坂はついに打楽器を選んだ。

だが、結局は吹奏楽部も合わなかった。音楽に対するモチベーションがいまいち低いのに誰も休まないなど、どうも惰性でやっている感じがした。大編成の中ではアンサンブルの楽しさも実感できなかった。コンクールではJ-POPのアレンジなんかを演奏したが、やっぱりノリがきつかった。フュージョンのほうがカッコいいじゃないか!ただ、打楽器についてはできることも多くなってきて、宮坂自身のモチベーションは下がらない。次は冬のアンサンブルコンテストに向けて新曲に取り組むことになった。<オグン・バダグリス>という打楽器五重奏の難曲だ。出場した60校くらいのなかでもっとも特殊な曲だった。コンテストには落選したが、「自分たちだけの爪痕を残すことができた」という点で大いに満足した。

実感したのは「打楽器っておもしろい」ということに加え、「圧倒的に特殊だな」ということ。これこそ宮坂が憧れ、求めてやまないアイデンティティなのだった。それは「陽キャ」とか「主導」とかいったものではなく、「集団の中での特殊な立ち位置」だ。ヒエラルキーの上を目指すのではなく、ヒエラルキーを無効化する。

自分の演奏を始める

大学選びにあたって動いた論理回路も同じだ。東京大学はヒエラルキーの上にあるし、そもそも国立大学に入るには宮坂自身の科目ごとの注力がアンバランスすぎる。ICUや日本大学芸術学部は学費の高さゆえに親の許可が出ない。ではやりたいことで選ぼうと考え(それまでなにで選ぼうとしていたのか)、早稲田大学を受験することにした。当時は音楽以上に文章を書くことが好きで、文筆で身を立てたいと思っていたこともあり、文芸専攻のある文化構想学部。頑張った甲斐あって合格した。

音楽サークルは多いが、どこでも打楽器奏者はなぞの存在。東京工業大学(現・東京科学大学)のラテンジャズ・ビッグバンドサークルに修行のつもりで通ったりもした。早大の「ミュージックファンクラブ」で演ったのは、ザ・バンド、リトル・フィート、オールマン・ブラザーズ・バンドなどのコピー。当時ロック精神が全くなかった宮坂はその音楽自体にはそこまでハマらなかったが、コンガはおもしろかった。バンドでの演奏も楽しかった。そんな経緯があって、高円寺にあったコンガ道場にも1年ほど通ってみた。

しばらくすると、コピーバンドでの演奏に飽きてきた。当時はパーティっぽい音楽が好きで、演奏の楽しさはかつての吹奏楽部時代にはないものだったけれど。そのうちに、自分の音楽を作りだしたい気持ちが大きくなってきた。大学2年のとき、鼻歌をメロディにしてはギターのコードを付けてもらい、曲を作った。3年になったらオリジナル曲を演るバンドを作った。もっとも、「思い込みが激しい」ため、バンドとは大人数のものだという前提で11人の大所帯。

そのバンドで1年間活動し、ライヴハウスにも出てみたけれど、どうも気分的にうまくいかない。その理由は、ライヴハウス「界隈」が持つ独特の内輪の空気感だった。宮坂にとっては、既に存在している音楽文化に同化することがきついものだった。

宮坂は4年生のとき休学し、ワーキングホリデーを利用してカナダに入り、その後南下してアメリカ、メキシコ、キューバを回ってみた。キューバでは打楽器を教わったりもして楽しかった。そのうちに気づいたのは、自分自身の音楽の指向性が変わったことだ。キューバを代表するセプテート・サンティアゲーロ(Septeto Santiaguero)のような「激しくて、凄い」音楽よりは、小さなライヴハウスで演るおじいちゃんバンド。よれてはいてもグルーヴ感があって、その人が演る必然性がある。中高生の時は全くわからなかったYMOの『テクノドン』を初めておもしろいと思えたのもこの頃だった。

インプロを始めた

就活の時期が来た。仮に就職したら打楽器を続けるのが難しいかもしれない。ちょうど蓮沼執太が大編成のバンドを組むにあたり増員のオーディションを行っていた。メキシコに滞在していた宮坂が自分の演奏動画を送ったところ、通過してしまった。その翌々日、泊まっていた家の別の部屋に、なんと蓮沼の友人がNYの蓮沼宅からやってきた。驚いた宮坂は、「音楽を続けていたらこんなわけのわからないことが起きるのではないか。就職している場合ではない」と思い込んでしまった。

帰国してから、同級生の中村東(ギター、ヴォーカル)に「即興をやろう」と声をかけられたりもして、インプロなるものを始めた。中村は渋さ知らズのワークショップをきっかけに結成したAOSABAというバンドにも参加しており、即興にも興味を寄せていた。まずは4人集まって3回ライヴをやった。うまくいかないが楽しい。そのころに知り合ったうちのひとりが、細井徳太郎(ギター)だ。対バンでインプロを演っていて、明らかに一人だけレベルの違う演奏をしている。「ヤバい」と思った。

祖母が学費を出してくれて、東京藝術大学大学院の毛利嘉孝研究室に通うことにした。美術や社会を通じて音楽のことを考える機会になった。そして、再会した細井に「ライヴ観に来なよ」と誘われ、足を運んでみた。下北沢のApolloで観たDNA(細井、津上研太(サックス)、高橋佑成(ピアノ、シンセ)、瀬尾高志(ベース)、林頼我(ドラムス))はカッコよかった。

これが、細井、高橋とバンド「秘密基地」を組むきっかけだ。当時まだ宮坂の中にはインプロに対する特段の評価軸はなかったが、なんとなく演ることができた。他の2人も何も言ってこないし大丈夫。ゲストに角銅真実(ヴォーカル)を招いたときなんかはキラメキもあった。

追いつめられる

秘密基地や多井智紀(チェロ)とのデュオなど楽しいライヴがある一方で、追いつめられる体験もあった。2021年2月に秋山徹次(ギター)とFtarri(水道橋)で共演したときのこと。あまり秋山のことを知らずに臨んだところ、秋山の一音で「殺される」と思ってしまった―――すごすぎる、ヤバすぎる。宮坂は必死になって演奏し、なんとか40分間2セットを終えた。楽器を片付けていたら、すずえり(ピアノ、オブジェクト)から助言をもらった。集まっている人たちは、上手く叩く技術なんかよりも、聴いたことがなくておもしろいものを求めているのだ、と。それまでは「上手くなる」という観点しか持っておらず、なにかを言い当てられた気がした。インプロとおもしろさとがつながる、あらたな評価軸を得たように思えた。

そういえば帰国直後にパンク好きな友人が「上手い人たちが上手い音楽を演るのなんて聴いていられないよね」と言っていたことを思い出した。キューバのおじいちゃんバンドに惹かれたことも脳内でつながってきた。かつて好きだったフュージョンに対しては、難しいことをなんでもなさそうに演るミュージシャンたちに憧れていたのではあったけれど、では宮坂自身が「上手いね」と評されて嬉しいのかどうか。ひょっとすると、自身が通過してきたコンクール文化の「上手い、下手」という評価軸が深いところに巣食っているのかもしれない。それよりは「いろんなものがあっていい」。音楽っておもしろいなと思うことができた事件である。

なにしろ秋山についていくので精一杯だったから、自分のプレイについて反省するところがなくはない。しかしFtarriの鈴木はその余裕のなさをおもしろがったのか、CD『雑用は仕事の王道』としてリリースしてくれた。海外で「打楽器がギターのパワーについていけていない」というレビューがついたが、宮坂は、まあそんなところだろうと考える。

2023年6月のトリスタン・ホンジンガー(チェロ)との共演時にもインプロのおもしろさについて考えてはいたが、実際のところ最後まで「ビビって」いた。もっといろいろやれたのではないかという気持ちがあるという。

インプロに対する評価軸

そのような経緯もあって、宮坂はこう考えるようになった―――インプロは音楽のなかでも突出していろいろなものさしが出現する表現だ。そのものさしは毎回異なり、だれにも読めない。人によって演奏に向かうモチベーションがちがっても音楽として成立しうる。その点が「同じ方向を向いている」ことがどうしても重要になる「アンサンブル」とちがうところだ。

宮坂自身には「ジャズ」を演りたいという気持ちはない。自分が作るものは、「すでにある伝統的なジャンルを極める」よりも「こういう方法もある」視点にこだわっていきたい。すなわち、ちがうものさしを探すということだ。

だから、なにを演るとしてもすべての音楽にインプロの考え方を適用する。ヒエラルキーよりもその無効化、別のもの。自分自身の演奏技術によって聴く者を圧倒するようなことがあれば「終わり」だ。それよりも演奏を観た人に「自分にもできる」と思わせたいし、「人生こんなふうにやっていいんだ」と元気になってくれたらとてもうれしい。

纐纈之雅代(サックス)に誘われて加入した「如意ン棒」のライヴはとてもよかった。これとても「ジャズ」だが、他人のものであったはずの音楽(ジャズ)がとつぜん自分の宝物になった感覚。それではジャズとインプロをつなぐものはなんだろうと考えながら臨むことは大きなチャレンジだ。ただ、ふつうに必死になってふつうに音楽をやってしまったという反省もある。次はまたちがうことを演る。「ふつう」とは言っても、宮坂は「ふつう」の練習をしないから基本ビートを叩けない。一方で「多動的」を自認するからさまざまな音を出す。これが自然現象のようでおもしろいと纐纈は言ってくれた。とてもうれしかった。

それはそれとして、アンサンブル重視となるバンドもおもしろいと考えている。シンガーソングライターのカネコアヤノや折坂悠太のバンドへの参加も得るものが大きい。両者ともに聴衆をひとつにしてしまうパワーを持っていながらも「皆が同じ方向を向くこと」の恐ろしさを悟っていて、その上でバンドをやろうとしているから、一緒にやりたいと強く思う。

現在は、田上碧(ヴォーカル、ギター)、樋渡直(ギター)との「ガラグア」、遠藤ふみ(ピアノ、ヴォーカル)との「Clouds犬」、岡千穂(エレクトロニクス)、柳沢耕吉(ギター)との「ダブトライアングル」など、現在進行形のユニットにも注力したいと考えている。

自分たちのインプロとは

それでは、日本におけるインプロの独自性はなにか。アメリカでは「OneBeat」というさまざまな国の新しいミュージシャンのキャンプのようなプログラムが続けられている(多文化共生に後ろ向きなトランプ政権が予算を止めているが)。昨2024年は日本が対象となり、宮坂も参加した。ここで出会ったコロンビアのインプロヴァイザー、ハイロ・ロドリゲス(Jairo Rodriguez)は日本フリージャズのファンで、宮坂たちの音楽にその系譜を感じ取ってくれたという。曰く「君のパッションはアメリカのミュージシャンたちにはないものだ」と。ただ、宮坂自身はシンプルな色の「パッション」ではなくさまざまな色を指向する。目指すものは巨大な炎ではなく独自の色をした、特殊なものだ。

宮坂の指向するインプロは普通の音楽のなかにあるものだ。一方、日本ではインプロ限定の視線が強く、そのことがリスナーを狭めていると感じるという。だから、その回路をどうにかして変えていきたい。オカネの問題かもしれないが、それだけではない。

野流(やりゅう)という音楽集団がある。外に大きく開かれたセッションコミュニティであり、メンバーは流動的。インプロの要素があればだれでも加わることができるコンピレーションアルバムも主宰していて、クルマが止まったときに周囲を叩いたものを録音した音源だってよい。すでに十代や二十代の参加者が多く集まっているらしい。いわゆる「インプロ」だけを見ていては気づかないが、大きなムーヴメントだ。こういったものに、遠藤ふみ(ピアノ)、阿部真武(ベース)、本藤美咲(バリトンサックス等)といった仲間たちとからむことはできないか。それによりフリー・インプロヴィゼーションの新たな地平が開けるのではないか。

インプロヴァイザーたち

ジャズでいえば、独自のツボをもっており、音を記憶できないような人が好みだ。最近であればヨン・クリステンセン(ドラムス)。わかりやすさがなくて、でもツボをついていて気持ちいい。「情熱」からもかけはなれている。ダニー・リッチモンド(ドラムス)もわけのわからなさが良く、憧れる。徳永将豪(サックス)は宮坂にとって象徴的で大きな存在。ストイックすぎて共演者としてはどうすればよいのか悩まされるが、微細な変化が大きくなっていくさまにはぞくぞくさせられる。すずえり(ピアノ、オブジェクト)は演奏でも展示でもふつうの音楽がもつ重力を無効化していて、憧れる。シンプルに、特に大好きだと思うのは荒川淳(ヴァイオリン、トランペット等)、山本精一(ヴォーカル、ギター等)、久下恵生(ドラムス)だ。もちろん他にも気になるインプロヴァイザーは多い。既に共演している人を除くと、日高理樹(ギター)、内橋和久(ギター、ダクソフォン)、山本達久(ドラムス)、松丸契(サックス)、夏の大△の三人(大城真、川口貴大、矢代諭史)、江崎將史(トランペット)、直江実樹(ラジオ)、野本直輝(エレクトロニクス)、vq (エレクトロニクス)、風巻隆(パカッション)、田中悠美子(エレクトリック大正琴等)、高橋佳輝(ベース)、和田晋侍(ドラムス)、西原尚(様々)、広瀬淳二(サックス、風船)、……。

アルバム紹介

 

(文中敬称略)

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』、『オフショア』、『Jaz.in』、『ミュージック・マガジン』などに寄稿。linktr.ee/akirasaito

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