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Monthly EditorialEinen Moment bitte! 横井一江InterviewsNo. 323

#49 大友良英によるアジアン・ネットワーキングの軌跡

text & photo by Kazue Yokoi  横井一江

 

昨年のスペシャルビッグバンド他での海外ツアーに続き、今もONJQで中国ツアー敢行中の大友良英、ジャズや即興演奏家との活動、映画やドラマの音楽の他にも障がいのある子供たちとのワークショップ「音遊びの会」には結成当初から継続的に参加していたり、NHK FMジャズ・トゥナイトやKBS京都のJAMJAMラジオでのDJを務めるなど多彩な活動を続けている。また、4月には昨2024年12月新宿ピットインでの Old and New Dreams ライヴ盤2タイトル『大友良英  須川崇志  石若駿 (ds)/序』と『大友良英  山下洋輔  山崎比呂志/破』がDIWレーベルからリリースされる予定だ。

そんな大友の昨年の活動で、特に目についたのはFEN (大友良英、ユエン・チーワイ Yuen Chee Wai。顔峻 Yan Jun、リュウ・ハンキル Ryu Hankil) でのヨーロッパツアー、そしてクリス・ピッツィオコスとのアジア・ツアーだった。大友は即興演奏家として長年に亘り、アジアのミュージシャン/アーティストとの交流の端緒を開き、それを地道に重ねてきた最初のひとりである。しかし、コロナ禍によって暫くの間途絶えていたのが復活したということもあるが、欧米で活躍しているピッツィオコスとアジア・ツアーを行ったということは驚きだった。

そこで、これまで他の活動ほど着目されていなかった大友良英によるアジアでのネットワキーキングの試みを彼に話を聞いたことをベースに綴ってみよう。

1990年香港での出会い、そして北京

1990年、香港をよく訪ねていた大友良英は、ヘンリー・クォックHenry Kwok とディクソン・ディーDickson Dee (Li Chin Sung) の二人と知り合う。ヘンリー・クォックは大友と同世代、ディクソン・ディーはまだ20歳ぐらいだった。そして、二人が立ち上げた Sound Factory から大友の初ソロアルバム『We Insist?』をリリースする。ちょうど大友がグラウンド・ゼロの活動を始めた頃だ。彼らとの交流はその後も続くのだが、ヘンリー・クォックはやがて Sound Factory の経営に行き詰まって音楽業界を去る。他方、ディクソン・ディーは1997年に Noise Asia を立ち上げ、CDリリースやディストリビューションなどを行っている。

そのディクソン・ディーは後に演奏家としてジョン・ゾーンのレーベル Tzadik から本名のLi Chin Sung 名義で『Past』というファースト・アルバムを出す。彼に誘われて中国でのコンサートに大友が出演したのが1999年。北京で大友、Sachiko M、ディクソン・ディーの公演を主催していたのが顔峻 Yan Junという若い詩人で音楽批評も書いている人だった。演奏会場は「火山」という名前のディスコで1000人くらい入るような会場にもかかわらず、お客さんは10人ぐらいだった。コンサート終了後、顔峻がホテルの大友の部屋に来て朝まで筆談で情報交換したという。既に大友はジョン・ローズなどと中国での公演経験はあったが、ミュージシャン(後に顔峻は演奏も行うようになる)とコミュニケーションをしたのはこの時が初めてだった。2000年代に入って、インターネットが広く普及するようになり、中国の音楽シーンを検索した時に顔峻の名前を見つけ、実験音楽の演奏も始めていることも知って、連絡を取り合うようになる。彼は当初はマイクとフィードバックによる演奏、その後はラップトップを用いた演奏や詩の朗読も行っているという。ちなみに顔峻は2000年代初頭に吉田達也や灰野敬二を中国に呼んでいる。

2000年代韓国の音楽シーン

韓国のフリージャズは、1985年に開催された「TOKYO MEETING 1985」に姜泰煥トリオ(姜泰煥、崔善培、金大煥)が出演したのを契機に知られるようになる。その後、再び来日してトリオでのツアー、単独での来日を経て、日本のミュージシャンとの交流が行われるようになった。ジャズの影響を受けて演奏活動を始めた彼らが独自の音楽を創出してきたことはよく知られているが、それ以降の世代の活動はなかなか見えてこなかった。

それは大友も同様だったが、ソウル在住のギタリスト佐藤行衛の企画でソウルに何度も行くようになり、若いミュージシャンと知り合う。解体したCDプレイヤーやラジオ、ラップトップなどを用いて演奏するアストロノイズ(チェ・ジュンヨン、ホン・チュルギ)、また リュウ・ハンキルRyu Hankil、ジン・サンテ Jin Sangtaeだ。後にFENのメンバーとなるリュウ・ハンキルは元々ポップスをやっていたが大友らの演奏を見たことから即興演奏を始めるようになる。現在コンピュータを使っているが、最初は古い時計やタイプライターなどを使用していた。

この時期、日本の即興音楽シーンも変化していた。旧来の即興音楽のモデルを経ずに即興演奏に辿りついたミュージシャン、テクノやノイズの影響を受けた者や全く独自の方法で即興演奏を行うミュージシャンが出てきた。音響派という括りで語られることがあった時期にも重なる。そしてまた、代々木にあった OFF SITE (2000年〜2004年) を始め、2000年代半ばには小さなライヴスペースが増えてきた。

ジン・サンテは来日した際、大友と映像作家の岩井主税を中心に立ち上げた吉祥寺のライヴスペースGRID605 で演奏したことから、父親が持っているビルの一室に dotolim というライヴ・スペースを創る。そこはノイズ、即興音楽や実験音楽、オルタナティヴな音楽を演奏するミュージシャン達が演奏する重要な場となり、やや広い場所に移転した今も営業を続けている。ジン・サンテはソウルのオルタナティヴな音楽シーンのキーパーソンのひとりと言っていい。2000年代に入ってから日本の即興音楽シーンも変化したが、韓国でも小さいながらオルタナティヴな音楽シーンが立ち上がっていた。

アジアン・ミーティング・フェスティヴァル (AMF) 開催へ

大友はシンガポールや台湾も訪れていた。2000年12月、シンガポールでオン・ケンセンが主宰する劇団シアターワークスの主催で東南アジアを中心に十数ヵ国から様々なジャンルのアーティストを招聘してワークショップやセッションなどを行う企画「フライング・サーカス」に参加する。そこには田中泯やメレディス・モンクも招かれていた。そこで大友はザイ・クーニンと知り合う。まだ学生だったユエン・チーワイも聴衆の一人として来ていた。ユエン・チーワイは後にアジア各国(インドネシア、ベトナム、シンガポール、マレーシア、韓国、中国、香港、日本)のミュージシャンを集めて即興でライヴを行うHadaka-Kというプロジェクトを2007年にシンガポールで行っている。

また、大友が台湾に初めて行ったのは1996年だったが、その時にパンク・ミュージシャンのDINOと出会っている。彼は後に台湾の即興ノイズシーンの中心的人物になった。その後も台湾を訪ねる機会もあり、台湾の音楽シーンとの繋がりも小さいながらもあったといえる。

「80年代からアジアのミュージシャンとコミュニケーションを何とかとりたいと思っていた」という大友。香港に行き、韓国にも足を運ぶようになったのには理由があったのである。大友は上の世代が演っている現代音楽やフリージャズとはまた違った音楽を試みる人たちが絶対出てくると思っていた。実際、彼の十歳くらい年下の世代でそういうミュージシャンが出てきたのである。インターネットが普及したことにより、互いに存在を知ることが出来るようになった。それまでシンガポールや香港では英語は通じるものの、韓国や中国では英語が喋れないからコミュニケーションが難しかったが、インターネット時代になってカタコトでも英語でやりとりするようになってきたことも大きい。

2005年9月、大友は新宿ピットインでアジアン・ミーティング・フェスティヴァル (AMF) を開催する。そのきっかけとなったのは、2005年4月の中国での反日デモだ(*1)。その時に日本料理店なども被害にあったことを知り、「それじゃあ意味がないだろう」と思ったという。アジアでのプロジェクトもそれまでやってきた彼が思い立ったのは「交流と友達を増やすしかない」ということだった。

そして、香港のディクソン・ディーをはじめ、香港、韓国のミュージシャンを呼んで、アジアン・ミーティング・フェスティヴァル (AMF) を9月に新宿ピットインで開催する。残念ながら中国のミュージシャンは呼べなかったし、台湾のDINOとは連絡が取れなかったので断念したものの、香港からディクソン・ディー、そして韓国からアストロノイズの二人、リュウ・ハンキル、ジン・サンテ、佐藤行衛が来た。日本を含めて3カ国だったが、アジアのミュージシャンが集合し、交流するイベントを実現させた。もちろんAMFを開催したから反日デモが止まるわけではない。だが、デレク・ベイリーのカンパニー、あるいはFMP、ICPのようなヨーロッパの即興シーンのような人の繋がり、どこかに中心があるわけではなく互いに行き来し、国籍の異なるミュージシャンが一緒に演奏する。そのようなネットワークがアジアで実現することを大友が夢見ていたことは想像に難くない。第1回AMFは寄付をしてくれた人はいたものの、結果的に赤字分は大友のポケットマネーから出したという。

その後、AMFは場所を移し、2008年には東京と山口、また2009年にも開催している。

ファー・イースト・ネットワークFEN 結成

南フランスのフェスティヴァル・ミミ Festival MIMI から2008年に開催されるフェスティヴァルにアジアのミュージシャンとグループを作って出演してほしいという依頼が来る。

大友は香港に初めて行った1989年、1990年頃からアジアの人たちとグループを作るならグループ名をFEN (Far East Network) にしようと心に決めていた。このFENという名前にはシニカルな意味合いも込められているという。ファー・イースト・ネットワークはアジアのネットワークという意味だが、かつて在日米軍向けに放送サービスを行っていた放送局と同名である。FENのラジオ放送は在日米軍へのサービスであると同時に日本への文化的なプロモーションでもあったからだ。

2008年当時、大友とアジア各国のミュージシャンとの繋がりはあったが、ヨーロッパの即興音楽家の繋がりのようなネットワークと言えるものにはまだまだ程遠いものだった。フェスティヴァル・ミミから話が来た時に、南フランスでアジアの異なる地域に住むミュージシャンが出会って、バンドをやるのは最高だなと思ったという。予算から考えると大友も含めて4人行けるので、各地で音楽イベントを主催しているミュージシャンを選んだ。北京の顔峻、ソウルのリュウ・ハンキル、シンガポールのユエン・チーワイである。彼らは既にそれぞれが住んでいる地域で何らかのミーティングのようなイベントを行っていた。それが繋がることで、ネットワークが形成されていくことを期待してのことだった。

彼らと一緒に演奏するにあたって大友が決めたことは。音楽的にどうするという打ち合わせは絶対にしない。それを行うと音楽的なスキルを持った人がリーダーシップを持って、その人の音楽を作ることになってしまうからだという。ただ一緒にご飯を食べるように、即興で音楽をやる。終演後は一緒にごはんを食べることを決めた。リハーサルはやったが、音を出すだけで批評も何もせず、リハーサルよりも長い夕食の時間があり、本番を演った。アルバムを作ろうという気もなく、それぞれが企画をしたときにFENプラス・アルファで色々なことが出来ればよいと大友は考えたのである。そして、それが動き出した。

FEN (Otomo Yoshihide, Yuen Chee Wai, Yan Jun, Ryu Hankil) @Ftarri Festival, SuperDeluxe, Tokyo, November 21, 2015


アンサンブルズ・アジア

AMFやFEN の活動が動き始めたのだが、東日本大震災が起こったことでそれらの活動は一時的に中断せざる得なくなった。この時期、大友は被災地となった故郷福島のためにプロジェクトFUKUSHIMA に注力し、またNHKの連続ドラマ「あまちゃん」の音楽を担当する。3年ぐらいアジアのミュージシャンとの活動は止まっていたが、国際交流基金から声がかかる。おそらく AMF やプロジェクトFUKUSHIMA などの活動を見ていた人がいたのだろう。東南アジアのミュージシャンを繋ぐ企画をしてほしいという依頼だった。その話を受けた大友がアーティスティック・ディレクターとなってアンサンブルズ・アジアと題した事業が2014年にスタートし、各地で様々な交流プロジェクトを行う。AMFもその一部門として続けられた。

この時、大友は四人のディレクター、ユエン・チーワイ、dj sniff、Sachiko M、有馬恵子を指名する。この四人は各々アーティストを探し、アジア中にネットワークを広げた。大友が目論んだのは日本が中心になるのではなく、ハブになることだった。このうちSachiko Mは音楽と美術のあいだに関わる企画を、有馬は一般の人たちとのワークショップを担った。ユエン・チーワイとdj sniffはアジアの実験的な音楽家のネットワーク作りを担当、AMFの企画を受け継ぐことになる。シンガポール人にユエン・チーワイは既にタイやインドネシアのミュージシャンとのネットワークを持っていた。加えて英語、北京語、広東語、そしてタイ語も少し話せる。また、dj sniff はバイリンガルだ。彼らはアジア中から様々なミュージシャンを探し出してきたことから、大友にとっても新たな出会いがあった。ネックになったのは東南アジアに特化した事業だったので韓国、中国、台湾は含めることが出来ないことだった。だが、ユエン・チーワイやdj sniffのアイデアて、東南アジアのミュージシャンが多く参加するAMFを台湾で行うということを試みたという。この事業を通して出演者同士の繋がりも出来て、現在に至っている。

各地でフェスティヴァルや様々な企画を行ったアンサンブル・アジアだったが、2017年に予算が打ち切られる。やはり、一般的とは言えないオルタナティヴな音楽・芸術企画が国際交流基金の主催事業として行うのはなかなか難しいものがあるのだろう。だが、AMFは継続し、2019年にも開催された(*3)。

コロナ禍を経て

コロナ禍が落ち着いた一昨年(2023年)あたりから、大友も再び海外にも呼ばれて演奏する機会が増えた。中国、韓国、台湾、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ベトナムと各国に出かけているが、それは全てAMF絡みの繋がりだった。

アジアでネットワークを作ってきた大友だが、もう一つやりたいことがあった。ヨーロッパやアメリカでよく一緒に演っているミュージシャンをアジアのネットワークの中に引き入れることである。そうすると今度はヨーロッパやアメリカの若いミュージシャンたちと繋がるだろうと考えたからだ。繋げるならヨーロッパでフェスティヴァルや企画を行った人で、似通った考え方を持つ人たちだ。アジアに来ることに興味がある人に声をかけ、助成金は出ないしお金にはならないけどもそれを了解して食いついてきた人を連れて行こうと考えていた。

その最初がクリス・ピッツィオコスだった。彼と大友は2017年に札幌で初共演、その後ニューヨークで演ったり、ヨーロッパをツアーしている。2023年のヨーロッパ・ツアーの時に、お金にならないし、持ち出しになるかもしれないが、それでも興味があればということで、アジアでの演奏に誘う。その結果、昨年(2024年)大友とピッツィオコスは日本とアジアをツアーした。

この時、大友はアジアをツアーした場合に果たして採算がとれるかどうかも試したかったという。なぜなら陸続きで数時間車を走らせれば他の国になるヨーロッパと違って、アジアの場合は移動距離が長く費用もかかるからだ。特に東南アジアが問題で、遠い上にお金にはならないので結果的に持ち出しになる。それでも中国を入れればなんとかなるかな、中国、台湾、韓国だけを回るのであれば赤字にならずにすみそうだとのことだった。

大友によるとピッツィオコスは今年もアジアに来るだろうとのこと。北京の主催者から声をかけられたらしい。わざわざ断りの連絡が入ったそうだが、大友にとってはそのように繋がっていくこと自体が目的だった。大友はまた他のミュージシャンを連れてアジア・ツアーすることを考えているようである。

現在のアジアの音楽シーンを見ると、ユエン・チーワイや dj sniff に影響を受けた若い世代が出てきて、どんどん繋がっているという。中国でも顔峻に影響を受けた若者が沢山いて、昨年世界中からミュージシャンを呼んで大規模なインターナショナル・ノイズ・フェスティヴァルを開催した同時17歳の少年Zhao Ziyiもいる。中国では音楽に演劇やパフォーミング・アーツが結びついたものもあるようで、特に北京と台湾が面白いようだ。

今年はAMFを始めて20年目に当たる。既にユエン・チーワイと dj sniff は来年 AMF を開催するために動いているが、大友も個人的にイベントを今年行うつもりでいるようだ。期待しつつ、今後の情報を待ちたい。


注:

1. 2005年の中国における反日活動 Wikipedia

2. 大友良英のJAMJAM日記  2005年4月17日

3. Asian Meeting Festival
http://asianmusic-network.com/

【参考資料】

大友良英のJAMJAM日記
http://otomoyoshihide.com/

井口淳子、山本佳奈子(編)『ファンキー中国』灯光舎、2025年

『Improvised Music fron Japan 2004』Improvised Music fron Japan、2004

『Improvised Music from Japan 2009』Improvised Music from Japan、2009

【関連記事】

#16 フェスティヴァル in 2019 〜 フリージャズ、即興音楽 and beyond…
https://jazztokyo.org/monthly-editorial/post-48294/

(*一番上の写真は2024年10月8日に新宿ピットインで撮影したもの)

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。メールス ・フェスティヴァル第50回記。本『(Re) Visiting Moers Festival』(Moers Kultur GmbH, 2021)にも寄稿。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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