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Interviews~No. 201

#89 アーリル・アンダーシェン(アリルド・アンデルセン)

アーリル・アンダーシェン(アリルド・アンデルセン)
double-bass/composer ノルウェー
2010年9月6日
@銀座日航ホテル
interviewed by Kenny Inaoka/稲岡邦弥
photo:collection of Arild Andersen/Inaoka(*)

 

アーリル・アンダーシェン
1945年10月27日、ノルウェー生まれ。
1967年から6年間ヤン・ガルバレク・カルテット(テリエ・リプダルg、ヨン・クリステンセンds)で演奏。この間、オスロに在住したドン・チェリーtpとジョージ・ラッセルpに師事、大きな影響を受ける。72年から74年にかけてNYに武者修行に出かけ、サム・リヴァースtsやポール・ブレイpと共演、腕を磨く。帰国後の1974年、自身のバンド「マスカレロ」を結成、ECMに3作を残す。カーリン・クログやラドカ・トネフなどノルウェーのヴォーカリストとの共演も多く、アルバムも残されている。80年代後期からはノルウェーの伝統的なフォーク・ミュージックと即興演奏の融合を試み、フォーク・シンガー界の第一人者クリステン・ブラーテン・ベルクと組み、その成果を『サグン』(ECM)として発表。2004年にはアテネ・オリンピック委員会から委嘱を受け、ソフォクレスの「エレクトラ」に基づく音楽劇を作品化、公演を行うとともにECMに同名のアルバムを残した

 

♪ 『Esoteric Circle』 と『Afric Pepperbird』の間

Q:もう一度、ジョージ・ラッセルに戻りたいのですが。

AA:どうぞ。

Q:ヤン・ガルバレクをフィーチャーした彼のセクステットのアルバムがありますね。イタリアのSoul Noteからリリースされた。

AA:『Trip to Prillarguri』*だね。あのアルバムは、スウェーデン放送がストックホルム郊外のSodertelje Theatreで録音したものだ。スウェーデン放送が主催した一連のジャズ・コンサート・シリーズのひとつだ。
*『Trip to Prillarguri』:9CD BoxSetとして2010年9月イタリアCAMJazzから再発された。

Q:ヤン・ガルバレクの他に、あなたとテリエ・リプダル、ヨン・クリステンセンのいわゆる「ビッグ・フォー」に、スタントン・デイヴィスtpが加わり、ジョージ・ラッセルがリーダーになったものですね。

AA:楽曲は、ジョージとヤンが提供した。

Q:この録音が1970年3月ですね。その半年ほど前に、この「ビッグ・フォー」で『エソテリック・サークル』(註:Flying Dutchman/Freedom/1969年10月録音)が録音されており、半年後に『Afric Pepperbird』(註:ECM1007/1970年9月録音)が続くわけですね。この2枚のアルバムの録音には1年ほどの隔たりしかないのですが、音楽的にかなりの変化がみられますね。
2枚のアルバムにはどういう関係があるのですか?『Afric Pepperbird』にはマンフレート(アイヒャー)の意向が相当反映されているのですか。

AA:そんなことはないよ。マンフレートはあの時点では普通のプロデューサー以上のことはしていない。僕らのやりたい音楽をやりたいように演奏した。年齢的にいちばん伸び盛りの頃だから、わずかの期間に相当成長したんだと思う。ギグも相当経験したし。

Q:『エソテリック・サークル』は、ジョージ・ラッセルのプロデュースになっていますが。

AA:そうさ、ジョージがプロデュースした。『エソテリック・サークル』は、オスロ郊外のThe Henie-Onstad Museumという美術館だったんだが、遮音が悪くて外部のノイズが入ってくるんだ。注意深く聴いてみたらノイズが聴こえるはずだよ。

Q:そうですね。

AA:美術館の方は録音会場になるというので大喜び、無料で貸してくれたんだ。

Q:『Afric Pepperbird』の方は?

AA:1年ほどの間に僕らは何回もコンサートをこなし、年齢的に伸び盛りの時期でもあったから、『Esoteric Circle』の時よりも随分成長し、自信もついたんだ。マンフレートがレーベルをオープンしたばかりだったので、また無料で美術館を借りようと思って、マンフレートを連れていった。ところがマンフレートはノイズを嫌って、スタジオでの録音を主張した。

Q:当然のような気もしますが。

AA:そこで、アルネ・ベンディクセンというスタジオに行き着いて、ベンディクセンで働いていたヤン・エリック・コングスハウクと出会うわけだ。

Q:なるほど。物語の始まりですね。

AA:音楽はすべてヤン・ガルバレクが書いて、ディレクションもヤンだった。

 

♪ ドン・チェリー・ファミリー


 

Q:ドン・チェリーとは何か特別な思い出がありますか。

AA:ドンはVW(註:フォルクスワーゲン)のバスを使って家族で動いていた。スウェーデン人の奥さんモキと、娘のネネ、息子のイーグル・アイだ。

Q:日本にも1974年、家族で来日し、ファミリーでコンサートに出演しました。
ステージにマットを敷いて車座になって演奏するんですね。日本から富樫雅彦というパーカッショニストが参加しました。ネネは、10年程前ですがセネガルのユッスー・ンドゥールとデュオを組んでヒットを飛ばしましたね(註:<セヴン・セカンド>)。

AA:彼らはほとんどファミリーで移動していた。あるとき、僕がオスロ郊外のリレストローム (Lillestrom) に借りていたロフトにバスで乗り付けて来て、皆でホットドッグを作って食べたのを覚えている。ソーセージを挟んで、マスタードを塗って、ケチャップをかけて。和やかな風景だったね。

Q:彼らはバスに寝泊まりしていたのですか。

AA:いや、シッセル・パスケ(Sissel Paaske)というアーチスト用のアパートやオスロの中心街を外れた小さなホステルに泊まっていた。

Q:あなたとドンのそういう関係を知っていたら、富樫雅彦のコンサートにあなたを呼ぶべきでした。

AA:何のことだい。

Q:富樫雅彦の30周年記念コンサート(註:1986年5月)にドン・チェリーが参加したのですが、予定していたベースのチャーリー・ヘイデンの来日が不可能になり、突然だったので、懇意にしていたデイヴ・ホランドに声を掛けたのです。富樫さんは初めてだったのですが、とても気に入ってくれました。『ブラ・ブラ』という素晴らしいライヴ・アルバムが残せました。

AA:それは良かった。デイヴは素晴らしいベーシストだよ。

Q:ところで、ドンのアルバム『永遠のリズム』には、コンサートには出演したファラオ・サンダースが参加していませんね。どうしてですか。

AA:ファラオの録音契約の問題だったと聞いている。

 

♪ ピアノレス・トリオ

Q:今回のように何度かピアノレスのユニットを組んでいますが。

AA:「マスカレロ」の時はピアノがいたんだ。

Q:ヨン・バルケですね。

AA:ピアノやギターなどのコード楽器がないと音楽がオープンになるんだ。それに僕は80年代に入ってまもなくエレクトロニクスを導入するようになった。エレクトロニクスでオーケスレーションもできるしね。そのあと90年代に入ってからはピアノを入れたりいろいろなプロジェクトにトライした。それからまたピアノレスに戻り、ベース、サックス、ドラムスの3人でやるケースが多くなった。この編成だとスペースやサウンドを作るのにオープンになって可能性が増えるんだ。もうひとつの理由は、エネルギーのフローを素早く変化できること。アレンジもシンプルにできるし、メロディからのインプロバイズが自由になる。それにインタープレイも自由だし。

Q:このピアノレスのトリオはかつてのサム・リヴァースとバリー・アルトシュルのトリオがヒントになっていますか?(註:『Sam Rivers/Trio Live』 Impulse 1973年 )

AA:その通り。エネルギーのフローが自由だっただろう。同じトリオのフォーマットは、ヤン・ガルバレクとエドワード・ヴェサラのトリオでもトライした。

Q:ECMの『トリプチコン』(註:ECM1029 1973年)ですね。

AA:そうだ。

Q:ところで、一昨日のクラブでの演奏では<さくらさくら>を演奏しましたね。昨日は演奏しなかった。

AA:<さくらさくら>?

Q:日本の古謡です。

AA:<チェリー・ブロッサム>のことかい。あれは、直前にトミー・スミスが持ってきたんだ。練習する時間がなかった。

Q:それで、彼が<Outhouse>の中に取り込んだのですね。僕は、アンコール用に用意したのかと思いました。

AA:トミーが自分のソロの中に取り込んだんだ。そういうことが自由にできるんだよ。ピアノレスだとね。

Q:素晴らしいジャズになってましたね。ゾクゾクしました。あの速いテンポに乗ってね。

AA:いいだろう、トミー・スミスは。10月には、彼の生地のアイルランドで彼の作品を演奏するんだ。ビッグバンドにアレンジしてね。

Q:彼のデビューは良く覚えてますよ。ゲイリー・バートンの『Whiz Kids』(註:ECM1329 1987年)というアルバムで。小曽根真と一緒でしたね。本当のWhiz Kids(神童)だった。

AA:明日だったか、小曽根のビッグバンドで吹くとか言ってたね。

Q:さすがにゲイリーの眼力はすごいですね。パット・メセニーもそうですし。
あなたもいろいろ若手を発掘してきましたけど。ニルス・ペッター・モルヴェル、ヨン・バルケ。ギリシャのヴァシリス・ツァブロプロスもそうでしたね。

AA:正直なところ、ヴァシリスにはてこずった。レコーディングでは自分がリーダーになるといってきかないんだ。(註:『Arild Andersen/Achirana』ECM1728 1999年)ピアニストがリーダーになるべきだと言ってね。クラシックの世界では通用するかもしれないが、ジャズでは必ずしもそうではない。あとで謝ってきたけど。

♪ フォーク・ミュージックとの関わり

Q:ノルウェーのフォーク・ミュージックとの関わりですが。『サグン』(註:ECM1435 1990年)というアルバムがありましたね。

AA:『Sagn』だね。あれは、「サング」と発音するんだ。ノルウェーに伝わる古い民話に基づいたアルバムだ。シャーステン・ブローテン・ベリというノルウェー随一のフォークシンガーと共演した。

Q:もともとはECM以外のレーベルで制作されたものですね。教会に関係する。

AA:Kirkelig Kulturverkstedという教会に関係するカルチャー・ワークショップだ。教会に置かれたレーベルだけど取り上げている音楽は宗教には関係はないんだ。Erik Hillestadという優れたプロデューサーがいてね。あのアルバムは最初はノルウェーでリリースされたんだ。のちにマンフレートが気に入ってECMからリリースしたいというので、ECMに譲渡されたんだ。

Q:マンフレートもノルウェーのフォーク・ミュージックにこだわっていますね。

AA:ヤン・ガルバレクともいろいろやっている。

Q:そのレーベルはコマーシャルではないのですね。どちらかというと文化的な。

AA:いや、いろんなレコードを出している普通のレコード・レーベルだよ。宗教とはまったく関係がない。『サング』というのは、ヘリテージ、遺産という意味だ。

Q:最後に夢を教えて下さい。

AA:夢ね...。そうだな、ジャック・ディジョネットと共演してみたいね。

Q:ジャックはいいですね。来年、また東京で会いましょう。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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