JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 45,689 回

InterviewsNo. 262

Interview # 200 ピアニスト マイク・ノック

マイク・ノック Mike Nock  pianist/keyboard player/ composer
1949年9月、ニュージーランド・クライストチャーチ生まれ。
ハイティーンの頃からバンドを率い、ニュージーランド、オーストラリア、ヨーロッパをツアー。1968年から3年間、先進的なフュージョン・バンド The Fourth Wayで名声を確立。1981年、ECMに『Ondas』を録音、とくに日本のジャズ・ファンの間で語り継がれる名盤となる。1985年、オーストラリアに移住、演奏活動を展開しながら後進の指導に当たる。教え子に大村亘(ds)、ハクエイ・キム (p) らがいる。

Part 1:
♫ 新作『This Wolrd』はカルテットの共同プロジェクト

Jazz Tokyo:新作『This Wolrd』のリリースおめでとうございます。
マイク・ノック:このアルバムはバンドのメンバー全員が平等に貢献した共同プロジェクトです。だからこれはマイク・ノックのアルバムというよりはむしろノック、ステュアート、ウィルソン、ズワルツによるアルバムといえるでしょう。

JT:”This World” というアルバム・タイトルは、制作にあたっての動機、テーマ、あるいはコンセプトを表したものでしょうか?
マイク:その通りで、このタイトルはアルバムの基本的コンセプトを表したものです。

JT:このカルテットはワーキング・グループですか?
マイク:このグループは新しいグループで、この2月に初めてのツアーを予定しています。このメンバーで演奏したことはなかったのですが、それぞれのメンバーとは今まで何度も共演の機会があり、いつかはグループとして演奏しようと話し合ってきた経緯があります。それがこのレコーディングで実現したのです。

JT:メンバーを簡単に紹介していただけますか?
マイク:メンバーの全員がオーストラリアでは高く評価されていて、様々な賞を受賞してきています。また、それぞれがバンド・リーダーとしてのレコーディングの実績もあります。サキソフォンのジュリエン・ウィルソンはライオンシェア・レコード(Lionshare Records)という自分のレーベルを持っています。ベーシストのジョナサン・ズワルツとドラマーのヘイミッシュ・ステュアートはもう何年も一緒に演奏してきていて、オーストラリア最高峰のリズム・セクションと呼ばれることもたびたびです。

JT:曲について紹介いただけますか?それぞれ個性的で多様性も持っています。
マイク:音楽の内容については音楽を聴いてもらう以外ないだろうね。

JT:レコーディングはスムーズに進行しましたか?
マイク:2回のセッションどちらもリラックスした雰囲気の中で非常にうまくいきました。

JT:シドニーにもSONYのレコーディング・スタジオがあるのですね。
マイク:シドニーのソニー・スタジオは比較的小さいスタジオで主にポップスのレコーディングに使われています。レコーディングのあと、データ・ファイルはイスラエルに送られ、そこでサウンド・エンジニア、ヒーリック・ヘイダーがミキシングとマスタリングをしたのです。

JT:メンバーは結果に満足していますか?
マイク:全員がこの仕上がりに大変満足しています。

JT:アルバムのリリースを記念したライヴの企画はありますか?
マイク:この2月、オーストラリア東海岸を中心に初めてのツアーを行う予定です。

JT:このアルバムの制作には政府の助成があったのですか?
マイク:そうです。アルバムの制作に対してオーストラリア政府からの助成金を受けまし
た。

Part 2 :
♫ シドニーで大村亘 (ds)、ハクエイ・キム ℗ら後進の指導に当たる

Jazz Tokyo:シドニーにはどのようなきっかけでいつ移住されたのですか?
マイク:ニュージーランドから初めてシドニーに来たのは1958年のことです。その3年後、バークリー音楽院の奨学金を頂いてボストンへ移りました。そして22年間をアメリカで過ごした後、1985年、またオーストラリアに戻ってきたのです。

JT:シドニーに移住してくる前に何か音楽的なコンタクトはありましたか?
マイク:シドニーに戻ってくる前に、僕はすでに国際的に名の通ったアーティストになっており、シドニーを含め世界各地の音楽関係者ともコンタクトがあったのです。

JT:シドニーに移住してきてから日常の生活をルーティン化するまでどのくらいかかりましたか?
マイク:アメリカに住んでいた時も定期的にオーストラリアに公演旅行を行っていたし、1960年にアメリカに行く前にすでに僕はオーストラリアでは非常によく知られたジャズ・ミュージシャンになっていたのです。

JT:学校で指導を初めてのはいつ頃ですか?
マイク:最初に学校組織で音楽教育に携わったのは1985年、ブリスベンの音楽学院でのことで一年間教えた後、シドニー大学付属音楽学院に招聘され、2017年まで31年間にわたって教鞭をとっていたのです。

JT:生徒の中には日本人もいましたか?
マイク:今は音楽教育には携わっていませんが、シドニー大学付属音楽学院にはサキソフォーンのノムラ・ジュン、ドラマーの大村亘、ピアニスト・作曲家のハクエイ・キムがいました。

JT:シドニーで初めて録音したレコードを教えてください。
マイク:シドニーで最初に出したアルバムは1960年、僕自身のトリオ The Three Out による『MOVE』で、僕が20歳の時だった。このアルバムは近年ドイツでCDとして再発されたんだ。

JT:シドニーでは恒例のジャズ・フェスがありますか? 出演経験はありますか?
マイク:オーストラリアでは様々なジャズ・フェスティバルが開催されていて、1960年最初に僕のトリオで演奏して以来、僕はそのすべてのフェスで何度も演奏してきました。そこで僕が共演したミュージシャンにはジャズの巨星たちコールマン・ホーキンス、ディジー・ガレスピーやサラ・ヴォーンたちもいたね。

Part 3:
♫ ECMに『Ondas』を録音、永遠の名盤と讃えられる

Jazz Tokyo:生まれは音楽一家でしたか?
マイク:僕が10歳の時、おばの一人がうちにピアノを貸してくれて、父がそれを弾いているのを耳にしていました。当時のポピュラー・ソングでしたが、父が僕にピアノを教え始めたのです。

JT:音楽に興味を持ち始めたのはいつですか?
マイク:父がピアノを弾いているのを聞くやいなや、僕もすぐに音楽に興味を持ち始めたんだ。

JT:音楽を正式に習い始めたのはいつでしたか?
マイク:父が僕に教え始めて数か月後、父が急死したのです。その後は自分で音楽を自学自習するようになりました。何かに呼ばれ、導かれた、と強く感じたからです。

JT:プロとしての最初の仕事は何でしたか?
マイク:僕のプロとしての最初の仕事はサキソフォーニストとしてだった。カルテット (サックス、ピアノ、ドラム、ヴァイオリン)の一員としての仕事で、ダンス・ショーのバンドとして僕たちはニュージーランドの南島の各地をツアーしました。僕が14、15歳の時だったね。

JT:最初のアメリカでのリーダー・アルバムはポール・ブレイが所有していた IAI(Improvising Artits Inc.)からの『Almanac』でしたか?
マイク:そう、アメリカで僕が最初にリーダーとしてリリースしたアルバムは『アルマナック』だったよ。

JT:ポール・ブレイと出会った経緯を教えてください。
マイク:ポールに会ったのは、僕がニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジに暮らしながら演奏していた時のことだった。

JT:The Fourth Way(ザ・フォースウェイ)の誕生の経緯を教えてください。
マイク:最初に以前ジョン・ハンディのバンドで演奏していたヴァイオリニスト、マイケル・ホワイトに出会ったんだ。その時、僕はジョン・ハンディのバンドで演奏していて、僕はマイケルにジョン・ハンディのバンドに戻ってくるように勧め、戻ってきたマイケルと一緒にジョン・ハンディのバンドで演奏しながら、僕たち自身の音楽のリハーサルを重ねていたんだ。ドラマーのエディー・マーシャルとはその前にディオンヌ・ワーウィックのバンドで共に演奏していたことがあり、彼こそが僕たちのバンドにふさわしいミュージシャンだと感じていた。ベーシストについては、何人かのベーシストにあたってみて最終的にロン・マクルアになった。そうして僕たちはテッド・ゲークに出会った。彼は僕たちを信頼してくれ、マネージャーになってくれた。こうしてザ・フォースウェイが誕生したんだ。



JT:「ザ・フォースウェイ」は人気バンドになりましたね。
マイク:このバンドは3年しか続かなかったけれど当時の音楽界に大きな影響を与え、「ザ・フォースウェイ」は僕の音楽活動での成功にも大きく影響したといえます。というのも多くのミュージシャン自身がこのバンドのファンで、結果的に僕の名が広く知られるようになったんだ。

JT:日本ではECMからリリースされたエディ・ゴメス(b)とヨン・クリステンセン(ds) とのトリオ・アルバム『Ondas』(ECM1220/1982) が最も知られていると思いますが、このアルバムを制作するに至った経緯を教えてください。
マイク:マンフレート・アイヒャーから手紙を受け取り、そこに彼がどれほど僕のマイケル・ブレッカー、ジョージ・ムラツ、アル・フォスターと共演したアルバム、『イン・アウト・アンド・アラウンド』(Timeless/Muse 1979) を楽しんだかが書かれていたんだ。そして、ECMのためにレコーディングしたいかとも。もちろん「イエス!」と答えたさ。

JT:もっとも影響を受けたミュージシャンは誰ですか?
マイク:僕に最も音楽的な影響を与えたのはジャズだったらマイルス・デイヴィス、それにJ.S.バッハだね。

JT:いちばん好きなアルバムは?
マイク:僕が好きなアルバムはたくさんあって、人生を送る中で好みもいろいろ変わってきたから、この質問にこれ、という答えを出すのはむずかしいね。

 JT:最後にあなたの夢を語ってください。
マイク: 僕の夢は今まで以上により意義ある音楽を創り続けて、世界にポジティブな貢献をしていくことだ。

話をきいてくれてありがとう!

(翻訳:高橋ゆり)2020.1.26

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください