JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 62,327 回

Interviews~No. 201カンザス・シティの人と音楽 竹村洋子

#121 チャック・ヘディックス

interview-121-02

チャック・ヘディックス Chuck Haddix
『バード;ザ・ライフ・アンド・ミュージック・オブ・チャーリー・パーカー』著者
Author of 『bird ; The Life and Music of Charlie Parker』

Interviewed via e-mails by Yoko Takemura, September 2013

Questions complied by Yoko Takemura & Kenny Inaoka
Translation by Kenny Inaoka
Photo by T. Michael Stanley(portrait) & Yoko Takemura(except portrait)

 

 

 


チャック・へディックによるバード(チャーリー・パーカー:1920年8月29日~1955年3月12日)の生き様と音楽を綴った新刊が8月30日に刊行された。パーカーに関する従来の著作が主としてパーカーの音楽とレコーディングに焦点を当てていたのに対し、ヘディックスの新刊では、16才で溺れたドラッグがどのように彼の人生や音楽に影響を与えたかについて、新たに発見した資料や見過ごされて来た資料を丹念に読み直す事によって解き明かしている。
ヘディックスは1951年7月ミズーリ州カンザス・シティ生まれ。ユニバーシティ・オブ・ミズーリー、カンザス・シティ・ライブラリー、マー・サウンズ・アーカイヴスのディレクターとして、ジャズに関する様々なアーカイヴの収集と管理、リサーチを行っている。また、地元FM局のラジオ番組『フィッシュ・フライ』のプロデューサー兼ホストを務め、カンザス・シティ・アート・インスティチュートでカンザス・シティ・ジャズの歴史について、教鞭もとっている。


♪ カンザス・シティ・ネイティヴによる新刊『バード』

Jazz Tokyo : 『bird; The Life and Music of Charlie Parler』の出版おめでとうございます。 本を書くにあたり、構想、調査、執筆から出版まで何年かかりましたか?

Chuck Haddix : ありがとう! パーカーの伝記に手を付け始めたのは僕の前の著書『Kansas City Jazz: From Ragtime to Bebop-History』(2005年)を上梓したあとだ。書き上げたのは2012年。

JT : すでにチャーリー・パーカーについての本は何冊か出版されています。
彼の短い人生を綴った新しい伝記が出版され、ジャズ・ファンとしては嬉しい限りですが、チャーリー・パーカーについて、まだ語ることがあるのか?という驚きがあります。
あなたがこの本を書こうと思った動機は何ですか?

CH : 前作の『カンザス・シティ』本でパーカーに関しては3章を割いているんだ。その段階で、カンザス・シティ時代のパーカーについての新しい情報をたくさん手に入れることができたので、『カンザス・シティ』本に書いた内容をさらに充実させようと思ったんだ。とくにモチヴェイションのきっかけになったのは、パーカーのパーソナルな側面と、彼のドラッグ禍が彼の妻たちとキャリアについて与えた影響について今まで書かれた情報が極端に少ないという事実だ。

JT : ロス・ラッセルの『バードは生きている』とロバート・ライズナーの『チャーリー・パーカーの伝説』は日本でも翻訳されており、多くのジャズ・ファンに読まれています。この2人はチャーリー・パーカーと同時代を生きた人達で、実際にチャーリー・パーカーを良く知っています。チャーリー・パーカーを直接知らないあなたとしては、本を書く材料は主としてどのようなものだったのですか?

CH : まず、パーカーの何人かの幼友達にインタヴューした。それからカンザス・シティのアフリカン・アメリカン向けの新聞『Kansas City Call』を丹念に読み直した。『コール』のアーカイヴにパーカーのカンザス・シティ時代の初期のキャリアについての新しい情報をたくさん見つけた。それに、オースチンにあるテキサス大学ハリー・ランサム・センターのロス・ラッセル・コレクションにはラッセルが彼のパーカー本に書き漏らした情報に溢れていた。パーカーを知る人たちとのさまざまなインタヴューにも目を通した。『Metronome』、『Downbeat』などの雑誌の記事を通して彼のキャリアの年代記を詳細に埋めることができた。

JT : 執筆にあたり、以前見落とされていた数多くの新発見があったとのことです。また、今までに刊行された本に見つかった多くの誤報も修正されているようですね。 チャーリー・パーカーを知る上で、もっとも重要な新発見はどんなことだったのでしょうか? これはという例をいくつか教えて下さい。

CH : カンザス・シティ時代のパーカーについて今まで書かれたことのほとんどは間違っている。まず、パーカーはクリサウス・アタックス・スクールには入学していない。彼が学んだのはダグラス・スクール(カンザス州)とペン・スクール(ミズーリ州)、それにサムナー・グレード・スクール(ミズーリ州)というのが事実だ。(註1) 1927年から1932年の間、彼の家族は白人居住区に住んでいた。彼がヘロインに耽溺するようになったのは、1936年の感謝祭の日、ミズーリ州のエルドン近郊であった仕事に向かう途中遭遇した自動車事故で怪我をしたのが原因だ。(註2) パーカーが最初の妻レベッカと結婚したのは彼らがまだガキの頃だった。いずれにしても彼はカンザス・シティですでにたいへんな人気者だったんだよ。

註1:ロス・ラッセルの『バードは生きている~チャーリー・パーカーの栄光と苦難』(池央耿訳 1974 Charterhouse/草思社:初版本)には、「パーカー夫人は息子を近くのクリスパス・アタックス小学校に入れた。」とあり、続いて、「クリスパス・アタックスでは、チャーリーは模範的な生徒で、教師たちのお気に入りだった。」「クリスパス・アタックスでは平均以上だった彼の成績は、次第に下がっていった。」などの記述がある。(p36~37)

註2:前出の『バードは生きている』には、「ある時、リル・フィルはどこからかコカインを一包み手に入れて来た。チャーリーと彼はそれを嗅いだ。カンザス・シティに育つ若者にとって、冒険の種はつきなかった」(p71)、「そもそも彼はカンザス・シティで麻薬を覚えたのである。十代の友人、ドラマーのリル・フィルと相携えていろいろと行った冒険の中のそれは一つだった。」(p135)の記述がある。

JT : あなたはカンザス・シティ・ネイティヴですね。(註:1951年7月カンザス・シティ生まれ)同じカンザス・シティ・ネイティヴであるチャーリー・パーカーについて書く事にあたって、そのことが役に立ちましたか? また、あなたはチャーリー・パーカーの伝記を書いた最初のカンザス・シティ・ネイティヴと思いますが...?

CH : たしかに、僕はパーカーの伝記を書いた最初のカンザス・シティ・ネイティヴだと思う。しかし、デイヴ E.デクスターJr. が彼の著書『The Jazz Story』 (1964年) でパーカーについて書いている事実はある。また、ロバート・アルトマンもKCネイティヴのひとりだが、自作の映画『Kansas City』 (1996年) でパーカーをフィーチャーしている(この映画の制作には僕も手を貸したんだ)。
カンザス・シティ生まれという事実は、カンザス・シティ時代のパーカーを正確に描写する上で役に立っているね。たとえば、ほとんどの部外者は、カンザス・シティが、ミズーリ州とカンザス州にそれぞれ1ヶ所ずつ存在することさえ知らないんだ。(註3) この2ヶ所のカンザス・シティの間には歴史上の差異もある。南北戦争の間(註:1861~1865)、ミズーリ州は奴隷州(註:奴隷制度が認められていた州)だったし、カンザス州は自由州だった。一方でカンザス州はアルコール飲料の販売と消費を禁止する禁酒法(註:1902-1933)の最前線にいたのに対し、ミズーリ州、とくにカンザス・シティではアルコールの消費と風俗行為がおおっぴらに認められていたというわけだ。

註3:ちなみに、パーカーの一家は、1927年、パーカーが7才の時に、カンザス州のカンザス・シティからミズーリ州のカンザス・シティに移住している。また、前出の『バードは生きている』には、パーカーを含むミズーリ側のKC(カンザス・シティ)グループとジーン・ラメイを含むカンザス側のKCグループとの間でよくバンド合戦を行ったとの記述がある(p39)。

JT : あなたが直接知る、カンザス・シティ・ジャズのゴールデン・エイジに生きた人達にはどんな人がいましたか?ミュージシャンに限らず挙げてください。

CH : 僕がカンザス・シティのジャズ・シーンに出入りし始めたのは1970年代の初期の頃だ。その後、何年にもわたって、カンザス・シティ・ジャズのゴールデン・エイジの頃にシーンに係わっていた多くの人物に出会った。ジャズのゴールデン・エイジを生きた人物はたくさん知っている。たとえば、カンザス・シティ・ジャズについて最初に書物を著したデイヴ E.デスター Jr. ,「マクシャン・アンド・ハーラン・レナード・バンド」のマネジャーだったジョン・トゥミノ、クラブ・オーナーのミルトン・モリス、ジャズ・ミュージシャンならジェイ・マクシャン、ピギー・マイナー、ステップ・バディ・アンダーソンなど多数。

JT : この本はあなたにとって2005年に出版されたフランク・ドリグス氏との共著、『カンザス・シティ・ジャズ/ラグタイムからビ・ビバップへ・ヒストリー』についで2冊目ですね。カンザス・シティ・ジャズの歴史の中で、チャーリー・パーカーの存在はどのようなものであると考えますか?

CH : パーカーにはカンザス・シティの伝統のすべてが詰まっている。

JT : この本を書くのに一番苦労した事は?一番楽しかった事は?

CH : 一番苦労したのは、パーカーのドラッグ禍について書くこと、一番楽しかったのは、彼が52番街で活躍してた頃だね。はまってしまったよ。

JT : この本を200ページに簡潔にまとめた理由は?

CH : 凝縮はしていないよ。結果的にそうなっただけさ。ページなんて数えたこともなかった。200ページになるだけの話があったということさ。ページ数を増やすための水増しも一切なし。書き上げてずいぶんコンパクトになったといささか驚いているくらいさ。

JT : 本の出来に満足していますか?まだ書き足したい事はありますか?

CH : 思い返してみると、書き足したいことも2、3はあるが(出版されたあとで出くわした新しい情報なんだが)、なべて、出来にはとても満足している。

JT : この本をどんな人達に読んでもらいたいですか? 読者に一番知ってもらいたい事は何でしょうか?

CH : 誰も彼もだね。ジャズ・ファン以外の手にも届けたいと願っている。一番重要なことは不摂生を生きた結果を理解してもらうことだ。

 

♪ インプロヴァイザーとしての天性にバードの魅力を感じる

JT : あなたがチャーリー・パーカーを初めて聴いたのはいつでしょうか?どのようなきっかけで?その時、どんな印象を持ちましたか?

CH : 1970年代の初め頃にミズーリ=カンザス・シティ大学のブックストアでチャーリー・パーカーのレコードを買った。面食らったね。最初は理解できなかったけど、パーカーの方から入り込んできてくれた。

JT : チャーリー・パーカーの何に一番魅力を感じますか?

CH: インプロヴァイザーとしての天性だ。それが彼の天与の才能だよ。

JT : 個人的に一番好きなチャーリー・パーカーの演奏、ベスト3を挙げて下さい。

CH:『ウィチタ・セッションズ』収録の<チェロキー>(アセテート盤/1940)
『ヤードバード組曲』(Dial Records/1946)
『ウィズ・ストリングス』収録の<ジャスト・フレンズ>(Verve/1949)

JT : チャーリー・パーカーのジャズ界での最大の功績は何だと思いますか?

CH : パーカーは、ジャズに限らず音楽全般を変えた過渡期を生きた人物だ。バードの前に音楽はあったし、後にも音楽はある。彼は、作家や詩人、ヴィジュアル・アーチストにも影響を与えているね。

JT : チャーリー・パーカーが存在していなかったらジャズの方向性はどうなっていたと思いますか?

CH : パーカーがいなくてもディジー・ガレスピーやモンク、バド・パウエルがビ・バップを発展させただろうとは思う。しかし、パーカーが居たときほどのスピード感はなかったろうし、ビ・バップ以前のジャズからの変化もそれほどではなかったと思う。

JT : チャーリー・パーカーが健康で長寿だったら、彼の音楽はどのように変化したでしょうか?また、ジャズの方向性をどう変えたと想像しますか?

CH : サード・ストリームやクール・ジャズなどジャズの発展に貢献し続けただろうと思う。

JT : 誰がチャーリー・パーカーのスピリッツと音楽コンセプトを一番引き継いでいると思いますか?

CH : マイルス・デイヴィスが彼の直系だ。彼が、クール派、モーダル・インプロヴィゼーション、ジャズ・ロック、ファンクなどその後のジャズの展開をリードして行った。

♪ 生まれ故郷のカンザス・シティが最高!

JT: あなた自身について伺います。いつ頃から音楽を聴き始めましたか?どんな音楽を聴いて育ちましたか?

CH : 親父はカントリー・ウェスタンが好きだった。僕自身はラジオでロックン・ロールとソウル・ミュージックを聴いて育った。20代の初め頃、ジャズとブルースを聴き始めた。

JT: あなたの音楽の知識量はジャズ、ブルース、リズム&ブルース、ロックン・ロール、ジャンピン&ジャイブ、ザディコからポップスまで幅広く膨大な量ですね。クラシックや 他のジャンルの音楽は聴きますか?チャーリー・パーカーはストラビンスキーをよく聴いており、また多くのクラシック・ミュージシャン達がチャーリー・パーカーに興味を持っていた様ですが。

CH : クラシックも好きだが、たいした知識もないし、聴く機会も多いとは言えない。

JT : 特別な音楽の想い出はありますか?

CH : 1970年代の初めに 12th/Vineでカウント・ベイシーを見て、1980年にMMF(ミューチュアル・ミュージシャンズ・ファウンデーション)でジョー・ターナーを聴いた。ビッグ・ジョー(ターナー)に一杯ご馳走したんだ。ビッグ・ジョーに一杯だけなんてあり得ないんだけどね。彼はいつもウィスキー2パイントとビール2本をオーダーする男だからね。

JT : 一番好きなミュージシャンは?やはりチャーリー・パーカーでしょうか?

CH: パーカーは好きだけど、ビル・エヴァンスも相当聴き込んでいる。

JT:音楽以外に何か好きな事は?秘密の特技はありますか?

CH : 妻と2匹の犬、フィービーとベックスと散歩すること。ワークアウトと重量挙げも好きだ。特技はダンスだよ。

JT : 現在、UMKC・ミラー・ニコラス・ライブラリー、マー・サウンド・アーカイブスのサウンド・エンジニアであり、ディレクターですね。ここで働きだしたきっかけは?現在、どのような仕事をしていますか?

CH : 歴史的な録音物のコレクションをまとめるために1987年から働き出した。それが今では35万点の録音物を集大成するまでになった。加えて、スペシャル・コレクションをまとめることにも手を出している。直近では、世界中の学者のカンザス・シティ・ジャズのリサーチの手助けもしている。
http://library.umkc.edu/spec-col-home
http://library.umkc.edu/marr

JT : 次の仕事のプランは何かありますか?

CH :「クーン・サンダース・オリジナル・ナイト・ホーク・オーケストラ」について本にまとめたいと思っている。彼らのキャリアは1920年代と1930年代の好景気と大不況の写し鏡になっている。

JT : カンザス・シティで、例えばチャーリー・パーカー・ミュージアムを建てるとか、何かそのような運動を始めようと考えていますか?

CH : アメリカン・ジャズ・ミュージアムにもパーカーの良く出来た展示コーナーがある。独自のミュージアムがあってもいいね。

JT : 近年のカンザス・シティでの市民やミュージシャン達のチャーリー・パーカーに対する扱いをどう思いますか?

CH : 彼の生涯や音楽を愛でるためにもっと尽力できると思う。10月2日に予定しているボビー・ワトソンとハーモン・メハリを招いたユニティ・テンプルでのサイン会とコンサートがその手始めだ。

JT : カンザス・シティには、今後も住み続けますか?この街のどんなところが好きですか?

CH : 生まれ故郷のここが好きだし、離れるつもりはないよ。カンザス・シティが最高だ。

JT : あなたの夢を教えてください。

CH : アメリカから銃を追放することと、世界平和。

JT: どうもありがとうございました。
この本の出版とあなたのチャーリー・パーカーに対する素晴らしいトリビュートを機会に、多くのジャズ・ファンがカンザス・シティを訪れ、カンザス・シティ・ジャズの活気がさらに増すことを祈っております。

(2013年9月)

*関連リンク
http://www.press.uillinois.edu/books/catalog/66xkc6nx9780252037917.html
https://www.facebook.com/BirdTheLifeAndMusicOfCharlieParkerByChuckHaddix?fref=ts

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください