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InterviewsNo. 300

Interview #258 崔善培(チェ・ソンベ)

Text and photos by Akira Saito 齊藤聡、m.yoshihisa(noted)
Interview:2023年3月13日(月) 三宿にて
Supported by Kaori Komura 香村かをり

2023年3月、崔善培(チェ・ソンベ)が再来日した。2019年以来4年ぶりである。前回と同様に、香村かをり(韓国打楽器)がツアーの企画を行った。香村は、前回崔に一緒にやろうと声をかけられたことを機に即興演奏を始めた経緯があり、今回はすべてのコンサートで共演した。

インタビューの間、崔は終始にこやかな雰囲気だった。途中でかれの携帯に<I Remember Clifford>の着メロが流れたりもして、じつにチャーミングな人なのだった。

韓国フリージャズの誕生

1942年、江華島生まれ(現在の仁川市江華郡江華邑、仁川空港の隣の島)。崔善培は、金大煥(キム・デファン、パーカッション)、姜泰煥(カン・テファン、サックス)とともに韓国においてフリージャズを始めた伝説的な人物である。その起点はこの3人がトリオを結成した1978年と認識されることが一般的である。だが、その前には知られざる胎動があった。

話は数年さかのぼる。1974年、姜泰煥をリーダーとするセクステットで、ソウル・ロイヤルホテルのナイトクラブにおいて定期的に演奏をしていた。メンバーは姜、金、崔に加えて、ギター、ベース、ピアノ。もちろん端正なアンサンブルが中心であり、ダンスミュージックでもあった。ところが、リハーサルのとき、姜がいきなり「フリージャズを演ってみよう」と言い出した。すでに、姜も崔もオーネット・コールマン(サックス)を聴いていたのだ(*1, 2)。ただ、このときは観客の前で演奏するわけでもなく、半年か1年かでグループは解散した。

そして1978年になり、ミュージシャンの吉屋潤がかれらに重要なきっかけを与えた(*3)。吉屋は「韓国ジャズ同好会」を作り、ジャズが好きな者を集め、スタンダード、スイングなど人数割りを行った。その中にフリージャズもあり、姜のグループにいた6人に声をかけた。空間舎廊での初回演奏後に3人が離脱し、金、姜、崔の3人が残った(*4)。空間舎廊では月にいちどの演奏を行い、観客も少なくはなかった。ただ、人により反応の違いが大きかった。崔の友人が観にきて「これが音楽と言えるのか」と酷評するなど、ミュージシャンの拒絶反応にはたいへんなものがあった。対照的に、現代舞踊や現代美術などアヴァンギャルド領域の人、クラシックでも現代音楽の人などは好意的に受け容れたという。

意外というべきか、「韓国ジャズ同好会」が作ったグループのうち残ったのはフリージャズだけだった。かれらは10年間ほど活動を続けた。

日本への伝来

姜貞子(カン・チョンジャ)という在日コリアンのプロモーターがいた。ソウル大学校の音楽大学に留学していて、ピアノを弾いていた。彼女が空間舎廊に演奏を観にきてくれて、その後、知己のジャズ評論家・副島輝人にかれらのことを紹介した。やがて副島も1983年に渡韓して録音し、翌84年には東京FMのラジオ番組で流した。

いっぽう、金徳沫(キム・ドクス)が結成した打楽器グループ・サムルノリが初来日したのは1982年のことである(*5)。近藤等則(トランペット)もこの公演を観て影響を受けたひとりだった。サムルノリと金・崔・姜のトリオとの公演を観るためにソウルに来た近藤を、金徳沫が姜らに紹介した。このことが近藤による金・崔・姜の「東京ミーティング’85」招聘につながった。これを機に、かれらは自分たちのグループを姜泰煥トリオと命名した(*6)。

崔は「日本での反応はすごかった」と振り返る。誰もが韓国にジャズがあるとは思っていないところに、かれらにしかない独創的なサウンドが炸裂したわけである。公演が終わってから取材が来た。NHKもテレビで15分を割いて紹介した。

これが韓国フリージャズの最初の日本伝来である。

高木元輝

1988年か89年に、ヨーロッパからペーター・ブロッツマン(リード)とハン・ベニンク(ドラムス)のデュオが来韓公演を行った。ブロッツマンは崔に対し、日本に行ったことがあるか、サックスの高木元輝を知っているかと訊いた。高木のことを知らなかった崔に、ブロッツマンは、日本でいちばん良いミュージシャンだから会うようにと強調した。吉屋は高木の師匠筋にあたる人物だが、崔が高木の存在を知ったのは吉屋からではなくブロッツマンからであったのだ。

その後、山口県防府市でカフェ・アモレスを経営していた末冨建夫が、崔、金と高木を共演させようと招聘した。崔が会いたいと思っていたんだと高木に言うと、高木も「僕もそう思っていた」と答えた。そんなこともあって、崔は98年に高木と一楽儀光(ドラムス)を韓国に招待した。

高木は在日コリアンだが、なにも崔は高木の音を同胞として判断したわけではない。高木は人として素晴らしかった。音には祝祭感があり、深みがあり、魂がこもっていると感じた。

なんどかの共演を経て、2002年の横浜ジャズプロムナードにおいて、崔と沖至のふたりのトランぺット、井野信義のベース、小山彰太のドラムス、さらに高木のテナーという面々のライヴが行われた。組んだのは副島輝人である。高木の体調はひどく悪かった(*7)。そして帰国後の同じ年に豊住芳三郎から連絡があり、高木が亡くなったことを知った。豊住が連絡のつかない高木の様子を近所の友人に見に行ってもらったところ、ドアをノックしても反応がなく、既に息絶えていたのだと聞かされた。

崔は、他の共演者についても次のように語った。

齋藤徹(ベース)

いつ初めて会ったのか覚えていないが、90年代だろうか(*8)。韓国で姜泰煥トリオと共演した。温和な人だった。

吉沢元治(ベース)

1991年か92年、光州でキムチフェスティヴァルが開かれた。崔のもとにも日本人ミュージシャンを紹介してほしいとの依頼があり、崔は吉沢、豊住、高木を呼び寄せた。そのあと95年には崔が金大煥とともに日本に渡り、吉沢、広瀬淳二(サックス)と共演した(『アリラン・ファンタジー』としてアルバム化された)。

やさしいおじいちゃんで、丁寧に接してくれた。

片山広明(サックス)

すごく親しかった。いい友達だった。1987年(*9)に片山、井野信義(ベース)、梅津和時(リード)と姜泰煥トリオとで北海道にツアーに出た。釜山から下関までフェリー、福岡に移動して北海道まで飛行機。札幌と函館、それともっと北の町で演奏した。高田みどり(パーカッション)も参加した。函館ではかつて郵便局だった古い建物で演ったことを覚えている。

ワイルドで情熱的、深みのある音だった。お酒を飲みすぎて身体を壊したのが残念だ。

沖至(トランペット)

90年代にカフェ・アモレスで初共演した。私の音と比較しても深く、日本最高のトランぺッターだったと思う。副島さんも沖さんが一番だと話していた。高木さんと同じ1941年生まれで私よりも少し上。(筆者が高木の戸籍が1939年生まれとなっていることを言うと)それは驚きだ。だがその時期は戦中で混乱もあったし、戸籍が実際と違うことは普通にあった。私も実際は42年生まれだが戸籍上は43年だ。

近藤等則(トランペット)

この人の音も深かった。大したものだった。ブロッツマンとのデュオをYouTubeで観ることができるがなんとも言えない(嘆息)。

アルフレート・23・ハルト(サックス)

2003年にはじめて会って、かなり活動を共にした。あのアイデアの豊かさはやはり世界クラスで、影響を受けた。

2007年、統営(トンヨン)でのユニサン音楽祝祭(※作曲家の尹伊桑が主催)のとき、アルフレート、ドイツのバスクラリネット奏者、パク・チャンス(ピアノ)とともにソウルでハウスコンサートをやった。そのバスクラ奏者は十何本ものあらゆるサックスを持ってきていたりして、「クラシックはつまらない、フリージャズを演りたい」と話していた。いい音だったが、ドイツに戻って1年ほどして49歳で亡くなったと聞いた。

同じ2007年には原田依幸(ピアノ)がヘンリー・グライムス(ベース、ヴァイオリン)、トリスタン・ホンジンガー(チェロ)、ルイス・モホロ(ドラムス)、トビアス・ディーリアス(サックス)を率いて韓国に来た。私は韓国から唯一参加した。このときアルフレートがステージ上で傘を開くパフォーマンスをしたことをよく覚えている。ヘンリーのマーガレット夫人はいつもかれと一緒にいた(*10)。そしてコンサートの2日後、ヘンリーが私のライヴを観に来て、ヴァイオリンで参加してくれた。みんな大した人間だった。

(文中敬称略)

(*1)軍政の全斗煥政権下で外国から流入する音楽が規制されていたものの、望ましくないとする音楽は主に共産主義、日本文化、反儒教的規範などに関連したものが中心だった(金珉廷「1970年代以降の韓国禁止歌と韓国社会」、東京外国語大学大学院 言語・地域文化研究 no.18、2012年)。
(*2)もとより崔は幼少期からAFKN(米軍放送網)のラジオでルイ・アームストロングやハリー・ジェイムスなどのジャズトランぺッターをよく聴いており、その影響もあって20歳のとき軍楽隊に入った経験をもつ。但し、ことフリージャズについては当初は公演内容をKCIA(韓国中央情報部)に届け出なければならなかった。(「崔善培、インタビュー」、『그루터기』(月刊Gurutogi)、2002年4月号)
(*3)吉屋は植民地朝鮮の平壌近くに生まれ、朝鮮戦争直前にジャズを求めて日本に渡り、本名の崔致禎ではなく作家の吉屋信子と谷崎潤一郎から取って吉屋潤を名乗り、サックス奏者として活躍した人物である。吉屋は韓国に戻ると多くのヒット曲を作り、大成功した。(丸山一昭『離別(イビョル) 吉屋潤』、はまの出版、1995年)
(*4)齊藤聡「阿部薫の他国への伝播と影響」(『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』所収、文遊社、2020年)
(*5)在日本韓国文化院における公演は、千野秀一(ピアノ)や山下洋輔(ピアノ)らに大きな衝撃を与えた。(香村かをり「韓国伝統打楽器演奏『サムルノリ』―異国の音楽はいかに日本に広まったか―」、2018年度放送大学卒業研究論文)
(*6)大倉正之助『破天の人 韓国のスーパーアーティスト金大煥』(アートン、2005年)
(*7)齊藤聡「高木元輝、後半生の内省と再燃焼」(『Art Crossing #3:特集・高木元輝』所収、TPAF、2022年)
(*8)齋藤徹は1992年から数年間集中的に渡韓しており、その時期と考えられる。(齊藤聡『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、カンパニー社、2022年)
(*9)崔本人は1986年と記憶しているが、87年の可能性が高いと考えられる。
(*10)故マーガレット・グライムスはニューヨークで出会った筆者に対し、このときのハルトの演奏についての怒りをあらわにした。コンサートから10年も経った2017年のことである。

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』、『オフショア』、『Jaz.in』、『ミュージック・マガジン』などに寄稿。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

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