殿下と帝王と、そしてプーさん
プリンスが亡くなった。
近年大物ミュージシャンの逝去が続いているが、プリンスの訃報に関しては音楽関係者やメディアの「動揺」が格段に違う印象がある。情緒的な感傷だけに収まらない「喪失感」。それは、プリンスがブラック・ミュージックの歴史における太い幹を形成していたからだろう。エリントンやマイルス、ジミヘン、JB、マーヴィン・ゲイ、スライ・ストーンのように。
かつてマイルスは、1990年に出版された自伝『Miles Ahead』の中でプリンスをこう評していた。“He can be the new Duke Ellington of our time if he just keep at it”。これは最大級の賛辞と言っていいだろう。「俺たちの時代のデュークになれる奴だ」。帝王は殿下を「王道」の継承者として認めていた。この自伝では「1982年に聴いた奴(プリンス)の音楽はたまらなく興奮させるものだった。コイツは何か違うことをやろうとしているから、注視して行こうと決めたんだ」と記されている。
プリンスは1978年に『For You』でデビューを果たし、以後『Prince』、『Dirty Mind』、『Controversy』と毎年アルバムをリリースし、マイルスが彼を認知した1982年には代表作の1枚『1999』をリリースしている。前年にカムバックして精力的に活動を再開させていたマイルスのアンテナに引っかかったのも、おそらくこれだろう。預言者ノストラダムスが示す世紀末黙示録かの如きタイトルのアルバムは、極めて完成度の高いROCKであり、FUNKであり、POPであり、そして何よりゴージャスでダンサブルな1枚だ。かつてColumbiaレーベル社長のクライヴ・デイヴィスに「オレのアルバムはJAZZでなくROCKのコーナーで売れ!」と喧嘩をふっかけたマイルスは、プリンスの音楽に同種族のDNAを感じ取ったのかもしれない。そして1984年には、あの大傑作『Purple Rain』を、マイルスは1985年にマイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーのヒット曲やRAP(STINGが参加!)を取り込んだPOPテイスト満載の『You’re Under Arrest』をリリースする。
マイルスとプリンスが実際にコラボレーションし始めるのは、マイルスがワーナーに移籍した1986年前後からだ。移籍第1作『TUTU』は、トミー・リピューマの初期構想ではプリンスとの合作だったと噂された。プリンスは同年『Parade』、翌87 年には『Sign ‘O’ The Times』と大傑作を連発。さらに当時はお蔵入りとなった問題作『Black Album』もこの時期に創られている。テープ音源のやり取りも盛んに行われ、マイルスはインタビューで「ヤツはギターやピアノのプレイもイケてるぜ!」と語っていた。1988年には、ミネアポリスのペイズリーパークで毎年行われているニューイヤーズ・イヴ・コンサートのステージでマイルスが1曲ゲスト参加し(You Tubeに映像がアップされては削除されることが繰り返されている)、マイルスは自分のバンドでプリンスの書き下ろした曲「Penetration」や「Movie Star」(モントルーDVDボックスのDisc-7に収録。ライブ・アンダー・ザ・スカイ‘88でイントロを耳にした時は「プリンスの曲だ!」と興奮したことを覚えている)を演奏している。また、実際にペイズリーパーク・スタジオでの非公式レコーディングも行われているが(のちにPrince with Miles Davis & Friends名義で海賊盤『Crucial』が出回るも実際に2人の共演トラックは「Can I Play With U?」の1曲のみ)、公式録音として正式リリースされている共演はチャカ・カーンのアルバム『C.K.』に納められた「Sticky Wicked」だけという現時点での状況だ。
かつてマイルスとジミ・ヘンドリックスの共演がプランされ、実際にマイルスからの譜面(メモ程度らしいが)があったとのことだが、ジミの休止によってその夢は実現しなかった。しかし、マイルスとプリンスは僅かな時間であるがそのDNAを交錯させることができた。これは音楽史の連続性において「僥倖」といっていいだろう。極私的にはマイルスが存在している限り、自分にとって音楽は「現在進行形」のものだった。そしてマイルスが亡くなった1991年のあの日も、その伝承者としてプリンス(そしてプーさんも)がいたことで幾ばくかの安堵を覚えることができた。しかし今、私の中で誰がそのDNAを継承するかは暗中模索である。リズムとサウンドのスケール感で唯一無二の存在となっているテクノ界の帝王ジェフ・ミルズ(若い時にマイルスに大きな感銘を受けたと話していた)、マイルスとPOPの融合性を継承しようとしているロバート・グラスパーなど、個人的に注目しているアーティストは数多いるが、まずは2人の共演の記録が正式な形とクオリティで世に出ることを待つことにしよう。ペイズリーパークだけでなく、ワーナーにもプリンスの楽曲をマイルス・バンドでレコーディングしたマスターが3曲眠っているという。そうした意味で、帝王と殿下のコラボレーションはまだ「現在進行形」である。
本稿のエピーローグとして、プーさんの話を。
1987年か翌年の春にNYのロフトで『Black Album』の話になった時、プーさんはこんなことを言っていた。「友達からテープをもらったんだけど、1曲目を少し聴いて止めたんだ。プリンスはオレがブギバンドでやろうとしているダンスミュージックと同じ方向性なんだって気付いてね」。
1978年に隠遁中のマイルスのスタジオ・レコーディングに参加したプーさんは、やがて『ススト』『ワン・ウェイ・トラベラー』の制作に没頭し、そのサウンドをステージで発展させるために1988年にAAOBB(オールナイト・オールライト・オフホワイト・ブギ・バンド)を結成し、同年6月「渡辺貞夫ブラバスクラブ」に来日。その翌年にはショートツアーを行いライヴ・アルバムを残している。マイルスとプリンスが交錯した時期、同じマイルスDNAの継承者である菊地雅章もプリンスを強く意識していたことは非常に興味深い。プーさんもその意味で、私にとっては to be continued….な存在だ。
マイルスを軸としたプリンスと菊地雅章のトライアングル。未知の音への興味は尽きない。
上原基章 Motoaki Uehara
元ソニーミュージックエンタテインメント・洋楽担当ディレクター