追悼 “Dr.Jazz” 内田修 「ドクター内田の死を悼む」
内田修氏が亡くなられたと知った瞬間、かつて親しくさせていただいた日々が走馬灯のように甦った。私が知っているジャズ通の中で、氏ほどジャズ演奏家、とりわけ日本のジャズ・ミュージシャンに心を寄せ、彼らの音楽やプレイを愛し、ひいては日本のジャズの活性化に心をくだいた方はいなかったのではないかと痛切に思う。日本のモダン・ジャズを牽引した渡辺貞夫、日野皓正、佐藤允彦、山下洋輔、故・富樫雅彦、故・菊地雅章ら第一線に台頭した多くの演奏家の音楽を愛し、活動を支援し、彼ら演奏家を軸にしたジャズのさまざまなイヴェントを立案して、沸き立つ本邦ジャズ界の新しい潮流の後ろ楯となった氏の在りし日の活きいきした姿を思い浮かべるとき、万感の思いが脳裏を去来する。訃報に触れたとき、真先に脳裏に甦ったのは、氏との突然の出会いとそれにまつわる懐かしい思い出だった。
時は1970年6月。ところはスイスのモントルー市。この年、初めてヨーロッパから米国への海外見聞に出た私は、同市で開催される名高いモントルー・ジャズ・フェスティヴァルを全5日間にわたって聴いた。このジャズ祭視察をスケジュールに組み込んだのは、ヨーロッパ屈指のジャズ祭であることに加え、渡辺貞夫が新結成したグループ(増尾好秋、鈴木良雄、角田ひろ)で出演する舞台をじかに見ておきたかったからでもある。その広い会場で私は内田修氏と出会った。どちらから声をかけたか今ではまったく覚えていないが、初対面とは思えない気さくさで話しかける氏のにこやかな笑顔は今も瞼に焼き付いている。オープニング・パーティーから全5日間、内田さんとはすっかり打ち解けて、話も弾だ。何しろこのジャズ祭での日本人といえば私たち2人とジャズ祭後半に駆けつけた安斎雅夫さんの3人しかいなかったからだ。もう46年も前の話だが、デクスター・ゴードン、ジュニア・マンス、ハービー・マン、ビル・エヴァンス、ユセフ・ラティーフ、トニー・ウィリアムスのLifetime、ジェリー・マリガンらの演奏する姿は今でも鮮やかに甦る。彼らはみな世を去って久しい。Fourth Wayを率いたマイク・ノックに会ったのもここモントルーだった。振り返れば、もう半世紀近くも前のことになる。
期間中、何度か内田さんは高級レストランに誘って美味しい料理をごちそうしてくれたが、そればかりでなく思わぬことで途方に暮れていた私の危機を救ってくれたのも先生だった。私はカメラ(アサヒペンタックス)を常に携行していたが、フェスティヴァル期間中に故障するというアクシデントに見舞われるということがあった。スイング・ジャーナル誌に書くリポートに写真を添えて送らなければならなかった私は焦った。市内のカメラ専門店で診てもらったものの、どの店からも匙を投げられ、お手上げ状態となった。すると先生はジャズ祭が終わった翌日、わざわざ専門店のあるチューリッヒまでレンタカーをとばしてくれたのだ。おかげで故障がなおった。実は、この話には後日談がある。ヨーロッパの旅を終えたあと、私は米国に渡ってニューポート・ジャズ祭を取材することになっていた。それはニューポートで催される最後の野外フェスでも、病癒えたルイ・アームストロングが演奏に復帰する舞台でもあった。現地に入って、かなりの日本のファンや関係者がやってきているのが逆に新鮮だった。その中に写真家の中平穂積さんがいた。ルイのステージが始まる直前だったか、中平さんがカメラの具合が悪くなったので助けて欲しいという。やむを得ない。人助けだ。故障が治った愛用のカメラは、かくして大会期間中、中平さんの手に渡った。
つまり、この年のニューポート・ジャズ祭で中平さんが撮ったサッチモの写真はアサヒペンタックスによるもので、つい最近再販した氏の写真集にも病後で痩せ細ったアームストロングの姿があった。もし、スイスで私が内田さんと巡り会わなければ、私のカメラは故障したままだったろうし、ルイ・アームストロングの姿も幻のままで終わることになっただろう。
中平さんの撮ったルイの痩せた写真を見るたびに、私は内田さんの優しい人柄と屈託のない笑顔を思い出してはそっと微笑する。その内田さんがついにあちらの世界に行かれたと知って、別れる前に病床の先生を見舞えなかった不義理を恥じている。内田さん、どうぞ安らかにお眠り下さい。あちらの世界で富樫雅彦や菊地雅章に会ったら、くれぐれもよろしくとお伝え下さい。
*写真提供:中平穂積