JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 53,679 回

No. 228R.I.P. 生悦住英夫

R.I.P. 生悦住英夫


photo:Twitter,Instagram→@kanakoshirokuro

かつて東京の明大前にあった名物レコード店「モダーンミュージック」の店主であり、音楽誌『G-Modern』の出版主であり、P.S.F. Records のオーナープロデューサーであった生悦住英夫さんが、2月27日に逝去されました。享年67。

元々レコード店に勤めていた生悦住さんは、ジャンル問わず様々な音楽に造詣の深い方でした。バイヤーとしてジャンルに偏らずに大量の音源を聴いていたと思うのですが、そうして絞り込まれた音楽が世間で評価されていなかった事が、個性ある音楽を紹介する活動に繋がったのでしょう。生悦住さんが「近藤くん、これ聴いてみてよ」と推薦して聴かせてくれる音楽は実に個性あふれるものでした。サイケデリックロック、フリージャズ、現代音楽、ノイズ、津軽三味線、アシッドフォーク、フリーインプロヴィゼーション、古楽…『G-Modern』誌は今も入手可能ですが、あの雑誌で推薦されていたような、当時はジャンルすら定義されていなかった個性的なレコードが店内に所狭しと並び、BGMで流れていました。
生悦住さんは豪放磊落な人でもありました。私が若い頃というのは、「近ちゃん、今日気分悪いから代わりに店番しといて、酒は飲んでいいから」とマスターがどこかに行ってしまうロックバーや、学生でも入れてくれるストリップ小屋などが辛うじて残っている時代でした。SPKの次に盲僧琵琶が流れるモダーンミュージックもそうした匂いが残る店でした。改築前のモダーンミュージックの下には喫茶店があり、そこにある雀ピューターに勝つとコーヒー無料券を貰えるのですが、生悦住さんは無類の強さで、ミーティングといってはいつも無料券でコーヒーをご馳走してくれました。その店が取り壊しになる頃、「急いであと30杯飲まないといけないんだよ」なんて仰って、二人して吐きそうになりながらコーヒーを飲み続けた事もありました。ある時には「今月の家賃が払えそうにないからパ○ンコ行ってくる」と店を出て行き、数時間待たされたこともあります。そして本当に家賃を調達して戻ってきた時には笑いました。左翼思想家とプロレスラーと漫画家崩れとミュージシャン(私)と生悦住さんで呑んだ事もありましたが、こういう面子で喧嘩にもならずに笑い転げられた事は、今にして思えば生悦住さんの人徳あっての事だったと思います。笑い話は他にも幾らでもありますが、生悦住さんとお付き合いのある方々は、皆それぞれにこういう思い出があるのではないでしょうか。

今、インターネット上に転がっている生悦住さんの情報を見ると少しニュアンスが違うのですが、私が直接聞いた話では、生悦住さんが根城を明大前に定めたのは、キッドアイラック・アートホールで行われていた高柳昌行さんの定期公演が見やすくていいと思ったからだそうです。「ライブに行ったら客が自分と浦邊(雅祥さん)しかいなかった事もあった」と言っていた事もありました。色々なミュージシャンとお付き合いがあり、また実際に色々な音楽が好きであったのだと思いますが、私に対しては「本当に紹介したいと思っていたのは高柳さんや阿部(薫)さんや吉沢(元治)さんの音楽なんだよ」と仰っていました。まあそれは私に対してだからそういうニュアンスの表現をしたのでしょうし、違う傾向の方にはまた違う話し方をしているでしょう。それでもそれぞれに話している事が、まったくの方便ではないように思います。私の印象では、現役のミュージシャンで生悦住さんが最も目をかけていたのは、サックスの浦邉さんであったと思います。ところが生悦住さんは私によく「浦邉と近藤君と今井(和雄)さんのCDは本当に売れないんだよ」と笑って仰っていました。それでも、私を含めたこれらミュージシャンのCDを作り続けてくれたのは、そこに高柳さんや阿部さんに繋がる何かを見ていたからではないでしょうか。最後の頃のP.S.F. は経済的に大変困窮していたようでした。そんな時、「近藤君、ようやくお金の目途が立ったから近藤君のCDを出そう」と言って下さった時には涙が出そうになりました。それが『アジール』という作品なのですが、その時すでに生悦住さんの体調は病に蝕まれており、仕方なく私自身が私のCDのプロモーションをする事になりました。そして「アジール、JazzTokyo さんが年間ベストに選んでくださいましたよ」と伝えると、我が事のように喜んでくださいました。そして、「近藤君、あのアルバムはすごいよ。近藤君はもうP.S.F. にいるような器のミュージシャンじゃないよ」とも…。私は本を書くために長い間音楽活動を止めた時期があるのですが、その期間は応援して下さった生悦住さんの期待を裏切ってしまっていました。それより最善はなかったとは思うのですが、それでも何処かに悔恨の念が残っています。私の次に出したCDは川島誠さんの作品でしたが、これがP.S.F. 最後の作品となりました。「高柳さんも清水(俊彦)さんも亡くなって、ああいう音楽を出来る人も、その良さを伝えられる人もいなくなってしまった。近藤君、彼のためだけでなく、日本の音楽のために推薦文を書いてあげてくれないか」と言われ、私はライナーノートを書かせていただきました。これが、生悦住さんとした最後の仕事でした。

その後も、生悦住さんにはリリースして世に出したい音源があるようでした。私が直接聞いた話で覚えているのは、浦邉さんのライブ映像、P.S.F. の記念すべき1号作品を作った成田宗弘さんの音源、今井さんのサティ演奏。しかし、入院をし始めると、演歌が聴きたいと仰る機会が増えるようになりました。同窓会にも頻繁に参加するようになったとの事で、幼年時代を思い出していらっしゃるようでした。「ヒグチ(ケイコ)さんの歌と近藤君のギターで演歌を聴きたい」と仰られたので何曲か録音したのですが、病床にも拘らずそれを海外のレーベルに推薦してくださいました。更に、カヘキシーとなって具体的に自分の余命を感じざるを得ない頃になると、船村徹さんのCDを作りたいと仰られました。その実現を相談されたので、「条件が折り合うかどうかは分かりませんが、船村さんも話は聞いて下さると思いますよ」と答えました。さらに、「船村さんは既にギターが弾けないのでどうにかしないと」と仰られていたので、「船村さんが許して下さるかどうか分かりませんが、私で良かったら演奏しますよ」と答えました。しかし、心苦しいのですが、その日は来ないと思った上での返答で、彼を勇気づけたい一心で咄嗟に出ただけの言葉でしかありませんでした。

見舞いには何度も行っていたのですが、御逝去なさる3日前にサックスの川島さんと一緒に行った見舞いが最後となりました。病院や自宅近所の喫茶店でなく、ご自宅にあがらせていただいたのは初めてでした。外から光がたくさん入る心地の良い部屋で、外には芝が綺麗に映え、梅もまだ咲いていました。私が生悦住さんとミーティングする時は、仕事の話などは最初の数分だけ、あとは互いに延々と雑談をして笑ってばかりいたのですが、その日ばかりは気安く言葉をかけることが出来ませんでした。喋るのも辛そうな状態だったので、話す負担すらかけさせたくない気持ちでした。私は作り笑顔で、部屋の雰囲気を暗くしないようにする事がやっとでした。川島さんが「何か聴きたい音楽はありますか」と訊くと、やはり「船村徹」と答えられました。ベッド横にはCDが積んであり、その一番上にあったのが船村徹さんの「希望」でした。これは、延命治療を拒否して病院から出てきた生悦住さんへの退院祝いに、ヒグチケイコさんと私で一緒に録音したもので、渡した後にすぐ電話が来て「1億円の退院祝いだ」と喜んでくれた音源でした。次があると思ってもらう為だけに「次来るときはギターを持ってくるので、船村徹を好きなだけ生演奏しますよ」と伝えてお暇しましたが、次などないだろう事は私も分かっていました。

他界なさる数日前、P.S.F. の有志を募ってCDを制作し、その売り上げを渡して生悦住さんを少しでも助けようという話が来ました。〆切まであまりにも時間がなさすぎるのでこれから作曲は無理、しかしあのような衰弱状態で、加えて最後には演歌ばかりを所望し続けた生悦住さんに、私が普段挑んでいるような音楽や、あるいはP.S.F. 的なハードな音楽を聴かせるのは無神経と思い、生悦住さんの好きだった美しいアーリージャズの曲をギター独奏にアレンジ、録音の準備をはじめました。ところが、アレンジも練習も済んであとは録音だけという所で訃報。死の恐怖を和らげるための音楽の制作を継続する事が、気持ちとして出来なくなってしまいました。今さら援助もないだろうと思い、生悦住さんを送り出す事だけを考え、バッハの無伴奏ヴァイオリンを提出期限いっぱいまで練習して提出させていただきました。クラシックの専門家でない私は、難曲指定されているような曲を体に入れる場合は1曲1か月以上掛かるのですが、これほど速く体についたのは、どこかで生悦住さんが力を貸して下さったのかも知れません。

海外文化の吸収に徹した戦後日本の文化状況の中で、戦争直後に生まれた世代が持つ強烈な個性と矜持を携えた方。いつしか物真似ばかりになってしまった日本の音楽シーンの中で、戦後の西洋と日本の文化衝突から生まれた独特の音楽文化様相を海外に伝えた最大の立役者と思います。長い闘病生活、本当にお疲れ様でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

2017年3月9日 近藤秀秋

近藤秀秋

近藤秀秋 Hideaki Kondo 作曲、ギター/琵琶演奏。越境的なコンテンポラリー作品を中心に手掛ける。他にプロデューサー/ディレクター、録音エンジニア、執筆活動。アーティストとしては自己名義録音 『アジール』(PSF Records)のほか、リーダープロジェクトExperimental improvisers' association of Japan『avant- garde』などを発表。執筆活動としては、音楽誌などへの原稿提供ほか、書籍『音楽の原理』(アルテスパブリッシング)執筆など。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください