R.I.P. ジョアン・ジルベルト「ジョアンの密室」
text by Takashi Tannaka 淡中隆史
ジョアン・ジルベルト最初の来日公演、2003年9月の酷暑の4日間。ジョアンは大遅刻してくる上に「ジョアン・ジルベルト様のご要望により空調を切らせていただきます」のアナウンスで冷房まで切られてしまった。それでも東京国際フォーラムAホールの聴衆たちから暖かい笑い声が起こり、だれもが文句ひとつ言わずに汗だくで待った。こんな大ホールで見下ろしているとステージは小さな谷底のようだ。たった一人でギターを弾き、歌うジョアンは、ときどき凍りついたように指をとめて一瞬の眠りについているようにすら見えた。その姿は美しく、禁断の「ジョアンの密室」を五千人がかりでのぞき見している、そんなうしろめたさとスリルが同居する奇妙なライブだった。16年を経た今、思い出しても涙が溢れるほどの完全な美がそこにあったと思う。翌年のカーネギーホール、さらなる来日もあったけれど、やはり最高の思い出となるのは2003年の来日公演だ。
カエターノ・ヴェローゾはアルバム『リブロ』”Livro” (1997)のテキストで「ポルトガルが没落したためにポルトガル語を使う僕たちは優遇されない言語圏にいる。だからブラジルはラテンアメリカの中で大国ではあって、孤独な国でもある」と語っている。日本や日本語のあり方も同じく「孤独」を共有している。しかし、現在のブラジルは2億人を超える人口を持ち、それにもまして音楽では国際的に圧倒的がプレゼンスがある。50〜60年代のアメリカのジャズがそうだったように現在のブラジル音楽は全盛期にある。ボサノヴァやMPBの第一世代の多くがいまだに現役で、自らのイメージを覆すような創造的な活動をしている。その代表格がカエターノやジルベルト・ジル、エグベルト・ジスモンティ達の世代だとすれば、彼らによって神格化され、常に帰着していくべき指針となっているのが88歳で亡くなったジョアン・ジルベルトだと思う。カエターノのアルバム「リブロ」の最後の曲 <プラ・ニンゲン>”Pra Ninguem”(誰のためでもなく)で彼はブラジルのシンガーの名前を列挙してそれぞれを賛えていく。
Nana cantando “nesse mesmo lugar”
とナナ・カイミに始まり
Bethânia cantando “a primeira manhã”
と妹のマリア・ベターニアを、そしてシコ・ブアルキ、ジャヴァン、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ、ミルトン・ナシメントなど二十あまりの名前とその曲のタイトルを次々に並べて賛辞を送る。人名とタイトル、それだけの単純な構成で完全な一曲がなりたっていく。ポルトガル語を少しも知らない日本の子供でさえ何を語っているのかがわかりそうだ。それほど、オマージュとして語られる「ことば」の響きは美しい。賛辞の掉尾はジョアン・ジルベルトとなっている。
Melhor do que isso só mesmo o silêncio 「これよりいいものといったら沈黙しかない」と繰り返してアルバムが終わる。
2000年、カエターノは自らジョアンのプロデュースに乗り出して『声とギター』” João voz e violao”を作ることになった。自作の<コラサォン・バガブンド>までジョアンに歌わせてしまう。その後もカエターノは日本での東京フォーラムでもニューヨークの エーブリー・フィッシャーホールでもこの歌にふれてジョアンへの賛辞と感謝を欠かさなかった。生涯のジョアンのファンなのだ。
ジョアンの音楽が「ボッサ・ノヴァ」(新しい瘤?)と呼ばれているのは事実だ。でも私が彼の歌を聴くたびに幸福を感じるのはなぜだか1940〜50年代の古典的なボーカルグループのサンバに決まっている。つまり「コブ出現」以前にできた曲ばかりでジョアン世代の「ナツメロ」ということなる。 2003年の東京公演のライブ・レコーディング・ アルバム『イン・トーキョー』の冒頭のドリバル・カイミの<アコンテッシ・キ・エウ・ソウ・バイアーノ> (1944)やアリ・バホーゾの<イスト・アキ・オ・キ・エー?>、<マダムとの喧嘩はなんのため?>、オルランド・シウヴァの<プレコンセイト>、<十字架のもとで>などがそれにあたる。 『ジョアン・ジルベルト』 ” João Gilberto”(1973) の<イザウラ>”Izaura”は- AAABAAABAAABAA -と果てしなく循環する音楽。何度聴いてもジョアンとミウシャとの「からみ」のハーモニクスの謎は解き明かせない。クレア・フィッシャーが木管と弦楽器を中心とするアレンジをほどこした後年の『ジョアン』” João”(1991)でも同じことが言える。<ホジーニャ>”Rosinha”やノエル・ホーザの<不幸の忘れもの>”Palpite Infeliz”などではミニマリズム特有の「モワレ効果」に通じる催眠性と幻惑性を感じてしまう。それはスティーヴ・ライヒのミニマル・ミュージックのように精緻に設計された結果、浮かび上がってくる効果ではない。「ジョアンの密室」で無限にくりかえされているうちに植物のように芽生え、育ってきたもの。だから他のどこにもない「かたち」をしているのだ。