追悼 マッコイ・タイナー by 下田哲也
text by Tetsuya Shimoda 下田哲也
マッコイ・タイナーの訃報が届いたのは、三月初旬、私はいつものように花粉症に悩まされていた。
来日したマッコイを当時担当ディレクターだった私はいつものようにホテルに出迎えに行った。「調子はどう?」彼はにこやかに声をかけてきた。しつこい花粉症をうまく説明できずもがいていると、「ああ、それは“ヘイ・フィーヴァー(枯れ草熱)”というんだと教えてくれた。
1972年、新リーダー・アルバム『サハラ』をひっさげての彼のグループの日本公演は、大きな興奮を巻き起こした。ハイ・ポジションから強力に連打される彼のピアノそのままにその音楽は衝撃的だった。まるで聴く者の肺腑をえぐり出すような彼の音楽に対して、私はただ「もう胃が痛くなった」というだけの優しい感想を述べた。
ふだんは無口でぼくとつな好青年だった彼とは年齢も近いこともあってか、すっかりう打ち解けていろんなおしゃべりをした。けれど多くはやっぱりコルトレーンのことだった。あるとき、ちょっと好奇心も手伝ってその頃日本でも人気上昇中だったピアニストについて、「キースのピアノをどう思う?」と尋ねてみた。彼は、しばらくあって「彼はまだ若いよ」と答えた。私は、それは彼なりのライバル心のあらわれなのかなと大して気にもとめなかった。
来日したこの機会を逃しては、と私は契約先のマイルストーンに日本でのレコーディングを申し出た。契約のレギュラー・グループでなければとのソロ・ピアノのレコーディングOKに私もそしてそれを望んでいたマッコイにも大きな吉報だった。
内容は、彼の希望どおりコルトレーンにまつわる曲で埋められ、タイトルを『エコーズ・オブ・ア・フレンド』(コルトレーンの憶い出)となった。
レコーディングの数時間、リスニング・ルームの私たちは身じろぎもできなかった。ダメ出しをしたり指示を与えるような雰囲気とはまるで異なっていた。
もともとはバド・パウエルから出発した彼のピアノはきらめくような水平的な滑らかさと美しさを併せ持っていた。それが醸す叙情性を踏まえながらも彼はかつてのコルトレーン・サウンドの強靭さと精神的な深みを音の中にさらに求めていた。そのために、従来のハーモニー・コードに収まらないモーダルな技法を交えることも辞さなかった。そこにこそキースを超える彼の自負があったのかもしれないな、と今になって思う。
ほぼワン・テイクで演奏を終えた。「ソロをやってよかった」と、彼は彼なりの新たな発見を喜んだ。
アルバムは、その年の我が国のジャズ専門誌の大賞を得た。日本のファンには彼の音楽が世界に先駆けて評価されたのだとうれしかった。
その後も彼のエネルギーは衰えを見せず、ビッグバンドのアレンジを試みたり、数々の挑戦が続いた。まるで息を抜かないその生き様までコルトレーンを思わせた。しかし、その間にも、本場アメリカのジャズをめぐる状況はどんどん変化して行った。
何年か経って再び日本で会ったとき、「ときどき、このままの道でいいのか迷うこともあるよ」と冗談めかして私につぶやいた。
けれど、彼は、アコースティック・ピアノひとすじで、“男の生き様”を貫いた。そして、ジャズ・ピアノの可能性の頁を大きく前進させてくれたと私は思う。そのことの本当の価値を世界中が気付く前に彼は逝ってしまった。
今年のクシャミはいつになくわたしにはこたえる。
下田哲也(しもだ・てつや)
早大卒。元 JVCジャズ担当ディレクター。マッコイ・タイナー・ソロ『エコーズj・オブ・ア・フレンド』の他に、『カーメン・マクレエ/アズ・タイム・ゴーズ・バイ〜Live at the DUG』(JVC) などの名作をプロデュース。