JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 36,237 回

特集『配信演奏とポスト・コロナ』No. 266

POST・コロナル・ストラテジーズ

text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野ONNYK吉晃

 

1.皆の衆、世の中の立替え、立て直しがくるぞよ

出口出口と騒がしいので、宗教的カリスマでも登場したのかと思ったら、そうではなく、大惨事世界大戦の幕引き後の「新秩序」確立に向けて、国家元首が話し合っているそうだ。当世「ヤルタ会談」が行われている場所を、権力から最も遠ざかっている日本国家の主権者たる私は知らないのだが、それは少なくともG20のテレビ会議の中ではないらしい。

2.天災は忘れたコロニアル

アメリカという国家は、先住民族をほぼ根絶やしにしつつ西進して、欧州で迫害された者達、新天地で一旗あげようという者達が作った国家である事は論を待たない。彼等の基本理念は、必要な物はいかにしてでも得る、家族を守る、障害は排除するということだ(今のハリウッド映画そのままだ)。
そしてこれまで何度も書き換えられて来た憲法の基本は共和党、つまり工業資本家層の意思を反映している。ちなみにリンカーンは共和党だった。
第一次世界大戦の戦勝国は全て植民地主義(コロニアリズム)を基盤とし、カリブ海、アフリカ、東南アジアに植民地=COLONYを持っていたが、敗戦国ナチスは欧州全体を生存圏=LEBENSRAUMとすべく邁進した。生存圏とは要するに植民地であるがニュアンスが異なる。
その違いは、ナチスが「優良人種の生活圏を拡大する」為に劣等人種を駆逐、駆除、抹殺しながら、最終的には純血種による世界支配を目標したのに対し、前者は古代の奴隷制度に似ている。つまり植民地の劣等人種は生かされ帝国本国のために奉仕する。そして帝国は貧民、労働者と富裕者、被支配者と暴力的・宗教的・政治的支配者の階層化社会になる。
そして近代の戦争とは国境線の引き直しと資源の再分配の不定期なイベントであった。

しかし国境線の周辺に焦土を作りながらのイベント=戦争はあまりにもコストがかかる(生命損失や物的消尽ではなく)。
だから核兵器という使えない最終兵器の存在を前提にした冷戦や、オイルショック、金融破綻、ソ連崩壊、温暖化、人口増加、エネルギー問題、アラブ民主化、イスラム原理主義とテロリズムといった、誰しもが納得する(ように)同調圧力を形成する形で調整されるようになった。先進国のエネルギー消費は収まらない。偶々、二三度、原子力発電所が杜撰な事故を起こしたが、まさに臭い物には蓋方式で、多くの人命が土嚢のように積み上げられた。
エネルギー消費の不均衡は、結局相も変わらず旧宗主国と旧植民地の較差を継続し(二酸化炭素、買います)、帝国主義の変形としてグローバリズムとネオリベラリズムを醸成した。これをコロニアリズムの流れとして理解するのは容易であろう。
そして我々はこの下流にあって今度は新型コロナと呼ばれる見えない恐怖に依る、情報操作、意識操作、行動変容を迫られている。この一連の策動を「コロナリズム」と呼んでいいのかもしれない。

勿論、コロニアリズムにもコロナリズムにも、異議を唱える者達は後を絶たない。自ら情報を確認し、情勢を押しとどめよう、行動しよう、という革新的、あるいは反体制のソシウス=勢力集団は多々ある。しかし実のところ社会システムを変革しようという技に長けているのは現体制のほうであり、ソシウスは秩序を倒せないどころか、意図的か否かに関わらずその存続に利用されている。暴力装置が必要なのは、反体制の存在を前提としているからではないか。(泥棒がいなきゃ、ケーサツはいらねーんだよ)

繰り返し流され続ける「癒しの為の音楽」に眼をとじ、或はまたは「命を守る為のルール」を語りかけるアイドルやアナウンサーの真剣な表情に見とれる(震災の後もそうだった)。
毎日、国内外の感染者数に一喜一憂し、SNSで仲間と部外者を見つけ出す努力。魔女狩り。
国民はばらばらになり、支援以外の法案に眼が向いていないうちに色々済ませておきたい仕事がある政府、内閣、与党。いつも同じだ。関東大震災の復興未だならぬうちから普通選挙法と治安維持法を可決する。
何故、支持率が下がらない?理由1)アンケート結果が虚偽、理由2)主権者の愚昧、3)代わりが見つからない、4)日本型民主主義の帰結。これは全て同じ事を意味している。
4のローカルな風土のみならず民主的選挙、議会制政治、党派政治を基盤とした民主主義はいずれ、人道主義を踏みにじる。
ベルグソンは言った「大政治家はもう生まれない」と。いや政治家というものがもう必要なくなるのかもしれない。
小林秀雄は、最後の大政治家としてチャーチルを挙げている。しかしドイツではなく日本に原爆が投下されたのは、アメリカ単独の意志ではなく、彼の同意あっての事であり、彼は「投下の被害は大きければ大きい程良い」と言ったと伝えられる。
政治家の政策、軍人にとって(兵士ではない)の作戦は、何人死ぬかを想定して決定される。
かつて神と通じる司祭が政治を仕切っていたが、権力は軍人に移った。それは現代まで同じである。アメリカの大統領には将軍出身者が多いのだし、大統領は軍の最高指揮官なのだから当然だ。
トランプは儲けにならないなら、核のボタンを押さないだろう。彼は負けるギャンブルはしないだろう。彼はカリスマであり天才だ。ヒトラー級の。

「情報の欠落こそ最大の情報」というのが真理であるなら「情報の過剰こそ真実の隠蔽」かもしれないし「虚偽はいつも真理の顔をしている」だろう。この逆説は「加害者はいつも被害者の顔をして現れる」とも言い変えられるし「第一発見者を疑え」でもいい。
満鉄爆破、盧溝橋事件の首謀者、実行犯は誰だったのか。侵略はいつも「国民の命と財産を守る」目的で開始される。

我々はいつも文字情報に依る正確な説明を求め、納得した途端に錯覚する。ならば我々は真理に達する事が可能なのか。それは無駄な質問だ。存在者の数だけ真理がある。さもなくば真理は無い。

それは文字からではなく「音」からやってくるだろう。眼からではなく耳からやってきて、口から、手足から、「音」となって出て行くだろう。
それを促すのがアーティストだと仮定してみるのは悪く無いとは思いませんか。
しかし「俺はアーティストだ」と張り切ってみた所で、それを如何にして他者に知らしめるのか。いや、何もしなくていい。ごく自然に貴方の「音」は出て行くだろう。そして自分が出す「声」を聴くことになる。それは自分が存在する証拠なのだろうか?いや、語りだすのは貴方の中の誰かかもしれない。
貴方は自分の中に複数の存在が居る事を知る。

3.誰が「真実の配達人=ポストマン」だろうか

疑似小説「送付」で主人公、著者ジャック・デリダは盛んに書簡を出す。のみならず電話をする。彼の愛する人へ。一日に何度も投函し、電話もかける。
思い出すだろうか。フランツ・カフカの性癖を。彼は何度も婚約し破棄し、その相手に毎日何通という手紙を送った。もし電話があればかけただろうか。いや、かけないだろう。彼は声の人ではない。文字を書く(シュライベン)のではなく、ひたすら紙を引っ掻く(クリッツェルン)虫であるカフカ。彼は書き味を確かめている。それこそが目的だ。
書き味というのはペンだけの問題ではなく、紙の質が左右する。余白が無くなって、署名をし、封をして投函する。そこまで済むとまた便箋と封筒を取り出すカフカ。昼は膨大な書類仕事をし、夜は夜で小説の続きを書くのだ。その合間を縫って彼は書く。書くこと=生きる事=芸術だから。

デリダは、なんとかオーネット・コールマンに話しかけようとした。彼のあまりうまくはない英語で。
オーネットは困惑した。それはオーネットが「音」を発し、デリダが声をかけたからだ。オーネットは彼を通過した「音」がそういう形で返ってくるとは思わなかった。二人は笑って別れた。これもハーモロディクス。

デリダは精液を郵送するアイデアも語る。惜しい事にこれは比喩である。ザーメン、セミナシオン、つまり播種=ゼミナールによって、増殖して行く思想。また一方で避妊された思想。
かつて思想は感染すると言われた。ファッションと同じように。だから人々は時代が変わる事を思想とファッションの変化で感じた。時代遅れの思想もファッションも脱ぎ捨てる。アマゾンに本を出し、フリマに出品する。どのようにして告知するか。
再びメディア論が浮上する。またマスメディア史や、インターネット論を持ち出すには至らない。それがいかに害悪を生み、またマルチメディアと言いながら、実際には視聴覚データと殆どデマしか運んでいない(あれトランプみたいな言い方だ)。3Dプリンターで作ったカツ丼は食べる事が出来ない。
ここで耳を傾けるべき声があった。

4.郵便的な、あまりに郵便的な

Guides:(若林恵の)#2 デリバリーの倫理とジレンマ』から、長い引用をさせてもらう事をお許し頂きたい。原文を、なるべく意味を変えずに書き直させていただいた。

<コロナ禍で、世界的に、郵便システムというものが改めてクローズアップされているのは面白い。….郵便はデリバリーシステムの「元祖」みたいなもの。….郵便システムは、小泉改革で毀損されたが、これはアメリカでも同じで、USPS(アメリカ合衆国郵便公社)は国営公社で「独立連邦機関」ということで民営化はされていないが、財政的にはかなり険しくなっている。….ところが、パンデミックのような国難となると、全国津々浦々まできめ細かく配達網を行き渡らせているシステムはなにかと便利である。>
<….例えばインドの事例だが、郵便局がロックダウンされている市民に食料やマスクやキャッシュなどを届けるサービスを始めたりしまして、郵便システムは何も「郵便」を届けるだけじゃなくてもいい、という方向にどんどん進んでいる。>

そうだ郵便的なるものを忘れていた。郵政省でもJPでもない。郵便システムの根源だ。
「誰の目にもふれていたが見逃されていたものを新しいもののように観察することが真に独創的な頭脳である。」(ニーチェ)

<….デヴィッド・グレーバーが指摘しているのは、近代国家のOSたる「官僚制度」は、もともと軍隊の指揮系統システムを援用したものだが、その仕組みを一般社会のなかで実装した最初のはドイツの郵便制度だったという。….国家が官僚制を導入することで、近代国家が近代国家のかたちを成していったのだとすると、郵便制度の方が先にシステムとして存在していたというのはおそらく間違いではない。>
<郵便や小包が空気圧によりパイプを通してベルリン市内を縦横無尽に行き来する、その『大発明』は世界中の多くの“イノベーター”に大きなインスピレーションを与え、とりわけその偉業に魅せられたのはレーニンだった。….>
<『全国民経済を郵便にならって組織すること、しかもそのさい、技術者、監督、簿記係が、すべての公務員とおなじく、武装したプロレタリアートの統制と指導のもとに、〈労働者の賃金〉以上の俸給を受けないように組織すること──これこそ、われわれの当面の目標である』….>
<ソビエト連邦は、レーニンの頭のなかではドイツの郵便システムと同様のシステムをもって国をオペレートすることを理想としていたし、アメリカもまた、国家システムの基盤に郵便システムがあった、ということになる。>

郵便、恐るべし。ロジスティクスの根源か。情報だけでは戦えない。デリバリーあってこそのテクノロジー。
テクノロジー、政治、芸術の三位一体を目指したのは、ヒトラーだけではなかった。未来派の総帥マリネッティもまたそうであり、ドイツ空軍のパイロットだったヨーゼフ・ボイス然り。進歩した民主主義こそファシズムであると定義したのはムッソリーニだ。まさに三位一体こそがファッショだが、「政治を芸術する」ポスターに刷り込んで出馬した秋山祐徳太子だけはファシストの系列には入らないだろう。

再び引用。

<….いまの国のOSは「配給型」のシステムである。つまり国が一括して国民全員に何かを支給するためのシステムだが、去年の段階では、このシステムはもう古いからアップデートがなされなくてはならない、と書いた。>
<….が、ここにきて、国や自治体がマスクから食料から補助金から、ありとあらゆるものを「デリバリー」しなくてはならなくなったので、改めて、「デリバリーシステム」こそが生活の最も重要な基盤である、ということが浮き彫りになったと思う。>
<….いま起きている事態は「昔ながらの配給をデジタルの考え方でやるにはどうするか」という問いをめぐって動いている。これまで一般化するのが困難だった生鮮食品や生活雑貨といったもののデリバリーが千載一遇のチャンスにある。>
<参入者も増えて競争が熾烈になって行けば価格競争が起き、ワーカーへの金銭的な締め付けも必然的に起きて行くすれば、デリバリーのブラック化はどんどん進行して行きかねない。 >
<コロナが明らかにしたのは、デリバリーの仕事というのは国にとって「エッセンシャル」なものだということだ。….>

ヘイ、ミスター・ポストマン!

引用は続く。

<….資本主義経済のなかにずっと温存されてきた「隠された奴隷制」をあからさまに可視化してしまったことで、それがもたらす動揺の核心には、「うっかり仕事にあぶれたら、自分たちがやれる仕事はおそらくデリバリーしかない」という恐怖があると思う。>
<かつての郵便局員というものが、ある意味ノスタルジーの対象で近代社会を象徴するひとつの人間の類型だったのだとすると、コロナ以後の世界においては、デリバリーサービスの配達員が、社会のありようを規定する人間類型のひとつになるのかもしれないと思う。….>
<「デリバリーをする人」をどうポジティブに社会のなかに置くのかというテーマは、コロナの危機が過ぎ去った後も重大な問題として残るように思う….>

6.ディスタント・セッションとメール・アート

再び引用。これは私が送信した私信を書き直した。

>私は10代後半から盛んに郵便制度を多用してきました。

恩人の一人、高橋昭八郎氏が詩の運動のひとつとしてメール・アートに力を入れていました。氏は、北園克衛、清水俊彦、藤富保男、奥成達らと音声詩、具体詩、視覚詩の運動を展開、世界的に認められ、海外の美術館に作品購入されました。
郵便は足が地に着いたシステムでなければならないと思います。まさにポストマンが一軒ずつ尋ね歩いて配達してくれるシステム。それに介在してもらうアートがあっても良いではありませんか。
70〜80年代にはメール・アートは盛んで、国内外の企画に、高橋さんと一緒に参加する事もありました。
メール・アートは郵便という、世界に繋がるシステム、それは最も原初的な双方向情報交換システムであるところの「郵便制度」を用いて、作品を送り合ったり、形成して行ったり、どこか場所と時間を決めて展を開催するという表現行為でした。いま、ネットが世界を覆った為に却って廃れて来ているように思えます。

また若い頃には大きな影響を受けた英国のインダストリアル・ミュージック・バンド「スロッビング・グリッスル」の主宰者、ジェネシス・p・オーリッジ(略称GPO=ロンドン郵便本局の意)はCOUM TRANSMISSIONと名乗り、早くから過激なパフォーマンスとメール・アートを展開していたのです。
若い頃、内外のミュージシャンとの間で郵便でカセットを送り合い、お互いの録音を用いて多重録音する「ディスタント・セッション」という方法を、多く用いて作品を作りました。
これもメール・アートの変形の一つと考えても良いと思う。
それらはカセット、レコードなどでリリースされました。これも終わりが無いといえば無いのですが、音質の劣化があるので、2、3回で終了にすることが多かったです。
アイデアの発端となったのは、イーノのオブスキュアシリーズにある、ギャビンブライアーズ(デレクベイリーと、60年代にレギュラートリオをやっていたが、作曲家に転身)の一曲『1,2,1,2,3,4』にありました。これは数人の演奏者が「ある曲」をヘッドホンで聴きながら其れに「合うような」演奏をして、その演奏だけを集めて、特に拍も合わせず重ね合わせるというものです。初演録音ではイーノもベイリーも参加しています。「ある曲」は何でも良いのですが、それは録音に入れません。後にブライアーズはこれを再演しています。

t.nakamura
Distant Session 1983

我々はこれを聞いて非常に興味を覚え、仲間が日本各地に離れて住んでいたので、ある曲を特定して各自がカセットに録音して集めることにしました。距離があったので「ディスタント・セッション」と呼んだのです。
また多数のホームテーパー達やマイナーレーベルが、カセットを集めてコンピレーションを作るのは普通でしたが、それも郵便あっての事でした。まだ宅配は発達していなかったのです。
まだ他にも郵便的特徴を用いた表現や方法は可能です。<

自己言及的引用終わり。

7.スマート・ファシズム

私は何を言いたいのか。
今、ミュージシャンもライブ配信やダウンロードという形で漁網に追い込まれているように思う。それは非常に当然のように感じるだろう。しかし、事は音楽に限らないというか、音楽など一部に過ぎないのであり、生活のあらゆる行動規範や様式を一斉にネット情報によって、「家に居ながら楽しい暮らし」という同調を誘導している。つまり現実がその逆方向に向いている事の証左であるわけだ。今夜の夕食の献立や体操のやり方までスマホがなければ出来ない生活。あるいはIDカードと財布にもなってくれよう。それ無しでは生きて行けない程。
日常の些末な事柄の積み重ねが意識と行動を変容させる。
このような意見は前回のJTに書かせて頂いた。

そしてネット上でネット関連の批判をするというのは、電力消費しながら現行の電力産業を批判すると同じようなジレンマを持たざるを得ないが、我々は死ぬ理由を見つけるまで、死を納得するまで生きるしかないのだから。さあ同じ毒を食らおうではないか。

GAFAはそれぞれが「国境のない一団」だが、フェイスブック(FB)は各国の権力に歩み寄る姿勢を根本的に持っている。ベトナムでもFBは反政府的発言に閲覧制限を設け、トランプ政権内にもスタッフを送り込んでいる事も周知である。
しかしもっと巧妙にできるだろう。
つまり事実上の検閲である閲覧制限なんてものは、相手に分かるように尾行したり監視したりする圧力であり、それは相手の行動を制限する事になる。しかし本当は、緩やかに泳がせておいて対象のネットワークを把握する事の方が重要だろう。監視し続ける方が賢いなら、何も制限の無い状態こそ注意すべき時なのだ。
元々各種SNSは大衆を監視し、管理し、行動変容を起こさせる為の最高のツールで、開発と流布にはそういう目的があった。
当初は出会い系サイトの代理みたいなことを言われたが、人間はエロス、タナトスに弱いのだ(眠りを削ってでも欲望を満足させる。いや欲望は増長するばかりだ)。歴史的にも、新たなファッションやメディアやテクノロジーの発展は必ずと言っていいほどエロスに依存する。エドアルド・フックスの名著『風俗の歴史』をひもとくまでもなく。
何も監視されるのが怖いからだというのではなく、結局スマホとSNSによって「私」はビッグデータの中に取り込まれ「皆がこうしているのだよ、だから貴方もこうすべきだね。それが正しいのだよ、多数派だろ、多数決で決まった事は守ろうね、それが民主主義だろ」ということを、<否定しているのに加担する羽目>になるのが嫌なのだ。現政権への意識と同じく。
もうひとつの理由。もし私が一旦ある種のツール、メディアの便利さの虜になれば、私は今の立場の正反対に飛んで行くだろう。そんなことがあったのさえ気づかないうちに。
私は弱い。パウロは「貴方は弱い。だから強いのだ」という逆説によってイエスの教えを広めたが、私にはパウロが居ない。私はすぐに転向し、聖母子像でも磔刑像でも踏みつけるだろう。

8.戦争、宇宙、タンパク質

日本近代の論客、小林秀雄は敗戦後にこう言った。「反省したい者はすればよい。私は愚かだから反省などしない」。画家、松本俊介の敗戦後の弁はこうだ。「画家達よ、いまこそ戦争画を描け」。
小林は「いざとなれば銃をとるだろう」と言いつつ国策に沿って中国各地を取材し、戦時中は西行や実朝について書き、覚悟は決めていた。松本は聴覚障害のため兵役に就けなかったが、国策に依る戦争画には強い抵抗を示していた。しかし常に夢見がちの松本の画風が、当時の戦争画の傑作の持つどこかロマン主義的なものと決して相反するとは言えないように思う。それは戦場に行けなかった彼の悔しさだったかもしれない。
私は彼の反戦意識を疑うのではない。ある意志が表明されるとき、それを補完する疑いが自己の裡にあって当然である事を言うだけだ。目前に迫る敵兵を射つ銃のトリガーにかかる指の震えは自らの良心を苛むだろう。
ある運動家はこうも言った。「もし政権を奪取したら次にやるのは粛清しか無い」。人道主義と暴力は同じ屋根の下に居る。

映画『マトリックス』では、最後に、この世界が何度目かの「やり直し」であることが明かされる。最新宇宙論では、どうやら我々の世界は「50回目くらいの宇宙 」であるとも言う。つまり生命どころか天体さえも生み出す事無く消滅してしまった宇宙が多数あったというのだ。ほんのわずかな定数の差、あるいは物質と反物質の対称性のゆらぎが、偶然にして決定的な構造を自己組織化した。

知られているウィルスのうち、僅か1%だけが人間に病害を齎すという。ウィルスはいつも、常に、どこにでもいる。それはカビ、菌類の胞子や、多数の花粉と同じく大気中に漂っている。我々は多数多様体のスープの中にかろうじてアイデンテティを保っている動的平衡の集合体だ。

そして空気中に漂うウィルスは、常に変異する。それは自律的には不可能だし、第一増殖できない、生命と非生命の境界にあるウィルスという「メディア」の運命だ。変異し続けることが彼等の存在意義だろう。
それは脳神経に重篤な疾患を惹起する(と言われる)タンパク質「プリオン」にも似ている。違うのはプリオンの感染は経口的であることだ。

ウィルスもプリオンも共に進化の過程に関与すると言われる。
つまり、彼等は遺伝子に直接関わり、種を越え、個体を越え、DNAを書き換える。DNAは対称性があり安定した分子鎖だが、それは機能する際に非対称の分子RNAになる。ウィルスの本体がRNAである例は少なく無い。

RNAは断片となって身体のそこかしこに存在する。これはマイクロRNAと呼ばれ、細胞の発生、分化、増殖、死(アポトーシス)の機能を担っている。あるいはマイクロRNAは哺乳動物の乳汁のなかにもある。これは腸管の乳汁吸収を促進する機能を持つ。
レトロウィルスの逆転写酵素はRNAからDNAに遺伝情報を書き換えるという決定的な役割を果たす。
これは作曲と演奏と録音の関係にも似ているかもしれない。
つまり作曲をDNA、演奏をRNAとすれば逆転写酵素は録音という訳である。生命の起源が裸のDNAではなく、むしろ断片になって遍在するようなRNAという非対称存在であれば、安定した対称的存在DNAになって「生命」というカテゴリーを考え得るように、音を出すだけの演奏や歌が、記述される事で曲として安定する。その過程で録音という代物は、「大気中に消え去ってしまう音楽」を記録してその痕跡を作曲に反映させることになる。

ついこの間まで、ウィルスと言えばネットを走り回るウィルス、いつの間にかコンピュータに感染する小さなプログラム、かつてはシステムを破壊するような凶悪さだったが、今は脅迫状として暗躍している。ハッカーがトリックスターだとすれば、ウィルスはヒールだ。そしてある特定の目標への一斉攻撃をかけるときには、一般家庭の家電の制御システムの中からでも起動して同時多発テロを可能にする。アメリカがファーウェイを締め上げたのもそこだ。国内に無数のゲリラが潜んでいたのでは機能不全に陥るか、国家機密以外は丸裸になるし、周辺情報だけでも推定できる事はいくらでもある。とにかくウィルスは宿主たるシステムを書き換えるのだ。その意味ではまさに医学的なウィルスと軌を一にすると言えよう。

かつてミトコンドリアは寄生生命体だったのではないかとよく言われる。いやむしろ共生だとも。ミトコンドリアは固有のDNAを持っているが細胞外では存在できない。細胞もまたミトコンドリアなしでは生存できない。このような共生的関係を、ウィルスに見て取ることもまた可能かもしれない。つまり既にDDNAに完全に組み込まれて沈黙しているウィルス由来の遺伝子。それはいわば究極の共生。事実、確認されたウィルスのうちでヒトに病害を齎すものは1%もないのだ。みんな大人しくしている。他の生物への影響はそれぞれだ。
タバコモザイクウィルスは結晶化することで有名だ。ニコナチにとってはタバコの大敵だから喜ばしい連中だろう。そんなことより生命が結晶化するだろうか。バラードの『結晶世界』以外では知らない。

もし天然のウィルスならば、宿主が死に至るような、つまり自分の存在基盤を破滅させる事は避けなければならない。あまりにも擬人化しているだろうか。いや、自然は、宇宙は調和を求める。言い方が悪ければ平衡関係へ進行する。ある一種の存在が爆発的に増殖するとか、逆に消滅すると、平衡は崩れるが、それを回復するようなダイナミクスが生じる。だからウィルスもそれ自体が弱毒化したり、宿主の方も抗体が出来て、機能不全=症状が消退する。ウィルス自体が常時変異していることはこれに寄与する。が、逆に以前のワクチンが無効になることもある訳だ。いずれウィルスは環境の中で自在に、そして多様に変異している。
しかし、もしウィルスが人工的な改変を加えられていたら?
我々は既に遺伝子操作をした植物からの栄養を直接、間接に摂取している。それらが我々の細胞にどのような影響を与えているか、私は知らない。
クローン技術で生まれた動物には異常な疾患の発生率が高いことは知られている。

9.ワクチンの無いウィルス:言語

『裸のランチ』は、ビートニクスを越えたビートニクスであるウィリアム・バロウズの小説(1959)である。ここでも主人公は著者と同一視される。クローネンバーグ監督がメガホンをとり、音楽はオーネット・コールマンで映画化された(1991)。
バロウズは、言語をウィルスだと言った。言語というウィルスは、精神に侵入して意識を書き換えてしまうのである。
ドナルド・バーセルミも言語が兵器であるという小説を書いている。その言語はいきなり爆発する。ヘイトスピーチのように。
独裁者は、まず少数派、社会的弱者の抹殺を考える。そしてヘイトスピーチはその有効な言語ウィルスとなる。あらたなマイノリティとして認識された「感染者、放射能汚染者」は、戦場の負傷兵と同じで、組織の足枷になる。現代の地雷は強大な破壊力ではなく、負傷者を沢山作る事を目的としている。
破壊的言辞は、もう一人のドナルドが得意とするところだ。いや、ガーガー言うけれどもダックではない、念のため。

彼が武漢、チャイナと連呼するウィルスの名称についての議論も高まっているが、病原体がどこに由来するかというのは政治的な問題になる。HIVもエボラもアフリカのトラック交通網の拡充が伝播した疾患だ。ではSARS, MERSは?
かつて梅毒がフランス病、ナポリ病、シナ潰瘍などと称されたのは、敵国が発祥地だとする典型な言辞だ。
病原体呼称に武漢を冠するのは、まさに中国を元凶として、中国の覇権主義、太平洋進出、一帯一路を阻止しようと貿易戦争を起こした、その延長上にウィルス禍を位置づけようとするのは、あまりにも分かりやすい。
貿易戦争から防疫戦争へ。

言語がウィルスだというなら、歌は?音楽は?

我々はかくもウィルスの影響を被っている。そしてその負債をなんとかするために郵便的なるもの〜ポスタルな方法(デリバリーのロジスティクス)も考えている。

ある友人のアイデア。彼は極めて穏健で、慎重な性格だ。
<国民皆兵制度や徴兵制の代わりに、今後は幼少から医学、看護学等の義務教育が必要ではないか。今度のような有事には全員が防疫戦争に係わる仕組みを作り、前線、兵站、銃後を全員がローテーションするのはどうか。
さっさと私権を制限して必要な情報、国民の感染状況を正確に把握しなければ作戦の立てようがない。合理的な作戦を立てた上で全員が「戦争」に参加しなければならない。>
道理がある。正論だ。だから怖い。

喧嘩をすれば人の本性が知れる。 ・
戦争をすればその国が知れる。 ・
苦境にたったとき人は本性が露見する。

ここで郵便制民主主義序説を終わる。
(2020/5/14)

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください