Cover #01 キース・ジャレット再起不能か?
Above:Keith Jarrett in Tokyo, January 1977 ©Mitsuhiro Sugawara/Oneloveland21
photos by Mitsuhiro Sugawara/Oneloveland 21 菅原光博
text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
2020年10月21日付けのニューヨーク・タイムズの記事が全世界のキース・ジャレット・ファンを震撼させた。「Keith Jarrett Confronts a Future Without the Piano」とタイトルされたNate Chinen ネイト・チネンの署名記事が掲載されたからだ。「キース・ジャレット、ピアニストとしての将来を断念」。NYタイムズの記事を受け日本のマスコミが一斉に報じた翌日以降、ジャレットの悲劇的な全貌が日本のジャレット・ファンにも広く知られるところとなった。「音楽家のキース・ジャレットさん まひ残り復帰困難か」(朝日新聞)、「ジャズの巨匠K・ジャレット氏、脳卒中で復帰ほぼ不可能に」(AFP=時事)。
ジャレットについては、2017年2月15日のアンコール・コンサートとして翌年3月21日に予定されていたカーネギー・ホールでのソロ・コンサート「Keith Jarrett : An Evening of Solo Piano Improvisations」が突然キャンセル、ECMから「健康上の理由」と発表されて以来、一切の続報がなかった。カーネギーに続くすべてのコンサートもキャンセルされ、予断を許さない健康状態であることはファンも覚悟はしていたはずだ。しかし、ジャレットには一時活動休止の前歴があった。1996年秋に始まる「慢性疲労症候群」による休止である。しかし、ジャレットは2年半後の1999年4月、ECMから『The Melody At Night With You』(ECM1675) をリリース、不死鳥のように蘇ったのだ。日本人のパートナーを通じ漏れ伝わる「自宅療養中」の報に接しながらも、「不死鳥のキースのこと、いずれ元気に復活するだろう」という祈りに近い希いが日本の関係者にはあった。しかし、NYタイムズの記事はその希いを無残に打ち砕くことになった。
ネイト・チネンの署名原稿はキース・ジャレットとの2度にわたる1時間ずつの電話インタヴューに基づくものだったが、途中インターミッションを必要とした事実がキースのただならぬ健康状態を物語っているといえるだろう。しかもこのインタヴューは10日後の10月30日にECMからリリースされたジャレットの『Budapest Concert』(ECM2700) の予告のために駆り出されたものだった。『ブダペスト・コンサート』はジャレットがソロ・ピアノの「ゴールド・スタンダード」と自負する自信作である。
チネン記者の記事を通じて明らかになったジャレットの言葉は衝撃的なものだった。続けて2度の脳卒中に見舞われた後遺症として左半身に麻痺が残り、日常生活にも杖を必要とし、現状ではピアニストとしての再起は考えられない、という。最初の発作に見舞われたのはカーネギー・コンサートを1ヶ月後に控えた2018年2月下旬のことだった。さらに、5月に2度目の発作に見舞われ左半身が麻痺、公開演奏はほとんど不可能の状態に陥ったのだ。「半身が麻痺していてね。1年以上かかって杖をついてなんとか歩けるようにはなった。だけど、今でも自由に家の中を歩き回ることはできないんだ。」「最初の発作のあと病院で治療を受け自宅に戻れるまで回復した。自宅で2度目の発作がきて今度は介護施設送りだ。2018年7月から今年の5月まで約2年近くそこでリハビリの訓練を受けた。施設のピアノを使って右手のバッハを気取ってみたがとんだお笑い種だった。自宅に戻っておなじみのビバップを弾いてみても思い出せないんだ。」キースの声はどことなく弱々しく、時折り自嘲気味の笑いをもらす。現状では自分はもはやピアニストであるという認識はなく、将来どうなるか予測も立たない。両手で弾くピアノ演奏を聴くと焦燥感に駆り立てられるという。左手の訓練はピアノを弾くためではなく、とりあえずはコップをつかめるようになるためだね。
80年代初頭にCDが登場した時、僕がいちばん興奮したのはキース・ジャレットのソロ・インプロヴィゼーションが切れ目なく聴くことができるということだった。事実、1983年、マンフレート・アイヒャーからECM初のCDリリースとして手渡されたのは『ケルン・コンサート』だった。『ケルン・コンサート』が演奏の中断なく、コンサートで演奏された通りに間断なくCD上で再現されたのは衝撃的だった。『ソロ・コンサート』も『サンベア・コンサート』もキースの長大なソロ・インプロヴィゼーションの記録である。当時のキースはいったんピアノに向かうととめどもないイマジネーションの奔流に身を任せ流れるように音楽を紡ぎ出していった。キースの言葉を借りるなら「自分が音楽を創造しているのではない。神が創造する音楽が自分の指先から流れ出ているのだ。」ということになる。やがて精神的、肉体的限界からキースのソロ・インプロヴィゼーションは長編小説から短編小説に移行していくのだが、思わぬ障害からピアノを弾くこと自体困難な状況に陥ったようだ。その焦燥感、絶望感たるや余人の推測できる域をはるかに超えていることは想像に難くない。インタヴューでは自嘲気味の物言いも垣間見える。
日本には「左手のピアニスト」舘野泉がいる。果たして、キース・ジャレットは「右手のピアニスト」として蘇るのだろうか。はたまた、マルチ・インストゥルメンタリストとして蘇るのだろうか。新聞は「ピアニストとして再起不能」とは伝えているが音楽家としての再起の可能性には触れてはいない。作曲家としての再起の可能性も充分あり得る。なんらかの形での「天才キース」の再起に望みをかけたい。
MonkとKeithの撮影年を1976年7月から1975年7月に修正し、スイングジャーナル誌に掲載されたふたりのもう1点の写真を追加掲載しました。