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R.I.P. 坂本龍一No. 301

追悼 坂本龍一 by 三田晴夫(音楽プロデューサー)

4月1日に坂本龍一さんの訃報が飛び込んできて愕然とした。

僕が音楽の世界に入ったのは1977年2月にジャズ事務所JamRiceに誘われたのが最初だったが、そのJamRiceが坂本さんと交流が深く何かとお会いする機会があった。

初めての出会いは、JamRiceのメイン・アーティスト山下洋輔トリオの新宿ピットインでのゴールデンウィークの5daysで、その日替わりのオープニング・アクトとして出演した渡辺香津美セッションで坂本さんがキーボーディストとして参加した時だった(他につのだひろ、後藤次利などで、これが切っ掛けで後に渡辺香津美のアルバム『Olive’s Steps』が制作される)。

当時、髪は肩より下まで伸びていて、キーボードの上に灰皿を乗せて途切れもなくタバコを吸っていたし、あだ名は「アブ」ですから、おそらく強いお酒もガンガン飲んでいたのでしょう。坂本龍一のスタジオでのプロ・デビューは、ゴールデン街で飲んでいたら、隣に居合わせた友部正人と意気投合し彼のレコーディングに誘われたのが切っ掛けとの伝聞がありますからやはり酒豪だったんでしょう。

そう言えば、何年も会っていなかった頃に、恵比寿のバーで飲んでいる坂本さんに遭遇し、少し話したことがあったが、その店には常連でよく来ていたとのことだった。
その後の”坂本龍一=教授”とは随分イメージが違いますね。

坂本さんが初めて自分の会社を起ち上げたときは、JamRiceに電話だけを置いてのスタートだった。バンブーカンパニーという本人と生田朗マネージャーの会社で、二人共毎日のようにスタジオに入っていて、たまたま僕のデスクに電話を置いてあったので、僕が電話の取り継ぎ役をやることが多かった。時には生田からの電話で「誰か良いサックスいる?」なんて聞かれて「テナーならAさんが良いよ」などと答えて連絡先を教えてあげたりするのだが、おそらく坂本さんがプロデュースするレコーディングのためだったのだと思う。

あるとき、どういう経緯か忘れたが、坂本さんと生田、それに僕の三人で新宿の喫茶店に行ったことがあった。その時に今でも印象深いのは、二人がシンセの勉強をしていて、分厚い本を拡げてアルゴリズムについていろいろ話していた事だ。僕にも説明してくれたが、チンプンカンプンで(僕もこう見えても工学部でその手の事には強い方だが、興味がなかったんですね)、ただただ二人が話すのを聞いていた記憶がある。

また違う機会に、生田の車に乗っていたら、「今できたばかりの教授のアルバムなんだけど聴いてくれる?」と言って車中で聴かせてくれ、聴き終わると「どうだった?」と言うので、「今まで聴いたことがない感じのサウンドだけど、何だかカッコいいね」と答えたら、「そう、良かった」と、とても嬉しそうだったのが忘れられない。これが、1978年の坂本龍一ソロ・デビュー・アルバム『千のナイフ』だったのだ。

最後に坂本さんの生演奏を聴いたのは、2019年の山下洋輔トリオ50周年公演での山下さんとのデュオだったが、異質な二人のピアニストが寄り添ってじっくり語り合っているような素晴らしい演奏だった。この日のベスト・パフォーマンスだったと思っている。

今頃は生田と天国で再会し、再びタッグを組んで創作活動をしてるかもしれない。

御冥福をお祈りします。


三田晴夫

ジャズのマネージメント事務所(有)ジャムライスを経て、1985年にCM音楽を中心にした音楽制作会社(有)スーパーボーイを設立(旧社名(有)四宝)2009年にレコードレーベルTEOREMA、翌年にJUMP WORLDを立ち上げ、自らプロデューサーとしてジャズを中心にするも民謡からJ-POPまで幅広く制作している。
主な作品としては、2017年のteaのデビューアルバム「INTERSTELLAR 」がミュージックペンクラブの新人賞、2020年の宮本貴奈の「Wonderful World 」が同賞の最優秀作品賞を受賞。最新作は426日リリースのDouble Rainbow=小沼ようすけ×宮本貴奈の「After the Rain」。

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