坂本龍一のこと by 上野勉(元ジャズ・ディレクター)
坂本龍一と初めて会ったのは 1976年6月、今は無くなった赤坂のコロムビア第一スタジオだった。当時コロムビア洋楽部のジャズ担当ディレクターだった私は、同じ洋楽でクラシックのディレクターだった川口義晴氏の提案で、彼が担当していた高橋悠治さんと私が担当していた富樫雅彦さんの共演アルバムを録音することになった。この稀有なアーティスト二人がそれぞれメンバーを選ぶことになり、高橋さんが指名した一人が当時まだ藝大大学院に在籍していた坂本だった。彼は学業の傍らスタジオでの活動を始めて間もないころで、スタジオでの様子は寡黙だが、ひとたびセッションが始まると眼光鋭く演奏に集中する姿が強く印象に残っている。この時の録音は『トゥワイライト 富樫雅彦+高橋悠治』と題されたアルバムとして発表された。
翌 1977年6月、坂本は、私と同じセクションで制作を担当していた盟友斎藤有弘君の企画で録音された渡辺香津美のアルバム『オリーヴス・ステップ』に参加した。この斎藤君や渡辺との出会いこそが、その後の坂本が進んだ方向に大きくかかわったことは想像に難くない。続く1978年には、坂本にとって初のリーダー・アルバム『千のナイフ』が斎藤君の担当で録音、発売された。同年のYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)結成にも、このアルバム録音が大きく関わっていたのではないかと思っている。翌年には、YMOでの活動を続けながら渡辺香津美のアルバム『KYLYN』に参加し、実質的な双頭バンドとしてコ・プロデュースを担当した。深夜スタジオを覗くとよく顔を合わせた当時を、時折思い出す。
その後、私自身が制作現場を離れたこともあって疎遠になったが、彼の活躍の様子はとてもうれしく感じていた。最後に坂本にあったのは『ラスト・エンペラー』の撮影が終わった1986年頃だったろうか。当時私はコロムビアの海外事業部に移動しCD輸出などに携わっていたのだが、坂本がたまたま同じ部門に移動していた斎藤君を尋ねてやって来たのだ。甘粕正彦役を演じたことなどが話題になった。レコード部門とは違って日頃アーティストの顔など見ることのない職場の女子社員はパニック状態だった。彼はすでに世界の “サカモト” だった。
同時代を生きた偉大な存在が、また一人姿を消した。何とも言えない喪失感だ。
心から冥福を祈る。
広島市出身。立教大学文学部卒。
元日本コロムビア洋楽部ディレクター。
『カウント・ベイシーの世界』(スイングジャーナル社 1982)、ジャズ・マスターシリーズ『カウント・ベイシー』(音楽之友社 1986)をそれぞれ翻訳、出版。
洋画の特に男性ファッションに精通。