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R.I.P. 坂本龍一No. 301

坂本龍一 やんちゃ編 by 稲岡邦彌(音楽プロデューサー)

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

坂本龍一のちょっとやんちゃな側面について記しておきたいと思う。人間誰しも聖人君子ではあり得ず、時折りやんちゃな側面を見せるものである。たまさか僕が彼のやんちゃな側面に出会う機会が重なっただけなのだろうと思う。
ぼくが旧TRIOレコード(現JVCケンウッド)の洋楽部長を務めていた1980年前後、パンク系を扱うレーベルとして PASS Recordsをインディのひとつとして社内に創設した。担当A&R山崎久美以外はすべて外部スタッフで、音楽ライターの後藤義孝などが関わっていた。当時のTRIOはとても自由な気風で、例えば、一世を風靡した大阪のブルースバンド「憂歌団」は​​担当A&Rは洋楽の中江昌彦だったがレーベルは吉田美奈子などを出していた邦楽の Showboatレーベルを使っていた。坂本龍一も PASSに関わったひとりで、例えば1980年にリリースされたレーベルを象徴する1作『Friction』(PAS-2001) にはプロデューサーとして坂本龍一の名前がクレジットされている。

ジャズ・ヴォーカリスト酒井俊の3rdアルバム『My Imagination』が制作されたのは1979年であった。酒井の担当A&Rは洋楽の原田和男で、デビュー・アルバムの『SHUN』(PAP-9080/1977) には、編曲から音楽監督まで全面的に渋谷毅が関わった。バックを務めたのはすべてジャズ・ミュージシャンでギターの中牟礼貞則の名も見える。いわゆるジャズ・ヴォーカリストとしてのデビューだった。翌年の2作目は一転 LAに飛び H.P.RIOTというR&Bのバンドとがっぷり4つに組みブラコン系のアルバム作りにトライした。

坂本龍一がやんちゃぶりを発揮したのは3作目の『My Imagination』(AW-1036)。このアルバムでは、ジャズ系のファンと2作目でつかんだソウル系のファンを満足させる両面作戦が結果的にはトラブルの引き金を引くことになった。ジャズ系ファン用のレコードA面のための古澤良次郎バンドのグルーヴィーな演奏に坂本龍一がNGを出したのだ。この時のプロデューサーは音楽人の桂宏平で事前の打合せはどうなっていたのか。当時の坂本のマネジャー生田朗から「ジャズ系のバンドとのカップリングは認められない。全面自分がディレクションする音楽で通す」との坂本のメッセージが伝えられる。要望ではなく絶対条件で取り付く島もない。川村年勝マネジャー以下古澤バンド全員との厳しい団交を経て泣く泣くキャンセルを受け入れてもらった。坂本が用意した音楽はドラムスに高橋幸宏を起用した縦ノリのリズムでジャズのグルーヴとは縁遠いものだった。

坂本龍一の2度目のやんちゃぶりは1987年の Live Under the Sky で発揮された。出演のドタキャンがあったのだ。バンドのリハに現れず、生田から「突如の難聴のため東大病院に緊急入院」が伝えられ、騒ぎが起きた。バンドは SXL。Sakamoto x Laswell。双頭バンドの片方の頭が消えた。SXLは坂本と1983年にハービー・ハンコックの<Rock It>(Future Shock)でグラミーを獲得したビル・ラズウェルが日本に橋頭堡を築くために組んだ戦略的なバンドだった。生田に依頼され、僕が懇意にしていたLive Underのプロデューサー鯉沼利成に頼み込んでブッキングした。1987年のLive Underは10周年のアニヴァーサリーでマイルスやウェイン、ディジョネットのSpecial Edition、Gadd Gang、Rova Saxophone Quartet、にアニヴァーサリーのコルトレーン・トリビュート・バンドを加え豪華極まるラインナップだった。10周年に傷を付けられた鯉沼の怒りは容易には収まらなかった。というよりチケットを購入したファンの失望への責任を重んじる人だった。写真週刊誌FOCUSの記者を引き連れ東大病院に乗り込みベッドに横たわる坂本を激写し即公表、坂本の詫びのメッセージをカセットに収録、公演当日会場のEastに大音声で流された。
なお、SXLの演奏は坂本がCBS/SONYに新設したレーベルTerrapin から『SXL/Live in Japan』(28AH-2252)としてLP発売された。メンバーは、ビル・ラズウェル(elb)、ロナルド・シャノン・ジャクソン(ds)、サムルノリ(コリアン・パカッション)、アイーヴ・ディェング (アフリカン・パカッション)、シャンカール(vn,vo)という強者揃い、アフリカン・ドラムとパカッション、韓国とアフリカのパカッションが叩き出すリズムが乱舞する中、ラズウェルのブーストしたエレベがステージ上をアナコンダのようにのた打ちまわり、メロディはシャンカールのヴァイオリンによるインド旋律のみ、予定通り出演したとして果たしてこの中で坂本は自分の立ち位置をどのように確保できたのだろうか。1987年といえば、時あたかも坂本が音楽を担当した映画『ラスト・エンペラー』が公開され、坂本がグラミーを獲得、映画音楽作家として国際的な地位を確立することになる年である。

アルバムには僕の名前が「レコーディング・コーディネイター」としてクレジットされているが、これは生田の僕に対する一種の懺悔で、僕の任務は「ブッキング・エージェント」に過ぎなかった。バンドに同行して香港まで出かけた僕は入管でマイルスの真後ろに並びオーラに包まれる栄光に浴しはしたのだが...。なお、好漢・生田朗は1年後の1988年8月、カリフォルニアのメキシコ国境で運転を誤り崖から転落、命を落とす。ミュージシャンの使いの帰り道だったという。片腕ともいうべき知恵袋を失った坂本の痛恨もさることながら愛すべきパートナーを失った吉田美奈子の嘆きは推して知る由もない。

1995年、阪神淡路大震災のベネフィットCD『レインボウ・ロータス』(Polydor) を制作していた僕の手元に坂本龍一から音源<Sweet Revenge>が届けられた。坂本と親交のあったNY側のプロデューサー、オスカー・デリック・ブラウンの尽力だった。坂本は多忙の合間を縫ってNYでNHKのTV取材に応じるなど僕らのプロジェクトに協力的だった。その後も積極的に環境問題に関わっていたようで、晩年はヒューマンな人生を全うしたのではないだろうか。(文中敬称略)

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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