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R.I.P. ペーター・ブロッツマンNo. 303

ペーター・ブロッツマンの逝去に思う by 坂田 明

text by Akira Sakata 坂田 明

私は1974年のメールス・ニュージャズ・フェスティヴァルに山下洋輔トリオで出演した時に初めてペーター・ブロッツマンに出会った。そこにはアレキサンダー・フォン・シュリッペンバッハ、エヴァン・パーカー、ペーター・コーヴァルト、ミシェル・ピルツ、ジョン・サーマン、フランク・ライト、スティーヴ・レイシー、アルバート・マンゲルスドルフ、アラン・シルヴァ、ヤン・ガルバレク、ウィレム・ブロイカーなどなど、しかし、初めて会った時にどういう挨拶をしたかは覚えてはいない。何せこちらは初めてのヨーロッパであり、もう何が何だか分からないアンポンタンであったことは確かである。
考えてみればとんでもないところへいきなり来たものだ。しかし、生きているとものごとが順番に出てくるわけではないので、現象としては当たり前のことだったわけだ。
自分の知っている世界と出会った世界の違いが大きすぎたら驚く度合いが大きくなる。ま、しばらくは驚いたままであるが‥‥
時に、初心者に向かって、ジャズを聴く順番を解くという最低のことをする輩がいることは知っているが、あれは自分の子分を作ろうという目論見であって、音楽の聴き方の話をしているのではない。音楽に出会ってしまったら、そこから始まるだけのことである。勝手に聞けばよいのである。
メールスで出会ったサックス奏者はみんな凄かった。ブロッツマンとエヴァン・パーカーはどちらも呆れるほど強力なパワーであった。フランク・ライト、ジョン・サーマン。ペーターとエヴァンが対象的なミュージシャンと分かったのは後のことである。
その年の秋に、ベルリンでブロッツマンが出ていたアンチ・ベルリンジャズフェスティヴァルを聴きに行ったとき、飛び入りでブロッツのアルトを借りて吹いたことをよく覚えている。
彼は私の4歳年上で、兄貴だった。のちになって、彼は私に「マイン・クライナー・ブルーダー(弟)」だと呼んでくれていた。
私は57歳の時に脳溢血になってこけた。幸いにして復帰して吹けるようになった時。ブロッツマンがピットインでやるときに呼んでくれた。隣に並んで吹いたが、実態ははっきり自覚できるくらい私は吹けていなかった。しかし、以後も何回も一緒にやる機会があり、12年前彼が70歳の時、オーストリア、ウェルスのフェスティバル、「ミュージック・アンリミティッド」がお祝いでペーター・ブロッツマンの特集を組んで、4名の日本人近藤等則、大友良英、坂田明、八木美知依をゲストで彼のシカゴ・テンテットに呼んでくれた。

私はその時には「坂田明&chikamorachi(クリス・コルサーノ、ダーリン・グレイ)」でヨーロッパ・ツアー中であったが、うまい事に、ツアーの最後に奇跡的にウェルスへ行けた。アメリカ、ヨーロッパの精鋭10人がバンドを固めていた。
ノーマイクでそこに入って吹くことは、ま、死ぬ気でやるしかなかった。サックスよりクラリネットの方がオケの中では音が立つという事が分かった。我々はいつでも真剣勝負だから他流試合をしないと自分がはっきり認識できない。
ブロッツマンはその日、朝からレコーディングを含めて4回のステージをこなしていた様に記憶している。その体力、気力には参った。超人としか思えなかった。
他にも佐藤允彦さん、森山威男、八木美知依、本田珠也らがこのフェスティバルに参加していたが。私は到着した日に演奏して翌日はブリュッセルに戻り、chikamorachiと共に東京へ戻ったので、他のコンサートはほとんど聞けていない。
ペ-ター・ブロッツマンは心底超人である。その彼は版画もやっていて展覧会したり、自分の作品のカバー・アートにも使っていて、なかなかである。ま、マイルス・デイヴィスも絵をかいてたし、日本にも加藤崇之なども凄い絵を描くミュージシャンはいる。
ま、何せブロッツマンの音は強力にでかくて、暗かった。私は人間がおめでたいから明るい音がする。馬鹿かと思う。しかし、それぞれの役割分担だ、どうという事はない。自分の役割を果たすしかないのだから。
彼の話を聞くと子供の時にポーランドに住んでいたらしい。終戦後にお母さんが一人で自分たち子供を連れてドイツに帰ってきたんだ、という話を聞いたことがある。お父さんの話も聞いたけど、よく覚えていない。なんか会計士だか税理士だかをやっていたという。しかし、そういう話は日本で聞いた。70年代にヨーロッパをツアーしていたときには、山下洋輔トリオのマネージャーをやっていたENJAレコードのプロデューサー、ホルスト・ウェーバーと仲が良くなくて、交流する機会はなかったに等しい。けれども彼はあちこちのフェスティバルで活躍していたので、出会う機会は沢山あったように思う。
ハン・ベンニック、フレッド・ファン・ホーフ、ミーシャ・メンゲルベルク、アレキサンダー・フォン・シュリッペンバッハ、ペーター・コーヴァルト、ハンス・コラー、トーマス・スタンコ(共産時代のポーランド)などなど全部は書けない。
とにかく、彼はシカゴ・テンテットに見られるように、アメリカとヨーロッパのミュージシャンを合体させたグループも作り、ビル・ラズウェルの Last Exit(ペーター・ブロッツマン、ソニー・シャーロック、ロナルド “シャノン” ジャックソン)にもいた。その時は東京で共演した。ま、強力なカルテットであった。
近藤等則がやった、今治ミーティングにも、ブロッツマンはいた、その時はビル・ラズウェルがジンジャー・ベイカーを連れてきて、一噌幸弘や私もいた。そのとき彼は艀と艀を合体させた砂浜のステージの隙間に落ちたかなんかして、本番の前には鼻に絆創膏を貼っていた光景がいまにも目に浮かぶ。近藤等則もついこの間、一足早く逝ってしまったけど。
コロナの前はブロッツマンは毎年日本に来ていたから、どっかで会った。コロナ禍で世界が停滞するなか、近年は肺の状態が悪くて、なかなか思うように吹けなくなったと、聞いていたが、ストンと逝ってしまった。だが、いま、人生の終盤に差し掛かっていることが確かな自分から見れば、あれだけのことをやるだけやって、ストンと逝く生き方は見事だと言わざるを得ない。
私のお兄さん(Mein größer Bruder)Peter Brötzmann ありがとう!安らかに!


坂田 明 Akira Sakata
1945年2月21日、広島県呉市生まれ。広島大学水産学科卒業。サックス、クラリネット、ヴォーカル。タレント、俳優。ミジンコ研究家。1969年上京しグループ「細胞分裂」を結成。72年~79年山下洋輔トリオに参加、80年より「Wha ha ha」「SAKATA TRIO」結成、ヨ-ロッパ・ツア-を皮切りに独立。以後様々なグループの形成解体、共演を繰り返しながら世界中を行脚、今日に至る。CD多数。
近著は「私説ミジンコ大全」CD「海」付(晶文社)。http://www.akira-sakata.com

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