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R.I.P. トリスタン・ホンジンガーNo. 305

追悼 トリスタン・ホンジンガー  文筆家 田中康次郎

text & photo by Kojiro Tanaka  田中康次郎

トリスタン・ホンジンガー
・・・超然とした狂気と世俗的な凡庸に揺れて・・・

6月にペーター・ブロッツマンを失ったばかりなのに、8月にはトリスタン・ホンジンガーも逝ってしまった。
1975年にアルバート・アイラー 『スピリチュアル・ユニティ』と、オーネット・コールマン 『ゴールデン・サークル』を同時に聞いた時から、フリー・ジャズと称される音楽に魅入られた私にとって、最新のフリー・ジャズ新譜情報収集の場は、渋谷の東急本店通りとセンター街をつなぐ路地の地下で、現在も営業している「discland JARO」で、確かフェニックスという輸入代理店からのものだった。
入荷予定リストを店主の柴崎氏や、当時アルバイトをしていた酒井氏から見せて貰って、ヨーロッパの新しいジャズ・ムーブメントであった、INCUS・ICP・FMPからの新譜を金銭が許す限り買い漁っていた。
勿論「ディスクユニオン御茶ノ水店」は圧倒的な存在感であったし、大阪には伝説的な「LP コーナー」があり、新宿通りを歩けば「オザワ」や「シスコ」、西武池袋店には「ART VIVANT」があった。今となっては信じられないが街にラジカルな文化が溢れていた。
そんな1976年、トリスタン・ホンジンガーとの出会いはまさに突然訪れた。
入荷予定リストから、当時全て購入すると決めていたデレク・ベイリーの新譜の中に、トリスタン・ホンジンガーという初めて名を聞くチェロとのデュオ、INCUS-20があった。
極めてシンプルなデザインのジャケットに期待を煽られ、心躍る思いでレコードをターンテーブルに載せ、針を落とすと二人の壮絶な交感が・・・
デレク・ベイリーのデュオ作は、フリー・ジャズを語る時には外せない、アンソニー・ブラクストンとの 『Duo』(EMANEM-601) を筆頭に、盟友エヴァン・パーカーとの 『Tha London Concert』 (INCUS 16)、デイブ・ホランドとの 『Improvisations For Cello And Guitar』(ECM 1013 ST) と名盤ばかりだが、それらは極めて冷徹で緻密な即興で、結果的には完璧に計算されたかのような、整然とした様式で構成されている。
それに対して、デレク・ベイリーはこのデュオでは荒いのだ、アルバート・アイラーのスタジオ録音とライブ録音の違いのように。
トリスタン・ホンジンガーは憧れの存在であったデレク・ベイリーとのデュオに高揚していたのであろうが、その血気をデレク・ベイリーが全て受け入れて反応しており、トリスタン・ホンジンガーの超然とした狂気に身震いした。
私は「お前が買ったレコードは全部俺に貸せ!」と厳命されていたので、時を同じくして高柳昌行もこのデュオを聴いたのだが、第一声は「何だ、あの気狂いチェロは!」であった。
その鮮烈な出現後、マールテン・アルテナとのデュオ、『Live Performances』 (FMP-SAJ-10)、デレク・ベイリーのライフワークともいうべき Company による、『Company 1 』(INCUS 21)、『Company 5 』(INCUS 28)、『Company 6 』(INCUS 29)『Company 7』 (INCUS 30) と1976、1977年の作品は素晴らしいし、1978年のギュンター・クリストマンとのデュオも、私の手許にある 1979年9月の、Institute for Contemporary Artsでの、デレク・ベイリーとのデュオも狂気に満ちているが、やがて急激に狂気は薄れていくのだ。
1980年のグローブ・ユニティ初来日時も、私は久保講堂のホール内で写真を撮っていて、あのデュオでの狂気の記憶は鮮烈に焼き付いていたはずなのに、ステージ中央で演奏していたトリスタン・ホンジンガーは、存在感が薄く記憶がほとんど無いのだ。

その後も彼の演奏はかなりメロディアスになって、稀に狂気の片鱗が窺える瞬間はあるものの、私には凡庸に聞こえたし、本物ではないような気がしてならなかった。彼にはウィレム・ブロイカーのような、大道芸的な志向があったのではないかと感じている。
近藤等則や浅川マキとの共演、私の親しい演奏家から、「エアジンを覗いたら、トリスタン・ホンジンガーが居たよ!」と聞いた事もある。
私はこの時代の彼を深く聞き込んではいないので、断定的な事は言えないが、彼からは2017年に逝ったミシャ・メンゲルベルクのような一貫性は感じないのだ。
冒頭部分でも述べたが、街に文化的な媒体が溢れ、社会がラジカルであった1960年代最後期から、ヨーロッパのジャズ・ムーブメントが胎動し、1970年代には圧倒的な存在感であったが、1980年代に入ると誰もが得体の知れぬ巨大な圧力に牙を捥がれ、無力化させられていく大きな流れの中で、ほとんどの演奏家の魂は漠然とした捉えどころのない社会風潮の中で迷い揺れ動くことになってしまった。
あのデレク・ベイリーでさえ、よれよれの演奏が多くなってしまったほどに...。
彼のみならず、ペーター・ブロッツマンにしても、晩年の活動は私には理解し難いことの方が多いが、彼らが超然としていた時の演奏を聴けたことは、私にとっては大きな幸運だし、その時間を共有できたことを誇りにさえ思う。
私には思想に捉われず尊敬する人々のみを記した鬼籍簿があり、そこには既に彼の名と生没年が記されている。コロナ禍以降だけでもリー・コニッツ、ジュゼッピ・ローガン、ミルフォード・グレイブス等々、多くの偉人を失ってしまった。
トリスタン・ホンジンガーの魂に安らぎが来たることを祈ります。


田中 康次郎. たなか・こうじろう
文筆家。
1957年2月、 福井県生まれ。立教大学卒。 1975年上京、副島輝人氏からプロジェクト21大橋邦雄氏を経て高柳昌行氏と邂逅、1991の同氏の逝去まで同氏に仕える。1985年福井へ戻り、会社勤めをしながら執筆活動を続ける。アルバム『高柳昌行/Live at Lovely/Live at Lovely 1990』(NoBusiness)発売実現に尽力など。

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