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My Pick 2024このパフォーマンス2024(国内編)No. 321

#07 外山喜雄&デキシー・セインツ「サッチモを偲ぶメモリアル・セレモニー」 岡本勝壽

サッチモを偲ぶ「メモリアル・セレモニー」~献花式とデキシー・セインツの演奏~

1953年、“サッチモ”の愛称で世界中の音楽ファンに愛されたルイ・アームストロングの率いる楽団が、仙台(花京院)にあった「米軍将校俱楽部=米軍オフィサーズクラブ」で慰問演奏を行った。
米軍将校と家族、アームストロング楽団の演奏に花を添えた「前座」の日本人演奏家、施設従事者、日本人ゲストの多くが旅立っていた。
長い間不明になっていた「将校俱楽部」の所在地が、複数の地図や新たな証言などから花京院二丁目にある旧「和火一(わびいち)、(株)一の坊所有地」と「三和プレシーザ・ビル」にまたがる敷地内であることが判明した。
振り返れば2019年10月、せんだいメディアテークで開催した「資料で探る仙台と日本のジャズ史展」会場に来場した菊池栄次郎さんから「将校俱楽部」のことをお聞きしたのが発端になった。
菊池さんは、ルイ・アームストロング楽団が将校俱楽部で慰問演奏した際に最前列でサッチモの演奏を聴いた生き証人の一人だった。
2020年9月、「藤崎」一番町館で開催した「第1回楽都仙台と日本のジャズ史展」のため神町(山形)から高見秀司ご夫妻をお招きすることができた。
菊池さんが仲介していただき、高見さんとお会いした時に「死ぬまでにもう一度仙台に行ってみたい」という高見さんの言葉をお聞きし、「藤崎」鈴木課長と相談の上、ご高齢の高見秀司氏の体力に無理がない車に奥様が付き添うという条件付きで、仙台行きが実現した。
「藤崎」が手配した車には私が同乗したが、少し早めに仙台に到着したので、花京院二丁目の「将校俱楽部」があった場所へ高見夫妻を案内することになった。  
「懐かしいなぁ。(将校倶楽部は)ここだったと思う。」と高見さん。
高見秀司夫妻は、神町の米軍施設や花京院の将校俱楽部などでバンドの斡旋(マネジメント)業に従事し、ルイ・アームストロング楽団慰問演奏の前座を務めた日本人ジャズ・プレーヤーのマネージャーをされ、サッチモ一行のお世話をした方だ。
当時の地図や菊池さんの証言から旧「和火一」が「将校俱楽部」の所在地に間違いないと思っていたが、高見さんの言葉は確証に繋がるものだった。
2023年9月開催の「第4回楽都仙台と日本のジャズ史展」に見えられた(株)「一の坊」専務取締役駒井亜希子様から、現在の建物が建てられる前に行われた建築工事の際に「将校俱楽部」の建造物の一部が見つかっていたという重要証言が得られたことから、ルイ・アームストロング楽団を偲ぶセレモニーが出来ないかと考えた。
花京院二丁目は、道路拡張工事、建物があった場所の地権者変更、所有者の代替わりや営業形態の変更があった場所だ。
米軍が、仙台及び周辺に進駐・駐留したのは、昭和20年9月から昭和32年11月にかけてのことだ。(1952年日本占領が終わると米軍は、駐留軍として日本国内に基地を置いている。)
基地で軍務に就く兵士の娯楽として「ジャズ」を含める様々なジャンルの音楽演奏やショーが米軍施設内で行われていたが、ジャズの王様ルイ・アームストロング楽団の仙台慰問演奏は、『楽都』と呼ばれるようになる仙台の「音楽史」において歴史的な出来事だったと思う。
藤崎催事担当の鈴木課長から「第4回楽都仙台と日本のジャズ史展」で演奏していただいた「外山喜雄とデキシー・セインツ」に2024年「第5回楽都仙台と日本のジャズ史」での演奏をお願いしたいという嬉しい提案があった。
外山喜雄氏は、トランペット演奏の第一人者だが、「サッチモ」のスピリットを伝承する音楽大使としても活躍しており、「日本ルイ・アームストロング協会会長」「日本ジャズ音楽協会理事」の要職に就かれている。
「メモリアル・セレモニー」開催には、外山さんの協力が必要だと思った。
様々な課題を乗り越えなければならなかった。
地権者である一の坊の了解が得られるだろうか?人員の配置等で「藤崎」の合意を取り付けること。隣接住民への配慮(騒音などの苦情に関する町内会への対応)。
何よりも外山喜雄さんに相談しなければならないこと。当日の「天気」も味方にしなければならないなど。(「テント」を設ける予算面の余裕はないのだ。)
「言うは易く行うは難し」という言葉通りだった。
最大の懸案事項である駒井亜希子様を始め、「一の坊」関係者のご協力をいただくことが出来た。花京院町内会への連絡もできた。
「藤崎」鈴木課長のご努力と外山喜雄さんの温かいお気持ちが「メモリアル・セレモニー」の実現に結び付いた。お天気も味方してくれ、5年がかりのセレモニー開催の日を迎えた。(「念ずれば叶う」という言葉もある。)
9月8日(日)16時から地権者である(株)一の坊専務取締役駒井亜希子様とご家族、一の坊関係者、宮城芸術文化館館長、博物館学芸員、郷土史研究家、ジャズ・ファン、「藤崎」社員、テレビ番組制作会社スタッフが立ち合い、サッチモを偲ぶ「メモリアル・セレモニー」が、開催された。
「第5回楽都仙台と日本のジャズ史展」開催を記念して、特別演奏するため仙台に見えられた外山喜雄さん率いる「デキシー・セインツ」も駆け付けてくださった。
外山喜雄さんの挨拶。外山夫妻にサッチモを偲び「一の坊」と「藤崎」が手配された献花台への献花をお願いした。
昭和29年代、(進駐軍占領下の)仙台市内は、西公園から南町通りにかけて「メーブル街」、大町通りは「ヒッコリー」、光禅寺通りから仙台駅にかけて「インディアナポリス街」といった地名がつけられていた。
 式典を締めくくる演奏曲目について外山さんと相談して<オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート>を演奏いただけることになった。
 いつの日か、「サッチモゆかりの地」である花京院二丁目の通りが「サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」と呼ばれるといいな、という願いからだった。
何よりも「デキシー・セインツ」による素敵な演奏が実現したのだ。最後に<聖者の行進>がパレード演奏されて「メモリアル・セレモニー」は閉会した。
外山喜雄さんから「演奏中に、空の上からサッチモが微笑んでくれたようだった」というお言葉をいただけた。改めて、地権者である一の坊様にお礼を申し上げます。
唯一の心残りは、セレモニーの前々月に高見秀司さんが、亡くなられたこと。菊池栄次郎さんがご病気のため「式典」にお招きできなかったことだった。
式典終了後、定禅寺ストリートジャズフェスティバルで賑う市内中心部に移動し、「藤崎」本館前特設ステージで、デキシー・セインツによる「スペシャル・ライブ」が開催された。まるで映画のシーンを見るかのような演奏が繰り広げられた。
ステージ前には、デキシー・セインツゆかりの「気仙沼ドルフィンズ」関係者の姿があった。仙台で活動されている「仙台スウィング・クラブ(代表:尾形奈美様)」のダンス・パフォーマンスと「南蛮ブラスバンド」の皆様が飛び入りで共演した。会場は、聴衆千名超の熱気と爆発的盛り上がりの中で、幕を閉じた。
これ以上望むことが出来ない夢のような式典が「サッチモゆかりの場所」で実現された。

(株)一の坊・・老舗温泉旅館を運営。戦後は、仙台市内で複数の映画館(青葉劇場、名画座)等を経営した。
花京院二丁目で、仙台初のボーリング場(仙台ボーリング)を開場。同ボーリング場跡に高級焼肉店「うしわか」⇒「和火一」(平成24年4月まで)営業した。現在は、更地になっているが「駐車場」として活用中。


岡本勝壽(おかもとかつじゅ)
東京大田区生れ。仙台育ち。幼少時にエノケン(榎本健一)、ジャズ三人娘(美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ)や彼女たちをバックで鼓舞するジャズ・バンドの演奏に魅かれる。

楽都仙台をベースに半世紀余り「ジャズ巨人達」の生演奏に触れる。
宮城芸術文化館理事(気仙沼市)。近代仙台研究会会員。
オーディオ仲間とレコード鑑賞会とジャズ・ライヴを企画・開催(仙台良音俱楽部)。
(展示企画)「楽都仙台と日本のジャズ史展(2019ー2024)」実行委員会委員長
(映像作品)ドキュメンタリー「楽都仙台と日本のジャズ史」2022年
        「楽都仙台と日本のジャズ史(特別編)」2024年
楽都仙台と日本のジャズ史制作委員会委員長
(寄稿)
・ドキュメンタリー「楽都仙台と日本のジャズ史(藤崎)」DVD作品ライナー
・ジャズ批評誌(Vol.107)「チェットベイカー特集号」寄稿
(近著)
・「仙台ジャズ物語 楽都仙台と日本のジャズ史」(金港堂)2023年3月31日初版
・「仙台ジャズ物語 楽都仙台と日本のジャズ史」(金港堂)2023年4月12日第2刷
(出版協力)
・「Memory’s Jazz concert  60 years 石塚孝夫著」   2019年8月11日刊行

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