悠々自適 #85「TOKYO TUCから巣立った才媛を、驚嘆ついでに、もう一度讃える」
text by Masahiko Yuh 悠 雅彦
新しい年が再び巡ってきた。2019年の劈頭を飾る巻頭文ではあるが、だからと言ってこと改まった行儀のいい文書で巻頭を飾るつもりなどないことをご了解いただきたい。
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東京の代表的なジャズのライヴハウスとして1993年以来多くのジャズ愛好家に親しまれてきた TOKYO TUC が、咋2018年いっぱいで25年にわたる活動に終止符を打った。世界でここにしかないJAZZを提供するとの信念のもとに活動してきた同ライヴハウスがなぜ突然、店じまいしたのかはホームページにも記載されていないし、私たちには知るよしもない。突然とはいったものの、実は夏の終わりごろから所縁のある様々なミュージシャンによるスペシャル・コンサートや別れを惜しむかのような演奏会が行われてきたことは、熱心なジャズファンなら誰もがご存知のはず。12月に入ると、そうした特別なコンサートが立て続けに催されるようになる。例えば12月17日には椎名豊、翌18日には川嶋哲郎、23日には山中千尋といったわが国の実力派ミュージシャンがグループを率いてステージを飾った。そして28日。 Final Live と銘打ったいわばお別れのコンサートには岡崎好朗 tp、多田誠司 as、岡淳 ts&fl、椎名豊 p、井上陽介 b、大坂昌彦 ds という文字通り現日本ジャズ界の最強メンバーが一堂に会して、TUCの最後を飾った。
ところが、実際には正真正銘の最後の一夜が用意されていた。2018年もいよいよあと1日という土壇場の12月30日。この夜、限定ライヴとうたって催されたのが、ヴァンガード・ジャズ・オーケストラの女神として脚光を浴びたピアニストで作編曲家、ニューヨークでは “Miggy” の愛称で親しまれている宮嶋みぎわによる特別演奏会だったのである。プログラムには<Special Concert with Miggy And Friends>とあり、会場のTUC店内は彼女をよく知る友人や知人で最後の夕べにふさわしいアットホームの賑わいを見せた。
宮嶋みぎわについては、本JAZZ TOKYO の新譜紹介(No. 247)で、彼女が2017年8月にニューヨークで吹き込んだデビュー作『Miggy Augmented Orchestra / Colorful』 を取り上げた縁もあったが、まったく驚くことばかりだった。何しろこの1作を手にするまで私は宮嶋みぎわを何一つ知らなかったのだから、名門ヴァンガード・ジャズ・オーケストラのメンバーも参加し新たに結成したオーケストラを指揮してデビュー作を制作したという一事だけでも仰天に値することだったのである。その彼女がリーダーとなって、TOKYO TUC の文字通り最後の一夜を飾る演奏会を行うという。直前の2日前にはインタヴューを行なった縁もあって、私はTUC での特別コンサートにお招きを受けたのだった。インタヴューを試みた場所は彼女が親しくしている神田のジャズ喫茶「アディロンダック・カフェ」だったが、そのカフェのマスター、滝沢さんご夫妻と連れ立って私は TUC へと向かい、 TUC 最後の一夜を宮嶋みぎわグループの音楽を聴いて過ごした。
実質的には宮嶋みぎわクインテット。構成メンバーの大半を、ベースの寺尾陽介を除いて私は寡聞にして知らなかった。KOTETSU(trombone、vocal)、副田整歩(sax) 、寺尾陽介(bass)、よしうらけんじ(percussion)、宮嶋みぎわ(p, composer, leader)。先に触れた宮嶋みぎわとのインタヴューはこの巻頭文で紹介するのはいささか場違いのような気もするし、改めて新春インタヴューの形で紹介することが望ましいと思うので、ここではごく控えめにここTUC との関わりに触れた個所だけ引用させていただくことにしたい。
彼女は大学を出た後、音楽家志望の道を断念していたわけでもないのに、音楽とは直接には関係のない会社に入って仕事をするようになった。実際彼女は音楽家志望を断ったわけではないというその証拠に、その道ではよく知られたある旅行雑誌の編集デスクを務める傍ら自分自身のビッグ・バンドを持っていて、ある時からここTOKYO TUC で演奏する便宜をはかってもらっていたというのだ。この話を耳にした瞬間私は、彼女が音楽家としての自分を育んだ最良の場がTUCであることを自覚しており、仮にTUC 側から2018年いっぱいで店じまいする最後の一夜を用意されたとしたら辞退する理由はどこにもないことを確信した。彼女はTUCに対してそれだけの恩義を抱いていたことを私は露一つ疑わない。私はインタヴューでお会いしたたった一度の機会を通して、彼女が自己の信念を決して裏切らない背高泡立草の生命力を秘めたマリーゴールドのような人だと思い知った。それでなければ彼女がスライド・ハンプトンのような傑出した演奏家兼作編曲者や、スティーヴ・ウィルソンのような優れたインプロヴァイザーから親身に手を差し伸べてもらうことなどありえなかったのではないだろうか。
インタヴューで彼女の口からスティーヴ・ウィルソンの名前が飛び出したとき、私は自分がWHYNOTというレーベルのプロデューサーとして活動していた最後の季節、正確な日付は忘れてしまったが、確か1984年にドン・プーレン(1995年4月22日死去)を起用してセロニアス・モンクの作品集をプロデュースした前後ではなかったかと思う。デビューして間もないアルト・サックス奏者で、優れた黒人インプロヴァイザーの演奏に触れて心が激しく動いたのだ。資金的な余裕があったらホワイノット・レーベルのレコーディングに誘いの手を差し伸べて彼の初リーダー作を制作していたかもしれない。それがアルト奏者スティーヴ・ウィルソン(1961年2月9日生)であった。彼は日本にこのころ一度来て演奏したことがある。それは記憶に間違いがなければ1980年代半ばのマウント・フジ・ジャズ・フェスティバルで、初来日したOTB (Out of the Blue)の1員としてであった。このときもむろん新鮮な演奏だったが、それ以上にニューヨークでミンガス・ビッグバンドやウィントン・マルサリスと共演した演奏などで聴いた彼のフレッシュなアルト・プレイに心を動かされたことを今も鮮明に憶えていて、ときに思い出して懐かしむことがある。前置きがいささか長くなってしまったが、宮嶋みぎわとのインタヴューでスティーヴ・ウィルソンの名が飛び出したときは柄にもなく興奮してしまった。彼女はこのとき、現在の自分があるのはスライド・ハンプトンとともにスティーヴ・ウィルソンのおかげだと声を大にして讃えたのだ。詳細は別稿のインタヴューをご覧いただきたいが、彼女が作曲家としてデビューできたのもヴァンガード・ジャズ・オーケストラやウィルソンのリーダー・アルバムで自分の作品を取り上げてもらったからだと強調した。彼女はグラミー賞にもノミネートされたが、それもヴァンガード・ジャズ・オーケストラが自分をチームに招き入れたてくれたからだと言って憚らない。
スライド ・ハンプトンやスティーヴ・ウィルソンの賛辞を引き合いに出すまでもなく、宮嶋みぎわの作編曲の才覚は、デビュー作『COLORFUL』のただ1作を耳にしただけで明らかだ。ただ、本誌のディスク評でも触れたことだが、素晴らしいとは直感してもいったい何が、いったいどこが素晴らしいのかが、具体的に明解な指摘ができなかった。いま振り返れば、それほど彼女の作編曲作業が先例に依拠しない独創性に富んだものだったからだと容易に想像できる。何しろ渡米してまもなくジム・マクニーリーのもとで指導を受けるまで、彼女は作編曲を誰からも正規に学んだことがなかったなかったからだ。私とてその事実を彼女から直接うかがうまではまったく知らなかった。この夜の演奏についてはTUC最後のお別れステージでもあり、ミギーの独創的な才覚が発揮されたわけではなかった。分かったのは彼女の聡明で陽気な人柄、TOKYO TUCへの感謝が、彼女の細い体からはち切れんばかりに横溢していたこと。彼女の独創的な編曲書法の一端に触れようと思えば、先掲のデビュー作にアタックするに限る。これだけは間違いない。
かくして、25年にわたって日本のミュージシャンを支え、ジャズ演奏の素晴らしい場を提供してきた TOKYO DUC は幕を下ろし、表舞台から姿を消すことになった。私自身はTUCへの道が何度尋ねても覚えられないこともあって、よほどの機会でなければ訪ねるのを諦めたことを今更ながら後悔している。今はただ、長いことありがとうという一言でお別れしたい。(2019年1月23日)