悠々自適 #93「ジャズ・ミュージシャンの死と新型コロナウイルス」
text by Masahiko Yuh 悠雅彦
我が国のモダン・ジャズ界を長きにわたって主導してきた功労者の1人で、日野皓正の実弟、惜しくも夭折した日野元彦(1946.1.3~1999.5.13)らとともに、単にドラム界のみならず我が国のモダン・ジャズの発展に多大な寄与を果たしたジョージ大塚(1937.4.1~3.14)の死は、彼が私にとって数少ない気のおけぬジャズ・プレイヤーだっただけに、なおのこと悲しくも衝撃的ですらある出来事だった。何といっても彼は私の同年齢であるという、そのまぎれも無い事実が私の先入観を氷解させ、言いようのない親近感をもたらしてくれたことは間違いない。1977年、私が当時最もその将来を嘱望していたピアニスト、辛島文雄のアルバムをプロデュースしようと思い立った裏には、おそらく彼がジョージ大塚と親密な関係にあり、両者の演奏を何度か目撃した事実によっていたからだと言ってもあながち言い過ぎにはならないだろう。ところが、このときあいにくジョージが別の仕事で体があかず、辛島の希望を入れて日野元彦に演奏を依頼したのであった(ベースはジョージ・ムラッツ)。この1作は私にとってある種の宝物であり、今にして思えばあのとき心を決めてレコーディングに踏み切って良かったと思わずにはいられない。とりわけ辛島がその後、病におかされて、ある日突然この世を去ったことを知ったときつくづくそう思ったことが今でも忘れられない。この『Landscape』(WhyNot) は今となってはまさに私の宝物のような作品である。
ちなみに、この77年の5月、私は知己を得た藤原清登を起用して、2トロンボーン(片岡輝彦、塩村修)のアルバム『片岡輝彦/ラヴ・ウォーキング』(WhyNot) を制作した。このとき初めて辛島文雄とジョージ大塚に参加してもらったのだが、辛島の初リーダー作を制作する気持はこのときに決まったことを懐かしく思い出す。
そのジョージ大塚の訃報の直後、思いもしなかった知らせが私を打ちのめした。何とハービー・ハンコックと並ぶモダン・ジャズ・ピアノの最後の巨人、マッコイ・タイナーが世を去ったという衝撃的なニュースが舞い込んだのだ。ネットで検索してみると彼の死は3月6日で、実際にはかのジョージ大塚よりほぼ1週前の弔事であることがわかって2度びっくりした。マッコイ・タイナー(1938年12月11日、フィラデルフィア生)は単にモダン・ジャズ史上最後の偉大なグループといっても決して過言ではないジョン・コルトレーン・クヮルテットのピアノの座を死守し、数々の輝かしい作品誕生に寄与した偉大なピアニストあり、今さらながら彼の偉大な業績を讃えたい。『リアル・マッコイ』(BlueNote 1967) や『エクスパンションズ』(BlueNote 1969) 等の忘れがたいアルバムを吹き込んだ彼を、ブルーノート社は公式声明で「彼はジャズの伝説的存在だが、言葉でその業績を称えるのは実に難しい。とはいえ、彼が史上最高の偉大な存在の主であったことは間違いない。安らかに」と弔辞を伝えた。生前ジョン・コルトレーンはこう言って彼をたたえた。「彼はハーモニーをしっかり捉えているので、私は安心してプレイに専念できる。つまり彼は私に翼を与え、時には地表から悠々と離陸させてくれる人なんだ」。
コルトレーンがマッコイ・タイナーを含む歴史的クヮルテットで果たした数々の偉業に、とりわけそのタイナーやエルヴィン・ジョーンズらが果たした貢献の大きさは実際はかりしれない。コルトレーンのもとを去った後、タイナーは60年代末、ゲイリー・バーツを含むグループを結成し、72年にはソニー・フォーチュンを含むクヮルテットを結成し、しばしば来日してその偉大な健在ぶりを示した。とはいえ、率直に言えば、コルトレーン・クヮルテット時代の演奏を凌ぐことができたかといえば首を傾げざるを得ない。70年代の半ばに私が WhyNot(ホワイノット)というレーベルを作って、ジョージ・ケイブルス、ドン・プーレン、ジョー・ボナー、そのほかジョー・リー・ウィルソン、ウォルト・ディッカーソンや、シカゴへ飛んでリチャード・エイブラムス、ヴォン&チコ・フリーマン、ヘンリー・スレッギルの AIR 等々、精力的にしかし怖れることなくプロデュースしたミュージシャンは数多い。今でも残念に思えて仕方がないのは、「そのうち機会が巡ってきたら君のレーベルでレコードを作るのを楽しみにしているよ」とニューヨークのとある通りで、マッコイが愛妻アイシャの肩を抱き寄せながら、微笑みつつ、しかし真剣な眼差しで語ってくれた、その夢のようなプランをやはり実現する機会を永遠に失ったことだ。マッコイ・タイナーというミュージシャンは冗談が得意な人ではなかっただけに、私には永遠に忘れられない彼の呟きだった。
タイナーがコルトレーンのもとで導き出したピアノによるモード奏法は、あれから半世紀近い歳月が過ぎ去ったいま思い返して口にすると、もはや帰りこぬ青春に想いをいたすような感じがしてきまり悪いが、少なくともモード・ジャズのピアノ演奏の特異な奏法を確立した彼の業績は、マイルス・デイヴィスのもとで最もオーソドックスなピアノによるモード・ジャズの基本的奏法を編み出したハービー・ハンコックのそれとともに、ジャズの歴史の中で永遠に輝き続けることだろう。彼の冥福を祈りたい。
今回の巻頭文はたまたまコロナウイルス騒ぎの真っ只中で書くことになってしまった。常の状態であったなら、マッコイ・タイナーの編み出したモード奏法、コルトレーンの奏法から導き出したあの極めて特異なモード・ジャズのピアノ奏法の一端に触れて締めくくりたかったし、その特異な奏法がいかにジャズの知を結集した最高の遺産の一つであったかを改めて語りたいと思って書き始めた。そんなわけで極めて残念ながら今回はここで失礼し、またいずれ機会を得て語りあらためることにしたいと思う。
なお、今しがたの報道では、なんとマルサリス兄弟の父親、エリス・マルサリスが新型コロナウイルスの毒牙にかかって亡くなったという。同様に、トランペッターのウォレス・ルーニーまでがなくなったとの報道が目に入った。この分ではあと何人の犠牲者がジャズ界から現れるかもしれず、この事態を深く憂慮せざるをえない。(2020年4月3日記)