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Monthly EditorialEinen Moment bitte! 横井一江No. 321

#48 バール・フィリップスを偲んで

text & photo by Kazue Yokoi  横井一江

年の瀬に訃報が伝わってきた。SNSのタイムラインを見た友人がバール・フィリップスが亡くなったという。やがてドイツの Jazz Pages また London Jazz News が訃報を伝え、新年になってからフランクフルター・アルゲマイネ紙やルモンド紙も追悼記事を掲載していたとおり、残念ながらガセネタではなかった。常ながらタイムラインには日本語でも個人的な思いが沢山ポストされていた。同じく2024年に亡くなったイレーネ・シュヴァイツァーの時(→リンク)とは反応が異なる。これは故人の業績とは別に、来日回数および日本の音楽ファン/関係者との接点の違いを表しているのだろう。

1934年10月27日サンフランシスコ生まれ、2024年12月28日ニューメキシコ州ラスクルースにて没、享年90。若い頃から演奏を始め、サンフランシスコ交響楽団のチャールズ・シアニにコントラバスを学ぶ。当初はミュージシャンになるつもりはなく、学者の道に進もうとしていたが、25歳の時に音楽で生きていくことを決意する(1)。1962年にニューヨークに移ってからは、ニューヨーク・フィルのコントラバス奏者フレッド・ツィンマーマンに師事する一方、ガンサー・シュラーのサード・ストリーム・ジャズに触れ、当時の革新的なジャズ・シーンで活動を始める。アーチー・シェップのアンサンブルやジミー・ジュフリー・トリオ、またジョージ・ラッセル、アッティラ・ゾラー、ボブ・ジェームスなどと共演。1964年ジョージ・ラッセル、1965年ジミー・ジュフリーのヨーロッパ・ツアーに参加。また、レナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルでも演奏している。彼の演奏が聴ける最も古い録音はおそらく『エリック・ドルフィー/ヴィンテージ・ドルフィー』(GMRecordings, 1963年録音) だ。

1967年にロンドンに渡り、アヴァンギャルド・シーンに関わっていく。London Jazz News にエヴァン・パーカー (ts, ss) が寄せた追悼文(→リンク)には、ジョン・スティーブンス (ds) が拠点としてたリトル・シアター・クラブ、またロニー・スコッツのオールド・プレイス(2) の名前が出てくる。リトル・シアター・クラブは出会いの場でもあり、デレク・ベイリー (g) やエヴァン・パーカー (sax) などの他に国外のミュージシャンも出入りしていた。実際バリー・ガイ (b) にインタビューした時、その中にバール・フィリップスの名前があったことを記憶している。オールド・プレイスで演奏していたクリス・マクレガー (p) とはセクステットやトリオで、そしてまたマイク・ウェストブルック・コンサート・バンドで活動。1969年にはジョン・サーマン (bs) がフィリップスとスチュ・マーチン (ds) とのザ・トリオを結成する。また、1969年のバーデン・バーデンで行われたフリー・ジャズ・ミーティングにはテリエ・リピダルのグループで出演した。1972年にはフランスに移り、南フランスのピエールヴェール(アルプ=ド=オート=プロヴァンス県)の古い修道院を居に定め、ヨーロッパのフリージャズ、即興音楽で活動する様々なミュージシャンと交流を続けた。書き始めると人名録になってしまうので割愛するが、その中にはフランスの大歌手コレット・マニー、またフランスのレジェンド、ミッシェル・ポルタル (cl) やベルナール・リュバ (ds, p, per, vib, acc, vo)、チェコの大御所イジー・スチヴィーン Jiri Stivin (fl) 、ドイツの巨匠アルバート・マンゲルスドルフ (tb) もいる。また、同じベーシストであるバリー・ガイのロンドン・ジャズ・コンポーザース・オーケストラの1990年代のプロジェクトでも演奏していた。

ロンドンに移った翌1968年、バール・フィリップスは無伴奏ベース・ソロ作品『ジャーナル・ヴィオロン』(Opus One) を録音した。それはフィリップスがニューヨークに住んでいた頃、作曲家マックス・シューベルとの出会っていたことから出来たアルバムだ(3)。シューベルが当時ロンドンに居たフィリップスに「ロンドンに行って録音をしたい。ミュージシャンを探してくれる?」と聞いてきたことに端を発する。フィリップスは現代音楽作品の録音のためにミュージシャンやスタジオを手配した。それが終わった後、シューベルがフィリップスに「コロンビア大学の新しいエレクトロ・アコースティック・スタジオでテープ音楽を制作するための音源として使いたいので録音させてほしい」と言い出したことからベース・ソロを録音する。結果的にそれが編集されてアルバムとして世に出ることになったのだ(4)。これは世界で初めてのベース・ソロ・アルバムであると同時に、ベースでもソロ演奏し得ることを示した作品でもあった。既に独自に奏法を開拓していたこともあり、それを用いて構築化されたサウンドから、当時のフリージャズによる表現の先を見据えていたようにさえ思う。1971年にはデイヴ・ホランドとのデュオ・アルバム『ミュージック・フロム・トゥー・ベーシズ』(ECM) を録音している。これは、デイヴ・ホランドのラージ・プロジェクトをNDR(北ドイツ放送)が公開録音をする際に、リハーサルの休憩時間に戯れにデュオで演奏していたのを耳にしたマンフレート・アイヒャーが彼らにデュオ・アルバムを提案したことで制作された(5)。その後、ペーター・コヴァルトとも『Die Jungen: Random Generators』(FMP, 1979) 録音するなど、ベースという楽器による表現の可能性を拓いていく。即興演奏家の常ながら、多彩なミュージシャンとの録音が残されている。

1980年代、欧米の即興演奏家を次々と招聘していた豊住芳三郎がバール・フィリップスも日本に呼ぶ。その後、オーネット・コールマン、デナード・コールマンとの仕事で1992年に来日した時を除き、単独でたびたび来日するようになった。バール・フィリップスと齋藤徹との出会いも豊住が招聘した時で、CD『齋藤徹 (b)、パール・フィリップス (b)、豊住芳三郎 (ds)、栗林秀明 (17絃箏)/彩天』(アケタズ・ディスク、1988年録音)を制作している。日本での録音では、他に『バール・フィリップス/灰野敬二/豊住芳三郎』(PSF Records, 1991録音)、吉沢元治とのベース・デュオ『OH MY, THOUSE BOYS!』(ちゃぷちゃぷレコード、1994年録音) などがある。

1995年1月に阪神淡路大震災が起きた時には、すぐにバール・フィリップスと画家アラン・ディオが、被災地域のアーティストとの連帯を表明し、マルセイユ近辺のアーティストに呼びかけて義援イベントを行う。これをきっかけに神戸とマルセイユのアーティストによる交流プロジェクト「アクト・コウベ」の活動が始まり、2005年まで続けられた。また、東日本大震災による原発事故後の福島で撮影されたドキュメンタリー映画『無人地帯』(監督:藤原敏史、2011年)の音楽を担当したのはフィリップスだった。その映画が先行上映された同志社大学今出川校地ハーディーホールでの「バール・フィリップスと音楽をめぐる映画」ではフィリップスも藤原監督と共に舞台挨拶を行なっている。これらの行動は彼の音楽を通しての社会的な関わりを示していると言えるのではないだろうか。

ベーシストは他の楽器と違って、同業者同士の仲間意識が強いように思う。2024年にジョエル・レアンドルが19年ぶりに来日した時も会場にベーシストが何人か来ていた。齋藤徹と親しくなったバール・フィリップスは、1994年に齋藤をヨーロッパに呼び、翌1995年には彼が議長を務めていたアビニョン国際コントラバス会議に齋藤を招く。そして、2000年には今度は齋藤がフィリップスを呼び、井野信義と3人のベーシストで国内をツアー、『オクトーバー・ベース・トライローグ』(ポリスター)を残した。そして、2004年に互いが所有する19世紀後半に制作されたコントラバス Gand & Bernadel(略してガンベル、糸巻き部分にライオンの頭部の彫刻があるのが特色)の交換に至り(6)、交流が続いたのだ。蛇足になるが、写真は2005年横濱インプロ音楽祭で撮影したもの。場所は山手ゲーテ座。フィリップスはウルス・ライムグルーバー・トリオ(ライムグルーバー (sax)、ジャック・デミエール (p)、フィリップス)にローレン・ニュートン (voice) が加わったカルテットと齋藤徹とのデュオで演奏、2頭のライオンは再会したのである。

バール・フィリップスは優れた、そして開かれた耳の持ち主だった。All About Jazz に掲載されたアンドレイ・ヘンキン氏による2004年のインタビュー(7)では、即興演奏においては、知的なアプローチよりも耳に導かれて演奏すること、また頭の中に聴こえてくる音を具現化するために鍛錬することの大切さを述べていた。

『ジャーナル・ヴィオロン』の録音から50年目の2017年にジャーナル・ヴィオロン最終章、最後のソロ・アルバム『End to End』(ECM) を録音する。それがスタジオでの録音の最後になるのではと思ったが、2022年にルーマニア生まれでハンガリーの現代音楽の作曲家として著名なクルターグの息子ジェルジ・クルターグ Jr. (live electronics) とのデュオ作品『Face à Face』(ECM, 2020年録音) がリリースされたのには驚かされた。そのベースは、水墨画を描く老練な絵師の筆致のように迷いがない。その後、バール・フィリップスはアメリカに帰国し、そこで最期を迎える。その訃報を知った時、楽器の深部から導き出される馥郁たる響きが耳の奥で蘇ってきた。心からご冥福をお祈りします。


【注】

1  Andrey Henkin氏によるAll About Jazz のインタビューによる
https://www.allaboutjazz.com/barre-phillips-barre-phillips-by-andrey-henkin

2  ロニー・スコッツはロンドンの老舗ジャズ・クラブだが、当時2つの店があって、オールド・プレイスでは若い世代のミュージシャンの演奏していた。どちらかというとジャズ寄りの演奏をするミュージシャンだったが、南アフリカ出身のミュージシャンによるバンドもここで演奏していた。

3  Opus Oneはマックス・シューベルのレーベル。Discogの記載では、同レーベルからリリースされたロンドンで録音した彼の作品の録音年は1969年、場所は『ジャーナル・ヴィオロン』を録音したのと同じ St James Norlands Church。Andrey Henkin氏のインタビューではフィリップスは詳しく述べていないため、記憶違いか、いったんスタジオで録音したが教会を気に入ったマックス・シューベルが録音し直したのかは不明。
https://www.discogs.com/ja/release/2369732-Maximilian-Schubel-Son-Of-Quashed-Culch

4  Andrey Henkin氏によるAll About Jazz のインタビューによる
https://www.allaboutjazz.com/barre-phillips-barre-phillips-by-andrey-henkin

5  稲岡邦彌著『新版 ECMの真実』(カンバニー社、2023年)

6  齋藤徹がヨーロッパでの演奏した時、バール・フィリップスが所有するガンベルを貸してもらった。その音に魅せられた齋藤は誰にも弾かれない状態で発見されたガンベルを購入。しかし、百年の眠りから覚めたばかりの楽器の音はまだ若い。フィリップスのガンベルの音色が忘れられない齋藤の希望で、楽器が交換されることになったのである。そのために来日したフィリップスと齋藤は「2頭のライオン物語」と題したツアーを行った。
https://jazztokyo.org/column/reflection-of-music/post-40560/

7  https://www.allaboutjazz.com/barre-phillips-barre-phillips-by-andrey-henkin


【関連記事】
Reflection of Musin Vol. 67 齋藤徹
https://jazztokyo.org/column/reflection-of-music/post-40560/

 

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。メールス ・フェスティヴァル第50回記。本『(Re) Visiting Moers Festival』(Moers Kultur GmbH, 2021)にも寄稿。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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