#25 メールス・フェスティヴァルと日本
text by Kazue Yokoi 横井一江
メールス・フェスティヴァルが今年50回目を迎える。日本でもよく知られており、日本人ミュージシャンも数多く出演してきただけに、このフェスティヴァルと日本の繋がりについて振り返ってみたい。
メールス・フェスティヴァルは、1972年にまだ20代だったブーカルト・ヘネンがメールス市の古城裏の広場を借り、「ニュー・ジャズ」ミュージシャンを集めて個人的に開催したフェスティヴァルに始まる。市外からも多くの人がやってきたことから、メールス市文化局が動き、メールス市主催、ブーカルト・ヘネン音楽監督という体制で以後続く。日本的に平たく言えば文化的町おこしだろう。しかし、それが世界的に知られるフェスティヴァルとなったのは、他のジャズ祭とは違う独自のプログラムにあった。そして、「ニュー・ジャズ」の国際的なフェスティヴァルの先駆けとなったのである。ブーカルト・ヘネンは2005年で退くが、2006年から2016年まではライナー・ミヒャルケ、2017年からはティム・イスフォートが音楽監督に就任し、現在に至る。当初はインターナショナル・ニュー・ジャズ・フェスティヴァルという名称で、「ニュー・ジャズ」つまり新しい潮流のジャズを取り上げるフェスティヴァルということが強く打ち出されていたが、2006年からはメールス・フェスティヴァルに変更された。
日本人ミュージシャンはどのようなきっかけでメールス・フェスティヴァルに出演するようになったのか。音楽監督退任後の2005年9月に来日したブーカルト・ヘネンにインタビューしたところ、このような答えが返ってきた。
72年の冬、ある日曜の朝、ケルン駅の近くのバーで朝食をとっていたんだ。そこにマンフレッド・ショーフが入ってきた。日本から戻ったところで、すごくエキサイティングなフリージャズ・ピアニストとそのトリオについて話してくれたんだ。「フェスティヴァルに呼べよ」ってね。山下洋輔だ。それで、ミュンヘンのエンヤ・レコードのヴィンケルマンに聞いたんだ(*)。フェスティヴァルに出演して、録音し、ツアーを行った。74年のことで、ライヴ盤はエンヤから発売された。それが山下のヨーロッパ・デビュー。あのエネルギーにみんなノックアウトされたよ。1時間もスタンディング・オベイションが続いたんだ。おかげて他のプログラムが遅れちゃってね。他に日野皓正も呼んだよ(**)。
*ツアー・ブッキング、レコード・プロデュースはホルスト・ウェーバー
**日野皓正カルテットは1978年に出演
山下洋輔トリオ(山下、坂田明、森山威男)のエンヤ・レコードからの初リリース『クレイ』はこの時の録音で、興奮した観客の大きな拍手も捉えられている。また、山下は著書『ピアニストを笑え!』(晶文社、1976年)で、1974年メールスでの演奏をイメージを飛翔させた自由な文体で活写している。山下トリオはその後、75年、76年、77年(この時のドラマーは小山彰太)と続けて4回出演した。
日本のジャズ媒体でメールス・フェスティヴァルを市との関わりも含めた全体像を最初に伝えたのは、『ジャズ批評25号』(1977年)に掲載された大川充男の記事「第5回メールス・ニュージャズ・フェスティバル報告」だ。当時ジャズ批評編集主任だった玉井新二がそれを読み、第6回(1977年)メールス へ行こうと副島輝人を誘う。また、杉田誠一も70年代にメールスを訪ね、記事を書いている。
1977年にメールスに行った玉井は帰国後『ジャズ批評27号』(1977年)に「第6回メールス・ニュージャズ・フェスティバル報告」を掲載しただけではなく、メールスに出演していたムハール・リチャード・エイブラムスを始めとするミュージシャンへの取材を基に「8名のミュージシャンが語る現代ニューヨーク・ジャズ・シーン」という記事を書いている。因みに『ジャズ批評27号』の特集は「燃え上がるビッグ・アップル」だった。他方、副島は『芸術生活』に記事を書いた。いずれの記事にも山下トリオが観客に熱狂的に受け入れられていたことが記されている。
Photos by Charles de Peauw (all rights by moers kultur gmbh)
副島の目にはメールス・フェスティヴァルが自分の理想が実現したフェスティヴァルと映ったのは想像に難くない。副島は1973年と1976年に「インスピレーション&パワー」と題したフリージャズ大祭を主催したものの、経済的な理由で継続を断念している。それだけに、メールス市主催でフェスティヴァルが継続的に行われていることは羨ましかっただろう。翌1978年再びメールスに発つ。その後の手紙のやりとりから、副島が日本のジャズシーンに通じていると読んだブーカルト・ヘネンは、再会時に日本人ミュージシャンを紹介するように副島にもちかけた。二つ返事で副島はそれを引き受け、ほぼ毎年日本人ミュージシャンをメールスに紹介することを始める。副島は評論活動の一環としてそれを行なった。だから、商業的なプロモーターとは明らかにスタンスが異なっていたといえる。それがメールス・フェスティヴァルの趣旨にハマったことも確かだ。YouTubeにアクセスすれば過去から現在までの数多の映像があり、SNS上には情報が溢れかえっている現在とは違って、他国の音楽シーンの情報は貴重だった。ブーカルト・ヘネンはこうも言っていた。
音楽監督には誠実さが大事なんだよ。あるミュージシャンを呼ぶ前にその音楽をよく聴いて、音楽的にいいものを出さないといけない。アドバイザーとして、副島さんはいいミュージシャンを紹介してくれた。友達であるとか、有名無名も関係ない。重要なのは自身のコンセプトを持ち、芸術的に高く、作品が何かを発している、もしくは高い即興性があり、ユニークで自立していること。アドバイザーも同じ考えをもっていればラッキーだ。そうでなければ、自らあちこち行かなければならない。長い年月かけて、いいネットワークを築けたと思っている。ジャズ、即興、エスニック/ワールド・ミュージック、ネットワークはいろいろ助けてくれたよ。情報やアイデアを交換出来てよかった。
1979年から2005年までの出演者は下記のとおりである。単にフリージャズ畑のミュージシャンだけではなく、津軽三味線の山田千里など邦楽のミュージシャンもいた。副島がコーディネートしたものが大半だが、なかにはエンヤ・レコードのホルスト・ウェーバーによるブッキングも含まれている。一覧を眺めると音楽シーンの変化も伺えるのではないだろうか。日本人出演者ということであれば、1982年に近藤等則がグローブ・ユニティ・オーケストラ、2003年にはヒロ・ホンシュクがジョージ・ラッセル・リヴィング・タイム・オーケストラのメンバーとして出演している。本ステージではなくスペシャル・セッションで登場した井上敬三(1981年)、ハンス・ライヒェルとツアー中だったことからアフターアワーズにやってきて演奏した早坂紗知(1987年)、たまたまブッパータルに滞在中の白石 かずこをペーター・コヴァルトが連れてきたので急遽教会でポエトリー・リーディングと音楽のパフォーマンスを行うということもあった(1987年)。
1979年 FMT(藤川義明、翠川敬基、豊住芳三郎)
1980年 高柳昌行ニュー・ディレクション・ユニット
1981年 坂田明トリオ
1982年 佐藤允彦ソロ
1982年 近藤等則(グローブ・ユニティ・オーケストラのメンバーとして)
1983年 ドクトル梅津バンド
1984年 藤川義明イースタシア・オーケストラ
1985年 山田千里「津軽三味線グループ」
1985年 天鼓(デヴィッド・モス・デンス・バンドのメンバーとして)
1986年 近藤等則 IMA
1987年 マリア・ジョア&高瀬アキ
1988年 ファー・イースト・アンサンブル(梅津和時、姜泰煥、林栄一、片山広明)
1990年 羽野昌二(ハンス・ライヒェル「ヒット・アンド・ミス」のメンバーとして)
1991年 トン・クラミ(高田みどり、姜泰煥、佐藤允彦)
1992年 沢井和恵 箏アンサンブル
1992年 早坂紗知 Stir Up
1992年 灰野敬二(ネッド・ローゼンバーグ “Speaking in Tongues” のメンバーとして)
1993年 大友 良英グラウンド・ゼロ
1994年 サード・パーソン(トム・コラ、サム・ベネット、梅津和時)
1996年 フェダイン
1996年 西野恵「鼓絆(COHAN)」
1998年 渋さ知らズオーケストラ
1999年 のなか悟空 & 人間国宝
2000年 渋さ知らズオーケストラ
2001年 藤井郷子カルテット
2002年 渋さ知らズオーケストラ
2003年 梅津和時 KiKi バンド
2003年 佐々木彩子 チャン・バンド
2003年 ヒロ・ホンシュク(ジョージ・ラッセル・リヴィング・タイム・オーケストラのメンバーとして)
2004年 ROVO
2005年 佐藤允彦 & SAIFA 「トリビュート・トゥ・ザ・ミュージック・オブ富樫雅彦」
2005年 渋さ知らズオーケストラ
この中でも幾つかのライヴ録音はLP/CD化された。1983年のドクトル梅津バンドのライブ録音は、ブーカルト・ヘネンのメールス・ミュージックからのリリースである。
副島が紹介したグループの中で最も成功したのは渋さ知らズだ。これについては別稿(→リンク)でも書いているので繰り返さないが、その人気ぶりと観客の熱狂ぶりは私がメールスで見たステージの中では最大のものだった。ブーカルト・ヘネンは渋さ知らズについてこう語っていた。
渋さ知らズは70年代の山下みたいだったよ。聴衆はノックアウトされたんだ。あの時と同じ状況が起こった。1時間に渡るスタンディング・オベイション。遅い時間なのに終わる気配がない。警官も待機していた。市の人間からステージへ出ていって辞めさせろと言われた。でも、出来ないよ。わかるだろ。メールスの聴衆は恐いんだよ。命がなくなっちゃう。渋さは3回やったけど、今やヨーロッパ中のフェスティヴァルがブッキングしたがっている。
メールスを訪ねた評論家は副島だけではない。だが、メールス・フェスティヴァルの紹介者というとまず副島の名前が挙がるのは、1978年から1988年まで毎年8ミリフイルムで記録映画を撮影し、映写機を持って日本全国のジャズ喫茶などで小規模ながら上映会を行い、最前線の音楽を伝えたからではないだろうか。映像は音と違って、視覚から強く訴えるものがある。今と違って映像資料は滅多になく貴重だっただけに、その地道な活動がメールス・フェスティヴァルの認知度を上げたと考えられる。このような発想に至ったのは、副島の評論家としてのスタートが映画評論だったこととも関連しているだろう。DIYで撮影、編集から上映までほぼ一人で行った熱意とエネルギーには今もって感心させられる。まさに前衛血球のなせるわざだ。紛失したフイルムがあるのは残念だが、残されたものは貴重な映像資料として慶応義塾大学アートセンターに保管されている。各地で上映会を行ったこともあって、人的な交流も出来、メールス行きに際して副島はよく友人や上映会などを通じて知り合った人達を誘っていた。中にはメールス映画を観たことから触発されてNMAを発足した札幌市の沼山良明もいる。彼は実際にメールスにも足を運び、1986年から1997年にかけて札幌市でインターナショナル・ナウミュージック・フェスティヴァル札幌を合計6回開催した。NMAとしてライヴをオーガナイズする活動は現在も継続している(→リンク)。
忠臣は二君に仕えずということなのか、ブーカルト・ヘネンが退くのと同時に副島もアドバイザーの任を離れる。とはいえ、ライナー・ミヒャルケ音楽監督の時も、灰野敬二&メルツバウ(2007年)、羽野昌二&オラフ・ルップ Olaf Rupp(2007年)、八木美知依ダブルトリオ(2011年)またニューヨーク在住だった頃の吉田 野乃子も「スーパー・シーウィード・セックス・スキャンダル」のメンバーとして、ストラスブール在住のユーコ・オオシマがイヴ・リッサとの「ドンキー・モンキー」で2010年に出演している。とはいえ、日本の音楽シーンに通じるアドバイザーがいないことが、日本からの出演者が大幅に減った一因だろう。
音楽監督がティム・イスフォートに交代してから3度目の2019年は、再び日本からもミュージシャンを招聘したいということで、中村としまる、ヤセイ・コレクティヴ、「ジャパン・ニュー・ミュージック・フェスティヴァル(吉田達也、津山篤、河端一)」が招かれた。コロナ禍の真っ最中だった昨2020年は日本からの出演者はキャンセルとなったが、ジルケ・エヴァーハルト「POTSA LOTSA XL」でベルリン在住の齊藤易子が、もうひとつのエヴァーハルトのプロジェクトでユーコ・オオシマが出演していた。
インターネットに繋げば相当量の情報にアクセスでき、バーチャルな空間で繋がることが可能になった今日、日本在住のミュージシャンの活動も他国からも容易に知ることが出来るようになった。それだけに、国際的なフェスティヴァルのあり方、またローカル・シーンとの関係性をどのように築いていくのかが、今後さらに問われることになるだろう。今後も良い形でメールス・フェスティヴァルと日本の音楽シーンが繋がっていくことを望みたい。
【関連記事】
5/21~5/24 第50回メールス ・フェスティヴァル/インプロヴァイザー・イン・レジデンス
https://jazztokyo.org/news/post-64564/
Moers Festival 2020; Live Streaming by arte
https://jazztokyo.org/column/reflection-of-music/reflection-of-music-vol-75-moers-festival-2020-live-streaming-by-arte/
Moers Festival 2019
https://jazztokyo.org/monthly-editorial/13-moers/
Moers Festival 2019 ~ Photo Document Part 1
https://jazztokyo.org/column/reflection-of-music/moers-photo-1/
Moers Festival 2019 ~ Photo Document Part 2
https://jazztokyo.org/column/reflection-of-music/moers-photo-2/
Moers Festival 2019 ~ Photo Document Part 3
https://jazztokyo.org/column/reflection-of-music/moers-photo-3/