#113 エリック・ホブズボーム著『ジャズシーン』
text by Kazue Yokoi 横井一江
書名:ジャズ・シーン The Jazz Scene
著者:エリック・ホブズボーム Eric Hobsbawm
訳者:諸岡敏行
版元:績文堂
初版:2021年10月10日
価格:¥4,200+税
判型:A5判
頁数:648ページ
エリック・ホブズボームといえば、邦訳本も数多く出版されている著名な歴史学者というのが大方の見方ではないだろうか。彼が実はジャズ愛好家でもあったことを知る人はどのくらいいるのだろう。1950年代半ばからフランシス・ニュートンという筆名でジャズ・コラムを書き始め、1959年には『The Jazz Scene』を出版した。ちなみに筆名はビリー・ホリデイが歌った<奇妙な果実>の録音にも参加しているフランキー・ニュートンにあやかったと1989年版のまえがきに書かれている。1969年に出版された『抗議としてのジャズ』はその邦訳である。邦題は11章のタイトル、あえてこれを使ったことに時代性が現れていると言っていい。もしかすると彼が同じ1959年に出した『素朴な反逆者たち』に倣ったのだろうか。それから半世紀余りを経て、加筆・改訂された1993年版の邦訳が出版されたのである。
1917年生まれのイギリス人、ホブズボームがジャズを聴き始めたのは1930年代初頭に遡る。彼の歴史家としての仕事が同時代人として生きてきた時代と一致しているように、本書に書かれているジャズも同じだ。たとえその多くをレコードで聴いたにせよ、ジャズ愛好家のひとりとして同時代音楽として接してきたから、言葉のリアリティが違う。とはいえ、その仕事は歴史学者のものでもある。1989年版まえがきには、こう書かれている。
なによりも大きく20世紀の世界に影響した文化現象のひとつとみて、歴史学の観点からジャズととりくむことだ。わたしはアメリカ合衆国の内と外の両側について社会のなかでのジャズの起こりや歴史のあとづけ、生き残るための経済構造を分析し、ミュージシャンそしてファンという存在の実体を探り、ひとの心に訴えるジャズの驚くばかりの力のみなもとを解き明かそうとした。
それは章立てを見れはわかるが、ジャズの歴史だけではなく、ジャズという職業、ジャズと社会などについて書かれており、多角的にジャズという文化現象を掘り下げている。音楽的な変化、個々のミュージシャンの動向には誰しも目がいく。しかし、音楽ビジネスやジャズファンについての論考まで書く者はたとえ研究者であっても1950年代後半時点ではいなかっただろう。幾つもの視座からジャズという現象を捉えているだけに、その時代のジャズの息吹が浮かび上がってくる。歴史を読むというのはこういうことなのだ。このようなジャズ本は他にない。興味深いのはクラシック・ブルースやカントリー・ブルースについても多く書かれていること。日本人が書いたジャズ歴史本にW.C. ハンディやベッシー・スミスは出てくるが、レッドベターやリロイ・カー、マディ・ウォーターズの名前が出てくることはまずない。アメリカでも然りではないだろうか。アメリカ発の音楽受容でもイギリスと日本では違う。ヨーロッパでのジャズの広がりについても書かれているのもミソである。さすがに日本については書かれていないが…。ジャズはアメリカで生まれた音楽であるが、瞬く間に世界に広がって、各地で根を張っていった。それもまたひとつの現象なのだが、それまでアメリカで書かれたジャズ本ではその部分が欠落していたと思われる。
歴史学者の書いた本だが、筆致は滑らかで読みやすい。それはジャズ愛好家ゆえだろうか。行間からはいろいろな音が聴こえてくる。ある程度、草創期から1950年代後半のジャズに知識のある人なら納得しつつ、楽しみながら知識を深めつつ、読み進めるのではないだろうか。これは、ホブズボームの語り口を上手く捉えた翻訳者である諸岡敏行の功績もあるだろう。ジャズ本の翻訳をこれまでも手掛けてきた人だけに、丁寧な訳注がつけられているのも嬉しい。今という時代から2次、3次資料を基に書かれた文章と違い、同時代を生きた者が書いた本ゆえか、読み終えた時に長編映画を観終わったような気持ちになった。本書を通してジャズのはじまりからモダンジャズの時代までの歴史をあらためて辿ると、いにしえの録音も少しばかり違って聴こえるかもしれない。
翻訳者の諸岡敏行がよく聴いた録音演奏としてホブズボームと同時代のアルトサックス奏者ジョニー・ボスウェルの<From the Land of the Sky-Blue Water>をあげていたので、ここに貼っておこう。