JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 7,829 回

CD/DVD DisksNo. 315

#2328 『池田一・小森俊明 ・河合孝治/EARTH ART SOUND~水曼荼羅』

text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野 Onnyk 吉晃

chap chap records TPAF-110 ¥2400(税込)

池田一(water performance)
小森俊明 (piano)
河合孝治 (electronics)

1.Water Mandala  水曼荼羅
2.Mandala Flowing  マンダラは流動する
3.Be WATER!  “水”になれ!
4.Earth-Water Harp  地球水琴窟
5.Water Piano for Future Earth


「水曼荼羅」への問題提起
reviewed by 金野ONNYK吉晃

古代、東南アジアの湿地帯、沼や池が点在していた。人々は河の近くに住んでいた。そして水の畔に多様な草が生えているのを知っていた。その中で実〜禾穀(かこく)を結ぶ草があり、食用に適するものがあった。人々はその草をひと所に集めて植えるようになった。腰まで水に浸かりながらその草を育て、実がなるとその禾穀を収穫した。籾殻(もみがら)をとり、壷の中に水と一緒に入れて炊いた。これは味がよく、他の食べ物ともよく合った。乾燥させた禾穀は保存しておくことができた。その植物を集めて植えた<池>を田と呼んだ。<田>は人々が<一>つになって働く場所だった。

遊牧から離れた<アグリ/カルチャー>は土地を領有し奪い合った。河のそばに王国が生まれた。文明は貧富と階級の発生であり、侵略と搾取を必要とした。

このCD「水曼荼羅」、これは音楽か?

世界を股にかけて活動するパフォーマー池田一は、水という存在を通じて、人類の歴史と未来を哲学する。その一局面は水に関連する音響だ。
このアルバムは、その音響記録に、現代音楽と即興演奏において多様な方法を駆使する小森のピアノと、電子音操作に長けた河合の複雑なオペレーションがミックスされた結果である。
これはサウンドアートでもなく即興でも作曲でもなく、編集され多層化された音響の流動態のデータ化とでも言えるだろうか。

大気圏内から地殻数キロ以内まで、地球の表層を水は循環している。水は固体、液体、気体の各相を経巡りながら地球上を絶えず移動している。また、この過程で地球表面の熱移動や、地形を変容させる。
沖積世、洪積世などをしらなくても、豪雨、台風により居住環境を破壊するのは身に滲みて分かる。
日々挨拶にさえ何かと気象の様子を言うのは、人類が嘗て一度たりとも気象を制御できた事が無いからである。大気と地上水の循環の限りない変化を知り得ず、翻弄されて来た。古代、降雨を統べる者が王とされ、王はまた治水する存在だった。

水がいかに特異な分子であるかは強調しておいてもいい。しかし宇宙においては「氷」という存在様態のほうが普遍的であり、地表でも淡水の殆どは氷山や氷河である。「液体としての水」は稀なのである。
水だけが固体化した時に体積を増す。雪の結晶には二つとして同じ物は無い。水分子の電気的極性がいかに多くの反応を引き起こすか。水は我々にとって普遍的に見えるが、その実、極めて稀な特徴をもった物質なのだ。そして1933年からX線解析を行ったにも関わらず、未だに水分子の決定的な構造解析は終わっていない。或るSF小説家は水には9つのタイプがあるといった。
かつて多くの詩人に自由の象徴のように詠われた雲もまた、浮かぶ水であり、雨や雪、そして雷をもたらす。しかし、今や空には見えないクラウドに我々は飲み込まれようとしている。
動植物を通して生物体を構成する物質で、最も多くを占める物質は水である。当然の事ながら細胞内の物質を代謝する媒体としても水は必須である。生物体の50〜80%が水であり、そのわずかな過剰、不足が生命活動を危機に陥れる。
また海水と血液の成分がよく似ている事は知られている。我々は体内にも海を内包している。母体内で胎児は浮かんでいる。胎児の中にも海があり、その頭蓋の中にも海があり、脳はそこに浮かびながら育つ。幾重もの入れ子。人体の、いや生物の水分の代謝は命を支えている。
人生とはマディ・ウォーターズを飲みくだし、Blood, Sweat and Tearsを流して生きることなり。
池田一がライフワークのテーマとして「水」を選んだのもむべなるかな。

テクノの元祖、ジャーマン・エレクトロ・ミュージックの泰斗、タンジェリン・ドリームのリーダーであるエドガー・フレーゼ。1974年、彼の最初のソロ作品は「AQUA」、すなわち「水」。
水流が通過する音響のバイノーラル録音は、ヘッドフォンで耳にした瞬間から私の脳を奮わせた。
水中環境音楽家ミシェル・レドルフィも、ひたすら水中音響を探求した。

中世まで音楽家達は水を、河を、湖を、海をテーマにしてきた。それは千変万化する水の姿態の模倣と幻想に過ぎなかったが。
セイレーンは船人を惑わし、ローレライは人々を水の中に引き込もうとする。ワグナーにも霊感を与えた魔女だ。
洋の東西を問わず、海、川、湖沼には女神や魔女が棲んでいる。それは常に人を引き込もうとしている。子供達は何故かすぐ水のある方に走って行く。水難は尽きない。

ドビュッシーは「水の反映」、「オンディーヌ(水の精)」を、ラヴェルは「水の戯れ」を書いた。水というアモルフな、流れの強度による調性の崩壊。現代音楽はここから始まった。

移民、漂白の民、流浪の人を故地に呼び戻すのもまた川。そして、人は同じ川には入れない(ヘラクレイトス)。「ゆくかわのながれはたえずして、しかももとのみずにあらず」(方丈記)。

ところで、この無常なる外界は実在か、それとも脳の生み出したイメージか。
神経生理学者ジョンC. リリーは、それを追求するうちに、五感を遮断し、身体を浮遊する水中に浮かばせて瞑想する手法=アイソレーションタンクを発明した。リリーは、鯨、イルカらの、重力の影響を殆ど受けないで発達した脳に注目した。そこに人類発祥以前からの知識と智慧の蓄積があると考えた。そして無重力を擬したタンクによる瞑想の結果、高次元の存在と接触したと公言するに至った。
既に我々の脳は、脳脊髄液の充満した頭蓋というタンクの中に浮かんでいる。また胎児の間はまさにアイソレーションタンクのなかに生きている。意識以前の意識の揺籃。

子供は「海の水は何故塩辛いの」と尋ねる。そしていずれ知るだろう。地球上の水は殆どが海水で、淡水はその3%以下であることを。つまり「水はしょっぱい」のが当たり前なのだと。人類が利用できるのは淡水の三分の一でしかない(余談ながら、私はこの事実を知ったとき、性善説を疑うに足る気がした。すなわちニンゲンというイキモノは、元来ワルイ質なのであり、ヨキ人達は3%しかいないのではないかと)。

四大元素、陰陽五行、古代の自然科学=哲学は洋の東西を問わず、水をその一つとして重視した(Earth, Wind & Fireは水を忘れたのだろうか)。

ギリシャ七賢人の最初の人タレスは、万物の根源は水であると考えた。
(古事記にいうオオヤシマも、そのように言われるが)大地は水の上に浮かんでおり、万物が水から生成し、水へ回帰していくと彼は言った(らしい)。
四大文明は大河の畔に発祥し、彼岸と此岸の境にはまた、忘却の大河があった。

水中で聴く音、すなわち水を媒体として伝わる音響と、空気中で聴くそれは異なる。伝搬速度の違い。水中の生物は、その音響を全身で受け止めている。彼らは全身が耳だ。
しかし、この「水曼荼羅」のリスナーにいきなり聴こえるのは、水の音ではなくて息の音ではないか? 正確に言えば水に吹き込まれた息が、逃げ場を求めて泡てふためく、その振動をまた空気振動として我々は聴く。
空気を呼吸するようには、水を呼吸出来ない。
我々の息、プネウマ=生気は、水の性ではなく、むしろ火の質であろう。激しく酸素分子と結びつく事、これが燃焼である。水は常に酸素と結びついている。

私は危惧するのである。このアルバムの録音には過剰に電子的装飾、効果が用いられていないかと。水そのものが不定形である上に、そのサウンドも媒体の波動である。それをメディアにするためには録音というデータ化が必要である。しかしその過程で編集と演出が生じることは避けられない。

池田の創作による水琴窟のサウンドに、エコー、リバーブ、イコライザーがかかっているなら、既にその音は素材というよりサウンドエフェクトに変容していないか。池田のオリジナルな音源だけでは充足できない何があったのだろうか。
本アルバムに先立ち、2017〜2020年に録音された、<水奏>池田一+空間無為という二枚組CDがあり、ここでは池田一、河合孝治、小森俊明、の他に永井清治、織田理史が参加している。残念ながら私は未聴であるが池田、小森以外はみな電子楽器を操作しているようだ。

こういう事態は一体誰を主体とした作品なのか。主体が複数であっても問題はない。通常の演奏アンサンブルでもそういうことはあるのだから。蓋し、主体は水であるべきだろう。池田の信念からしても個人に帰すものではない。
水音とピアノと電子音のミクスチュア〜反応が未詳な実験であるのか、「未来の地球を創るアースアートサウンドと確信する」という宣言からすれば、人新世の前衛達なのか。
池田のライフワークにインスパイアされ、その共感が生んだと作品としても、赤子を水と一緒に流している可能性はないだろうか。
河合と共同でこのアルバムをプロデュースし、アートワークもした池田が、本当にこのアースアートサウンドをどう評価しているのかとても知りたいところだ。

追記)このレビューでは池田一の広範な思想と活動の一端に触れたに過ぎない。非常に有用な資料として、2020年TPAF発行『Art Crossing #01』の特集「池田一と水たちよ!」をお読み頂きたい。冊子購入希望は下記まで。
TPAF 〒167-0052東京都杉並区南荻窪1-42-8-107
TPAF https://tpafart.com

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください