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CD/DVD DisksNo. 316

#2340『ZEK! Ⅲ』 

text: Yoshiaki Onnyk Kinno 金野吉晃

ZEK-005/006 税込 ¥3,000

清水くるみ (p)
米木康志 (b)
本田珠也 (ds)

Disc1
1) DAZED AND CONFUSED 幻惑されて
2) POOR TOM プア・トム
3) GALLOWS POLE ギャロウズ・ポー ル
4) SICK AGAIN シック・アゲイン
5) FOUR STICKS フォア・スティックス
Disc2
1) NO QUARTER ノー・クォーター
2) MOBY DICK モビー・ディック
3) NIGHT FLIGHT ナイト・フライト
4) THE CRUNGE クランジ
5) IMMIGRANT SONG 移民の歌
6) 貴方の声を見つけて!(Rock and Roll) You may hear your shouting

録音:
Disc 1: 2023 年 11 月 30 日 新宿ピットイン
Disc 2:M1,2 /2023 年 8 月 10 日 新宿ピットイン
M3,4,5 /2023 年 10 月 23 日高円寺 JIROKICHI


“20 YEARS GONE, I AM DAZED AND CONFUSED〜ZEK!とLED ZEPPELINを考察する序章”

はじめて聴いたZEK!はライブだった。そして直後から、いつか彼らについては語らなければならないと感じていた。
それは葛藤が齎したモチベーションだった。

私の意識の軌道を記述しきれるか。
LED ZEPPELINとZEK!。この二つの焦点をもつ楕円、それは幾何学的ではなく、非論理とジレンマ、あるいはアンビバレンツによって歪む。

私は思っている。
稀代のドラマー、ボンゾ=ジョン・ボーナムがステージで死んだ時にLED ZEPPELINは終わったと。
アイラーが死んだとき、フリージャズが終わったように。
そして、ZEK!は生きている。このトリオはLED ZEPPELINの遺した作品を解釈し続ける。

教祖が死んだ後に宗教は興る。教祖が生きて言葉を発するうちは、師弟達の解釈は成立たないのだ。
解釈は教義となる。そして教祖と宗教は離反して行く。人々は教義と解釈と教祖の言葉のどれを信仰するのか?

三つの人種がある。
まずLED ZEPPELINは知っているが、ジャズのピアノトリオに殆ど関心がなかった人。
そして、ピアノトリオはよく聴いてきたが、LED ZEPPELINに殆ど関心がない、または聴いた事も無いという人。
あるいはまた、ZEK!の存在も、LED ZEPPELINも知りながら、敬遠して来たという方もあろう。
純粋なるジャズファンをもって任ずるならば、ロックバンドの曲を、ジャズでやるというのは邪道に思えるか。まあ、ビートルズなどは取り上げられることは多いが、あるロックバンドの曲だけを専らというのはどういう訳だ。ストーンズやエアロスミスの曲だけをピアノトリオでやるというのは聴いた事がない。

14歳の時、LED ZEPPELINを知り、惚れ込んだ。四枚目、通称「フォア・シンボルズ」(1971)がリリースされ来日。Ⅳを毎日何度もきいた。脳内に染込んだアルバムの一つ。遡ってそれまでの三枚も借りて来た。全て気に入った。
しかし、五枚目のアルバム「聖なる館」(1973)に落胆し、一旦はファンである事を放棄した。
まずロバート・プラントの声の衰えは隠せなかった。彼らに向いているとは思いがたいレゲエ調の曲、全体に意図的なポップな調子、ファンキー度がまして、彼らが変わろうとしている様が伺える。
LED ZEPPELINはアルバム毎に変化して来た。しかし4枚目から5枚目への変化は、変節といいたかった。それはこの少年の嗜好には合致しなかったし、その後LED ZEPPELINという存在は、彼の関心がジャズ系へ向かうなかで、相対的に小さなものとなった。
「ツェッペリンは、僕の『幼年期の終わり』だった」と嘯いてみた。

1994年、ペイジ&プラントは「ノー・クォーター」をリリース。
ライブ映像を見て異様な感動を覚えた。
「カシミール」はエジプトやモロッコのオーケストラがオリエンタルに盛り上げる。「限りなき闘い」はナジマ・アフタールが歌う。このフォーク調佳曲は、亡きサンディ・デニーがLED ZEPPELIN史上初めてゲスト参加した。
さらに2012年、妖艶なるHEARTが歌う「天国への階段」ライブを見た。ボンゾの息子ジェイソンのドラミングを凝視するペイジ、プラント、ジョーンズィー。
二人の天使とジュニアが演奏するのを目撃した三人の胸中やいかに。
それを想像して落涙してしまった私は、思春期の自分がLED ZEPPELINとともに在ったことを思い出す。
「ああ、俺はツェッペリンが好きだ!」

2004年、日本にZEK!が登場した。私はかなり遅れてその存在を知った。ライブを数回見た。

遂に今回ZEK!のサードアルバムのレビューを依頼された。
私は自問した。これまでのZEK!アルバムの全てを踏襲して語る事に意味があるか。ちょっとネットを眺めても、そんな言説は山ほど在る事に気づいた。
しかもそれらはほぼ正鵠を得ている。ならばそんな記述は無駄だ。

LED ZEPPELINは歌のあるバンドである。曲は歌の為にあるといっていい。
しかるにZEK!は?
「移民の歌」は、もしピアノが旋律をやらなければ一体何の曲かと思う。同様の「胸いっぱいの愛を」も好まれる。
考えてみればこれはレイ・チャールズの”WHAT’D I SAY”と同じく、リフ中心のリズム&ブルースではないか。あるいはジェームズ・ブラウンの”SEX MACHINE”でもいい。「胸いっぱいの愛を」ではコール&レスポンスもある。
しかし「移民の歌」がヒットしたとき、そっぽを向いたツェッペリン・ファンもあった。
”SEX MACHINE”がヒットしたとき「JBはソウルを売ったのさ」と黒人層に嫌われたことにも似ている。
この問題は意外に深い。新たなスタイルが生まれるとき、それまでのファンは離反する。マイルス、トレーン、ボブ・ダイラン、吉田拓郎等々、そしてLED ZEPPELIN。『神様はつらい』のだ。

LED ZEPPELINを代表する曲のひとつは、「移民の歌」と対照的な「天国への階段」でありZEK!もよくやる。が今回のサードには収録されていない(クリムゾンなら「21世紀の…」となるところだ)。
「移民の歌」がいきなり叫喚で始まり、途中囁くようなパートがあるのに対し、「天国への階段」は静かなイントロにリコーダーがからみ、しっとりした歌声で始まる。そして次第に盛り上がる中間部を経て、激烈な終章、プラントの静かな声で消え往く。まさに序破急。
ZEK!はほぼ忠実な踏襲をしている。歌とギターが無く、ピアノ、ベース、ドラムでこの曲の重厚さを表現するのは驚愕以外何物でもない。
またZEK!が好んで演奏する初期ナンバーの一つは「幻惑されて」だ。
これは不穏な調子の中で盛り上げて行く前半、そしてまた強烈かつ単純なリフで怒濤の展開をする中間、そしてテーマに戻る終盤という、明瞭な構造が、歌声無しでも十分な手応えを刻み付ける。
ZEK!は、歌心の強い「聖なる館」以降の曲を好む。「ノー・クォーター」、「丘の向こうに」、「レイン・ソング」など。
一方、歌曲とはいいがたいインド風の「ブラック・マウンテン・サイド」は難しいだろう。
またデビューアルバムの一曲目「グッドタイムズ・バッドタイムズ」はLED ZEPPELINの最高の一曲ではあるが、その理由はプラントの強烈な声なしではあり得ぬからだ。

LED ZEPPELINにおいて、主旋律は常にプラントの声によって現れ、ギター、ベースは決してそれをなぞらない。ときにはギター、ベース、ドラムスが別々に動いている。
例えばカラオケでツェッペリンを歌うなら、その曲におけるボーカルの旋律、入りや引き延ばしや発音を殆ど記憶していなければ絶対に無理なのだ(俺は出来るよという御仁は多々いるから、カラオケには多数入っている!)。
それはLED ZEPPELINの特徴か?
実はブルーズにおいて、ギターの繰り返しが12小節あり、そこにほぼ自由なボーカルが旋律を乗せるのは、ごく普通の形だ。ジミヘンを思い出しても良い。

アレクシス・コーナー、ジョン・メイオール、クリーム、ヤードバーズ、そしてストーンズらブルーズに感染した英国の病人達は劇症化し、発生源たる米国に再感染を引き起こした。歴史的にはBritish Invasionと呼ばれる現象で、米国の音楽界に深刻な影響を与えたのは誰もが認める所。
ジミー・ペイジは、彼らと一線を画したバンド<ザ・ニュー・ヤードバーズ>を結成しよう思っていた。
しかしTHE WHOのドラマー、キース・ムーンの意見で新バンドの名前は変わった。命名、それは運命を決める。
新バンドLED ZEPPELINの構想は、英国バンドシーンに蔓延したブルーズ・コンプレックス、R&Bモドキを払拭しようとしたのだろうか。
LED ZEPPELINは臍の緒、胎盤のブルーズを振り切ろうとする。
その推進力は重力を振り切り、遂に大気圏外に出た。しかし周回軌道は、重力あってこそのものだ。そしていつか飛行船は落下して来る。

そして意外にもTHE WHOこそは、同時代においてLED ZEPPELIN以上に、ブルーズ病を真剣に治療すべく取り組んだバンドであった。
なんといっても彼らはLED ZEPPELINが絶対に取り組まなかった形式、すなわちオペラに二度も挑戦している(ジェスロ・タルの例もあるが)。
オペラ、それは19世紀までの西欧音楽の頂点の一つである。
西欧音楽の様式によってブルーズを克服するというのはなんたる帝国主義か!しかも病めるゲーマー少年をヒーローとして。嗚呼、西欧の黄昏。

さて今一度、Ⅳの「レヴィー・ブレイクス」を聴け。
プラントのマウスハープ、スライドギターのリフ、その両者の関係は、やはりブルーズそのものではないか。
確かにLED ZEPPELINは、異様なリフレインと変拍子の絡み合いを見事に、ロックの耳に乗せた。
「ブラック・ドッグ」にしても「フレンズ」にしても、ブルーズには生まれない構造を持つ。フォーク調の歌曲もそうだ。しかし結局彼らが長い即興演奏に入ると、地金であるブルーズ病患者が立ち現れ、リスナーも否応無くその場で感染する。

免疫力が高いというより、ブルーズ感染のレセプターのない日本ではBritish Invasionのような現象は起こらない(種を越えた感染は起こりにくい。いやウィルスは症状なく遺伝情報を運ぶ。発症は不利益だ)。ブルーズは、ブルースに変異してしまったのだ。

もうひとつ、ZEK!とLED ZEPPELINのアルバムにおける決定的な差異を記しておきたい。
前者は、掛け値無しのライブアルバムを発表し続けていること。
後者は数々のヒット曲に関わった有能なアレンジャーとしてのジョーンズィー、マルチトラック録音を備えたスタジオの可能性を知悉したペイジ、彼らの豊富な技術と経験が齎した構造的音響作品である。そのアルバムは、一曲毎に様々なる効果を考えぬいたサウンドが、多重録音によって構成される。その詳細の幾つかはペイジの自伝(語り下ろし)『奇跡』を読むと納得する(余談だが、ペイジのスタジオ修錬時代は、デレク・ベイリーのジャズメン時代に重なる。ところがベイリーの評伝を読み合わせても人脈が殆ど重ならないように見える。狭い英国のシーンでは稀なことかもしれない)。
彼らの曲は、時に重厚な、時に幻想的な奥行きをもって描かれた西欧絵画である。そのイメージに私は時にラファエル前派やアーサー王伝説の挿画さえ思い出す。
ZEK!は、ジャズコンボの性格上、個人技のバランスによって成立つ一発録音である。そして会場のファンとの一体感を重視し、生々しい、ギミックの無い臨場感を大事にしている。それ無くして20年の継続はあり得ない。
換言すれば、両者の差異は映画とドキュメントの違いとでもなろうか。

「モビーディック」の長いドラムソロ。その終わる瞬間を、聴衆は息をのんで待つ。
今か、今か、まだ来ないのか? 来たぁーっ! 喝采。第一部終わり。しかし私は落涙しない。
そしてフィナーレはお約束、「ロックンロール」での聴衆との合唱。
もしロックンロールがブルーズ病の名残だとすれば、それを日本好みの同調圧力で「会場と一体化」するのは、大衆音楽におけるリビドー発散の機会として最適だ。ロックンロールという言葉の原意を思い出そう。
あらゆる音楽は終わった瞬間が最高だ。セックスはその反対だ。La petite mort…

LED ZEPPELINファーストアルバムのジャケット、その図像は、屹立するファロスに似ている。それはツェッペリン号ではなく、爆発炎上するヒンデンブルク号の姿だ。最先端の快楽を乗せた硬式飛行船は燃え尽き、萎えて行く。この<大きな死>は一つの時代の終わり、そして転換を意味する。

ロック、ブルーズ、ジャズそして民謡まで含めほぼあらゆる大衆音楽から、性的観念を払拭することは不可能だ。性欲、それは大衆音楽の根底にあるモチベーションのひとつである。性愛の意識、それが齎す豊穣祈願という意味で、古代から重要なものだ。音楽は呪術であり、信仰である。
ではZEK!の音楽は? セクシュアルな歌詞と歌声が無い分だけ、その要素は薄れている。では彼らの音楽が聴衆を惹き付けるのは何か。
聴衆とトリオが快哉を叫ぶその場には貴方がいる。貴方は「聖なる館」で一人ではない。貴方は四人の聖者による福音を、今ここに三人の師によって伝えられた。貴方はもう家族だ。
ZEK!の音楽は、貴方に魔法をかけるだろうか。そして「丘の向こう」に「天国への階段」を垣間見せるだろう。束の間の幻想だと分かっていても、「永遠の詩」である。

世界はいま苦悩に満ちている。いや世界は、生と同じく常に苦悩の連続である。そう、「限りなき闘い」なのだ。愛と平和はあり得ぬからこそ希求される。
暗澹たる天空の下、峨々たる岩山の頂上でランタンを掲げ、登り来る者を待ち受けるのは誰か?
20年前、東洋の島国にひとつの宗派が生まれた。

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金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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