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CD/DVD DisksReviewsNo. 320

#2358 『シナプス/エレクトリック・シナプス』

text by Yoshiaki ONNYK Kinno 金野 ONYYK 吉晃

地底レコードB110F ¥2,750 (税込)

Synapse :
加藤崇之 (g) さがゆき(vo,g) 佐藤研二 (b) 藤掛正隆 (ds)
映像:松井智恵美  音響:寺部孝規   kagari dance

1.囚われた異星人の言い分
2. Backho order
3. 秘密基地の夜明け
4. 雨乞いの村
5. 鍾乳洞から来た男
6. 羽化したモスラの凱旋パレード
7. 禁酒中のFermi
8. 蜘蛛の糸
9. ちぎれても風に旗めく
10. 戦場の夕焼け

録音:なってるハウス(入谷)2021年12月 /次郎吉(渋谷)22年3月&7月 /クラシックス(渋谷)23年3月
Producer: 加藤崇之&藤掛正隆


加藤崇之・さがゆきのコラボレーション<シナプス>は既に「地底レコード」からボサノバ・スタイルのアルバム”Até quem sabe”が発表されている。
今回は加藤が「ロックをやるという衝動」に突き動かされ、盟友さがのギターと声に加え、ベースに佐藤研二、ドラムスに藤掛正隆、映像に松井智恵美、音響に寺部孝規、ダンスにKAGARIというメンバーを選んで行ったライブの集成である。まさに危機感に応じてのシナプスの増加。
周知だがシナプスは誰でも知る神経細胞の接合部微細構造。ここで神経繊維の興奮が伝達、遮断されて我々の内外の感覚と運動、また思考回路も形成され、感情も記憶も、つまり心的現象の一切が全身的なシナジーを作る(または壊れる)。脳細胞の数よりもシナプスの数とネットワークが大事。そしてシナプスには二種類ある。化学的シナプスは、接合部の間隙に神経伝達物質が関与する。また電気的シナプスもある。まさにELECTRIC SYNAPSEである。こちらには化学物質は関わらないので早い反応が起きる。

さて、録音は21年の12月なってるハウス(入谷)、22年3月と7月の次郎吉(渋谷)、23年3月クラシックス(渋谷)というから足掛け3年に及ぶ。
エンジニアリング、マスタリングも寺部、プロデュースは加藤と藤掛による。アルバムのイラストは松井が担当。ライブではKAGARIのパフォーマンスも見ものだっただろう。
あるいはこれをオルタナティヴ・ロックと呼びたくなる。ジャズ的イディオムに依存せず、ロックの開拓して来た多彩なサウンドが血肉と化したロック。ここにはサイケデリックからエスノ、フォークからアンビエントまである。が、おそらくヒップホップはない。
このアンサンブルは、最近の「ミッシング・ヘッズ」などが見せる即興演奏それ自体の運動性による展開、パターンが楽曲を生成して行く。それはメンバーのセンスの共有、経験によるもので、決して意外性のあるものではない。言わば想定内の過激さ、拡張された予定調和への収斂への漸近線。どこまでその緊張感と想像力を持続できるかの、実にフィジカルな学習である。
私はこうした演奏を、試合と演劇の中間にあると感じている。すなわちどちらも舞台上にあり、観客の存在を前提として、また暗黙に了解されたルールと強度、密度を保つ。
パフォーマー側には、チームプレイ/作戦に対する各自の了解と確信、十全のイディオム、クリシェ発揮の可能なせめぎあい。そこに勝敗は無い。またオーディエンス側からすれば、儀礼と娯楽を期待するがそれは宗教ではない。はたまた政治でもない。
求められるのは快哉と昇華ではある。しかし作曲された楽曲の上演ではない。それは演奏者各自の役割行動を全うする脚本なき演劇に近い。混沌と目眩の手前でなおも自意識を保つ私/アナタはだれか。
興奮の時間が過ぎれば、みな「家路」につく。ELECTRIC SYNAPSEも、終曲をそれで締めくくっているではないか。しかし、この「家路」、決して平坦ではないから心して聴くように。

これは即興ロックであり、プログレではない。プログレすなわちプログレッシヴ・ロックと即興ロックの違いは何か。
プログレは、多様ではあれ非ブルース的な様式化傾向を持ち、それを脱するにはまた別の様式へと移行するしかない。
即興ロックは最初から様式を否定し、アンサンブル全体が瞬時に変成していく。プログレがハイブリッドなら即興ロックはカオスだ。

このような演奏が市民権を得たのは何故か。それを可能にしたのは?
二十世紀初頭に出そろった各種の大衆音楽(ジャズも含めて)は、ほぼ移民により醸成された。サウダージ、ノスタルジーを求心力として、歌、演奏、舞踊の三者が混然となった民衆の娯楽は、三つの要素が分離しつつ、商品になっていった。しかし前世紀後半、故地を持たないデラシネな大衆音楽が出現した。それは消費社会、音楽産業の趨勢に合致して発展し、メディアを席巻した。
これらを狭義の、フォーク、ロック、ハウス、フュージョン、ヒップホップと呼んでいいだろうか。これらの音楽の故地は、現実の土地ではなくメディア、またはストリートとクラブ(ハウス)なのだ。
即興ロックは、ロックの中にあった即興的要素を拡大したものではない。ロックの古典的即興を解体したところから始まった。それは都市の音楽として、ハイブリッドな鬼子として生まれる。一度だけではない、次々に同時多発。それは感染症やテロにも似ているかもしれない。

ある共棲的集団、それは必ずしも共生(シンビオティック)ではなく一つの檻に偶々収容(ブロックアウト)された人間達がある。その一群が、その檻を掴んで咆哮する。檻の天辺まで登って雄叫びを上げる。そんなことで檻は壊れはしまい。しかし耳を塞がずにその声を聴く者は、忘れようとしていた檻の存在を否応無く思い知るだろう。

現代、何かと言えばデジタル・トランスフォーメーション(昔はDXといえばデラックスかシンセだったが)、「シン・〜」やら「〜+」(プラス)と名付けられる。すなわちヴァージョンアップしなくてはならないようだ。それは果たして必然なのだろうか。化学的シナプスよりも、過激で躁音に満ちたエレクトリック・シナプスが希求されたのだろうか。
どうやら加藤にはそれが絶対必要だった。ウィルス禍でライヴの場はどんどん閉ざされて行く。配信?それは背信だ。ミュージシャンとして、表現者として、己の在るべき場所はどこか。この一プレイヤーに出来る事は何か。ここでどんなに過激な演奏をしようが、どんなに癒しを、愛を叫ぼうが何も変わらないかもしれない。しかし、鳥が鳴くように、植物が育つように、ミュージシャンは音楽をやるしかないのだ。それが自己満足ではなく、聴く者の何かを引き出すかもしれない。その期待を込めて加藤はギターを手に取った。

脳神経細胞は毎日壊れていく。ならばそれより早くシナプスを接合せよ。

 

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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