#2067 『モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番・細川俊夫「月夜の蓮」/児玉桃 ・小澤征爾&水戸室内管弦楽団』
text by Naoyuki Kamiko 神子直之
ECM/ユニバーサルミュージック UCCE-2094 SHM-CD¥3,080(税込) 2021年3月12日発売予定
細川俊夫、児玉桃によるライナーノーツ日本語訳収録
細川俊夫:
1. 月夜の蓮 -モーツァルトへのオマージュ
モーツァルト:
ピアノ協奏曲第23 番 イ長調 K.488
1. 第1 楽章:Allegro
2. 第2 楽章:Adagio
3. 第3 楽章:Allegro assai
児玉桃 (ピアノ)
小澤征爾 (指揮)
水戸室内管弦楽団
録音:2006 年12 月 水戸芸術館 コンサートホール ATM
「思い出深い音源の登場を歓迎する」
まさか、15年前のその演奏会の音とまた出会えるとは思っていなかった。
当時居住していた水戸市内で行われた演奏会で、飛び抜けて記憶に残っているあの曲。細川俊夫作曲ピアノとオーケストラのための「月夜の蓮」(2006)。
ご縁を得て地元紙にコンサート評を掲載していただいたはずだが今は手元に無く、書いたもののどこまで使ったか覚えの無いメモしか無いがここに引用したい。同曲の印象しか無い。多分プログラムノートを参照している;
日本人であること、その前に人間であるということの大切さ。海外で活躍する3人の日本人(小澤、児玉、そして細川)と水戸室内管弦楽団による演奏会にて、改めて認識させられた。(2006年12月8日水戸芸術館)
細川俊夫は、韓国からドイツに亡命した作曲家、故ユン・イサンの高弟として知られる。耳に突き刺さる硬派なその音楽に接したことはあったが、新作のしかも生演奏に接するのは初めてである。曲名は「月夜の蓮」。1曲目に演奏されたモーツァルトのピアノ協奏曲23番イ長調の第2楽章をその根底に置き発展させた音楽である。中音域の嬰へ音で表された水面の上に、児玉桃のピアノが、途切れ途切れにそしてデフォルメされたモーツァルトの音楽を、蓮の蕾として描く。等間隔でならされるアンティークシンバルの音は、場面の静寂を際立たせ、時の経過を知らせる。月の光に照らされながら、蓮の蕾は徐々にほころび、咲き、そして夢の中へと迷い込んで行く。それぞれのドラマを区切るのは、水面の下に位置する池の底、嬰へ音から短三度下降した嬰ニ(あるいは変ホ)、そしてさらに短三度下降したハ音である。ハ音で海の底を示したドビュッシーの「沈める寺」のイメージが重なる。モーツァルトの音楽は曲の最終盤で、夢の中で重層的になった嬰へ音の水面の中で幽かに奏される。水面はやがて嬰へから弦のグリッサンドへと放たれ、物語は終了する。
曲の主体を成すのは、メシアンによる命名だと移調の限られた旋法第2番であり、その微妙な調性感が西洋とも東洋ともつかない浮遊感を生み出していた。蓮と水、月明かりと闇、西洋と東洋、視覚と聴覚、そしてモーツァルトと細川といった、様々な相容れない概念を対立させ、融合させ、音の世界を形作っていた。
演奏後壇上へ上がった細川は、成熟した青年といった面持ちで、呻吟された音楽をさらに変革させて行こうという気概に溢れていると感じたが、同時に人間としてのバランスの良さを感じた。今後の作品もますます楽しみである。児玉のピアノは、その容姿から蓮のイメージぴったりで、オーケストラの水に良く調和していた。小澤の指揮は、ウィンナワルツのイメージが一瞬浮上する武満の「鳥は星型の庭に降りる」で純粋な聴覚を視覚的音楽的なイメージに高めたボストン交響楽団を指揮した録音を思い出す名演。吉田芸術館館長がこの曲の終了時にスタンディング・オベーションを行ったことは納得できる。
何か随分とエラそうだが、始めに書かれているように、自分が日本人であると認めることはもちろん、どこにいたとしてもありのままの人間でいること自体が大切なのだ、と当時の私は認識したらしい。この曲に関して現在(2021年)の私が書き加えるとするならば、どのような旋法を使ったのかとか(技法についてはタネ明かしを狙ってるようでいて実はピントはずれだったりしそう)、相容れない概念の対立(概念は必ずしも相容れないわけではないし、複数あって同一・包含でなければ対立は自明)、とかは割とどうでも良く、15年を経た現在からの回顧であろうか。
作曲家細川俊夫氏について、2006年(本アルバム録音当時)には1980年代から続くフォンテックの作品集「音宇宙」の10作目の録音が終わって一区切りつき、欧米からの様々な委嘱が途切れなく来始めた頃と推察される。楽譜の版元であるショット・ミュージックのホームページに詳しい。ECMから先に出ている作品集「Toshio Hosokawa – Landscapes (ECM New Series 2095)」(2011年発売)の表題曲等は作曲済みであったが、残りの収録曲の完成(2008年)や、ECMで児玉桃が弾いたエチュードⅠ~Ⅵ(「Momo Kodama – Point And Line(ECM New Series 2509)」(2017年発売)に所収)はまだ作曲(2011~13年)されていない。すべての音源を聴いたわけでは無いが、私が過去に経験した耳に突き刺さる硬派なオーケストラ曲のイメージから、自分から発する音の根源を1ミリたりとも変えずに、書く曲の聴覚的外見を変貌させているようにも思える。例えば聴き手への曲の解説で曲にさらなる関心を持ってもらえれば聴き手の受容度は確かに増大する。本アルバムの細川氏によるライナーノートの文章もそうであるが、過去に数冊出版されているエッセイ集の文章はとても読みやすく共感できるもので、その志を何度も経験したくなり、CDプレーヤーに作品集をまた載せることになる。
ピアニスト児玉桃氏の活躍も素晴らしい。レパートリーの広さもさることながら、必ず桃さんの音で奏でられる。この演奏会前に彼女のドビュッシー曲集(2002年録音)で予習をしたのだが、当時の私はかなり戸惑った。音楽の進み方が従来のドビュッシーとは違うのだ。個性的という評判もあったが、音楽として何に重点を置くかで演奏の皮膚感覚は大きく変わってしまう、それが私の求めるドビュッシーとは違ったのだろう。しかし、色んなドビュッシーがあって良い。なんでここがこうなるんだろう、という風に聴き手に考えさせる演奏も一つの演奏のあり方だ。その後のびわこホールにおけるラ・フォル・ジュルネの演奏、テレビでたまたま見たトゥーランガリラ(知っていれば行きたかったー。)、ECMで発売済みの2作を見聞きするにつれ、今の素晴らしい到達点がとても嬉しい。今の彼女は30年弱前に録音したドビュッシーの作品をどう演奏するのだろう。
さて、小澤征爾氏については重鎮としてご活躍中である。上記スタンディング・オベーションの吉田芸術館館長(吉田秀和氏)は2012年に他界され、水戸芸術館長職は小澤征爾氏に引き継がれた。ライナーノートに吉田館長の姿は無いが、細川、児玉、細川の三氏の写真を見ると、そう、ここでその3人(プラス吉田氏)が集い、そこに至る道とその後の活躍の一つの経過点として合焦した、とても素敵なドキュメントだと感じる。
「月夜の蓮」はその後準・メルクルと児玉桃の初演コンビがnaxosレーベルの日本人作曲家シリーズの一環として録音(2013年6月10、11日)した。こちらは幾分手慣れた感があり、しっかり額縁に入ったかのような演奏である。楽器の分離も音の際立ちも良い。一方、本アルバムは音が生々しく、何か鬼気迫るものを感じる。ホール音響の特性かもしれないが、全体が一つになって鳴っている感じがする。これがライブ録音ならではの醍醐味であろうか。その場の風景が思い出される。
演奏会ではこの曲を挟み、その引用元であるモーツァルト:ピアノ協奏曲 23番(本アルバムにも収録)が演奏され、休憩後にはモーツァルト:交響曲第41番<ジュピター>が演奏された。どちらも名演だったと付け加えておこう。