#878 照内央晴×松本ちはやDUO 即興演奏公開レコーディング・ライブ
2016年2月21日 東京渋谷公園通りクラシックス
Report & Photo by 近藤秀秋
まだ自己名義作を発表していない演奏家が、自らのルーツを全身全霊で叩きつけてきた渾身のパフォーマンスだった。 閉じた「即興のための即興」ではなく、様々な音楽を前提にした汎性を問われる現代即興として、間違いなく一流。
照内央晴(てるうちひさはる)は、1972年生まれのピアニスト。現在は即興音楽に限定した活動をしているようで、演奏内容から察するに、クラシックピアノ、わけてもフランス近現代をベースにしているように感じる。阿部薫らが出演していた荻窪時代のグッドマンへの出演や、豊住芳三郎ユニットへの参加など、東京を中心に活動するインプロヴァイザーとしては王道を歩んできた存在。松本ちはや(まつもとちはや)は、洗足学園音楽大学卒のマルチパーカッション奏者。元々は鍵盤専攻だったそうだが、途中からジャズ科に移り、マルチパーカッショニストとしての地歩を固めた。プロ演奏家らしく様々な音楽活動を展開しているが、即興音楽方面では照内との活動が軸となっている。
ピアノは一聴してフランス近現代からの影響を感じさせ、それを即興演奏に組み込む。この時点で、既に音楽史上でも価値ある作業に踏み込んでいる。この傾向ですぐに思いつくのはポール・ブレイとスティーヴ・スワロウを擁した頃のジミー・ジュフリー・トリオだが、交響曲並みの巨大な構造を生み出す照内の音楽は、少なくとも構造面ではそれ以上の地点に達している。また、パワープレイで場を制御しに行けるだけの技量を持ちながら、力に頼らずに全体を構成し切った点は、高い演奏能力と作曲能力の双方を問われる現代の即興音楽を演じるに充分な資質と能力を示している。音楽を「習った」優等生タイプでなく、独力で全てを選択・鍛え上げてきたミュージシャン特有の強さも感じた。
パーカッションの演奏も見事。国内外の如何なる即興音楽シーンでも通用するだけの技術を既に獲得していると思う。感動を覚えるほどの見事なプレイが随所にあった。また、アンサンブル全体を捉え切れないままに音を出し続けるような演奏に陥る瞬間が一度も無かった点も、耳を持つ音楽家である証明で、小楽節単位でのアンサンブル能力の高さを感じる。当たり前のようだが、しかしこれの出来る即興演奏家は、著名プレイヤーを含めても意外に少ない。ただし、表現がダイナミクス方面に偏っており、また自分で音楽の劇的構成を作れない。実験や無意識に逃げない、意志ある「音楽的な」即興に踏み込みたいのであれば、反応や音楽全体の増幅だけではなく、音が向かう先の明確なデザインを自ら描く必要がある。
デュオ全体のパフォーマンスは、圧巻と言えるほどに素晴らしかった。演奏のレベルも、具象しえた音楽も、世界の即興音楽史上に残してしかるべき見事さであったように思う。即興演奏に限らず、最近これほどのライブパフォーマンスを見た記憶がない。ヴァーティカル面で言えば、端的に楽器演奏のクオリティが高い。そして、その演奏技術の奴隷になることなく、それを自ら意図したサウンドイメージの具象化に遣い切った点は、単なる演奏家にとどまらず、正しく音楽家である事の証左だ。ピアニストは、自らの指先に音楽が振り回される事なく、常に明確なサウンドイメージを提示し続け、優れた和声感覚とコンポジション能力を示した。パーカッショニストは、共演者の意図を一度汲み取ると、その劇性を何倍にも跳ね上げる素晴らしい演奏を見せた。ホリゾンタルには、40分と60分超という、いずれも長尺となるパフォーマンスを、一本のドラマに纏め上げるデザイン能力の高さが光った。これはピアニストの身体に、芸術音楽(恐らく西洋)の楽式感覚が染みついているが故だろう。理念先行でもなく、飽きたら次の刹那的な即興でもなく、構造面に優れる他の芸術音楽と比しても劣る所のない形式を音楽に与えた点は高度であり、構造把握能力の高さと、それを可能にする技術力の高さを証明している。ただし、西洋芸術音楽型の劇的構造を狙った以上、クライマックス後のコーダ処理は課題かも知れない。無論、これはグループ・インプロヴィゼーションが構造的に持つ弱点でもある。
公開レコーディングと銘打った今回のパフォーマンスだが、録音後の事はまだ何も決まっていないそうだ。聴衆も片手で足りる人数だった。シェーンベルクの重要作初演も、点描主義の即興音楽への転化の重要点となったコンサートも、僅かな聴衆の前でひっそりと行われた。高度な音楽文化は経済構造とは構造的に馴染まないので、これらの事は何ら恥じる事ではないのだが、それにしてもこれだけの芸術音楽の公開録音に、批評家のひとりすら駆けつけない現状は嘆かわしい。価値の高い音楽は、それを創出した音楽家が何らかのリスクを取っている。それに比して、リスクを負って未だ価値化されていない物を同定し評価を与える批評家が少なすぎる。既に価値化されたものを追う作業はファンの楽しみであって、批評家の仕事ではない。批評家を名乗るなら、誰か先人が作り上げた価値に追従してその言いかえを繰り返すのではなく、リアルタイムで起きている文化事象を見つめ、足を運び、そこで提示された主張や可能性を自らの審美眼で同定/価値化を果たし、間主観構造に自らの言語をぶつけるリスクを負って、音楽文化の歴史化に従事してほしいと切に願う。