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Concerts/Live ShowsReviewsNo. 235

#984 チューチョ・ヴァルデス&ゴンサロ・ルバルカバ ”トランス (Trance) ”

text by Masahiko Yuh 悠雅彦
photo by Yuka Yamaji 山路ゆか

2017年10月22日  at  東京・青山 「ブルーノート東京」

チューチョ・ヴァルデス Chucho Valdes  (piano)
ゴンサロ・ルバルカバ    Gonzalo Rubalcaba  (piano)

1.Joan
2.Mambo Influenced
3.Punto Cubano
4.Republico
5.Gitanerias

Enc: Caravan


キューバ屈指のピアニスト、というより世界のジャズ/ポピュラー音楽界の至宝というべきチューチョ・ヴァルデスとゴンサロ・ルバルカバによる、ピアノの響宴。これは何をおいても聴きに行かずばなるまい。

ブルーノートのステージ上には2台のスタインウェイが互い違いの向かい合わせでセットされている。大きな歓声と拍手に迎えられた両者がおもむろにゴンサロの「ホアン Joan」で、ゴンサロ自身の軽い前口上とともに一夜の宴の幕を切って落とすと、とたんに常夏のキューバの太陽が輝き出した。カラフルなキューバ模様のシャツをまとったチューチョ、一方のゴンサロはくすんだ地味な色合いの上下という出で立ちも対照的。両者の性格が衣服の色にまで現れているようで、この対照がすこぶる面白い。チック・コリアと同年齢のチューチョに対して、ゴンサロはウィントン・マルサリスの2つ下の54歳。だが、ステージ上の2人が22歳も年齢が離れているようには見えない。まさか地味なダークグレーのゴンサロの服装が年齢差を帳消しにしたわけではないだろうに。

かつてアメリカとキューバが互いにいがみ合って双方ともに一歩も退かなかった時分、米国のミュージシャンでただ1人だけ入国を許されていたのが故ディジー・ガレスピーだった。その彼が何度も口にした言葉が忘れられない。彼は決まって言った。「キューバへ行くときはピアニストは必要ない。ゴンサロ・ルバルカバがいるからだ」と。

ディジーに負けず劣らず、私も彼のピアノ演奏を一聴したときから、ピアニストとしてのゴンサロ・ルバルカバに注目を払っていた。1990年に初めてキューバのハバナを訪れたとき、ふとした縁で彼の父親と親しく話をする機会を得た。父親のギジェルモ・ルバルカバはキューバの伝統的なチャランガを演奏する同国きってのバンドを率いていた。その素朴な音楽に魅了されてインタヴューしたとき、息子ゴンサロの話になったとたん、父親が俄然雄弁になったことを思い出す。6歳で打楽器に興味を示し、7歳で打楽器の天性を発揮。ピアノは大学に入ってからだというゴンサロが、今や世界のトップ・ピアニスト。当時のスイング・ジャーナル誌に私が紹介文を書いた当時の彼と、現代屈指のピアニストとなった彼とが、まったくといってもいいくらい変わっていないのが不思議なくらいだ。

私は1993年にも再びキューバを訪れた。そのとき知り合ったカメラマンがチューチョの家を訪ねるというので同行した。イラケレを率いて世界中を飛び回り、米国公演も成功させ、80年には来日公演も試みたリーダーとは思えないほど気さくな人柄は、今回のステージ終了後に楽屋で果たした24年ぶりの再会でも、嬉しいことにまったく変わっていなかった。ゴンサロと歓談しているときの彼は少なくとも76歳にはまったく見えない。

変わったことといえば、米国暮らしが長いゴンサロが流暢な英語のスピーカーとなっていたこと。ほとんど英語を話せなかったキューバ時代の彼を思うと隔世の感が深い。というわけで曲紹介などはすべてゴンサロだった。「マンボ・インフルエンスト」はイラケレ時代から名高いチューチョのオリジナル。3曲目の「プント・クバーノ」もチューチョ作品。続くユーモラスなタッチの「レパブリコ」はブラジルの革新的な作曲家エルメート・パスコアルの作品。最後の「ギタネリアス」は、「そよ風と私」、「タブー」、「マラゲーニャ」など数多くの名曲を書いたキューバの大作曲家エルネスト・レクオーナの作品。熱気に富んだ演奏の中で、印象深かったことの第一はゴンサロがピアノのキーに視線を落として演奏したのに対し、ベレー帽をかぶったチューチョが終始ゴンサロをまっすぐ見据え、ピアノのキーにはほとんど目を向けなかったこと。この贅沢な演奏に関して言えば、チューチョのテクニックが衰えたわけではないものの、そう見えてもやむを得ないほどゴンサロの演奏が素晴らしかったことをまずは特記しておきたい。そこでは、冴えたタッチが生む鋼の強靭さを彷彿させるクリアな低音、水晶を思わせる透き通った中高音のメロディック・ラインが終始、ある種のクライマックスを演出した。たとえば「Joan」において、ゴンサロがかくも激しくリズミックなフレーズを連打する光景は、私には初めてだった。こういうゴンサロのプレイに、チューチョが時おり対抗心を燃やして素晴らしく息の長いフレーズを打ち出したり、時にゴンサロの気分がノッたプレイに破顔一笑し、ふと声を上げて笑い声を発したりしながらゴンサロのフレーズに調和させた味のある演奏を繰り広げてみせるチューチョの人間的な温かさとプレイのしたたかさ。

2曲目が終わった後だったと思うが、ゴンサロが今回この演奏が実現した経緯に触れた。東京のブルーノートで2人だけのピアノ演奏の夕べをしたいと思うがどうか、と水を向けたゴンサロの提案をチューチョが即座に快諾したらしい。チューチョにとって、かつてはピアノを達者に弾く少年に過ぎなかったゴンサロの提案に、それが今や世界に名を馳せるピアニストとして活躍するかつての少年に見出した最高の友情の証しというべきものだったのではあるまいか。彼にはこれ以上ない喜びだったのかもしれない、と私は想像する。いずれにしても、この顔合わせは、この企画を実現させた ”ブルーノート東京” の大ヒットだったといってよい。

どうやら当夜は終始ゴンサロがリードし、チューチョはといえばあたかも息子にすべてを任せて安楽椅子に座っている風だった。ゆったりしたワルツで始まった「プント・クバーノ」では、紅潮化したとたんチューチョならではの陽気でリズミックな謳歌が爆発し、「南京豆売り」が鼻歌風に舞ったりした。ピアノ演奏のリレーにしても、かくもスムーズなピアノ・デュエットとしての運びとか、ジャズとキューバ音楽がかくも見事に合体しブレンドした例は少なくとも私には初めてだった。ジャズとキューバ音楽の歴史的遺産の凄さを見る思い、としか言いようがない。最後のレクオーナ作品。速い3拍子のマイナー曲。ここでも息をのむような、両者のピアニスティックな妙技を堪能した。

大きな拍手に再登場した両者。ワルツで始まった。さてこれは何? と思った瞬間、4拍子に転換した。何とティゾール=エリントンの「キャラヴァン」ではないか。ジャズ曲であると同時に、キューバ音楽のふるさとでもある。2人が演奏すると、名曲に新しい光があたったかのようなスリルが爆発する。最後はそれがまさにキューバ讃歌となって会場を揺るがした。後味のいい痛快さだった。(2017年11月2日記)

悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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