#1034 『音楽は何の役に立つか』
〜ミャンマー音楽ドキュメンタリー映画「チョーミン楽団が行く!」〜
text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野Onnyk吉晃
1.ミャンマーとミャンマー音楽
2018年、9月8日、盛岡市「おでってホール」において、ミャンマー音楽ドキュメンタリー映画「チョーミン楽団が行く!」が上映された。「南洋音工作室」の石谷崇史監督が、撮影・構成し、取材にはミャンマー在住の写真家2人、兵頭千夏、後藤修身が協力している。完成は2017年であるがその2年程前から、現地音楽家に密着取材した密度の濃い作品である。
まずは画面構成とミャンマー農村の景色の美しさに魅せられる。石谷監督は東南アジア各地でのドキュメントを多数製作し、各地の音楽に造詣が深い。協力した2人もまた写真家であり、ワンシーン毎に入念な気配りが感じられる。116分の上映時間が短く感じられたのも、構成、テンポ、ドラマ性が巧みであったからだ。そして勿論、最大の魅力はミャンマーの伝統的音楽スタイルを堪能できる事だ。
ところでミャンマーという国の概観をさらっておこう。
最近は、アウン・サン・スーチー氏の復権と民主化、経済成長、そして少数民族ロヒンギャへの圧迫といったニュースでミャンマーは、割にメディアでの登場の多い国となっている。現在、正式の国名は「ミャンマー連邦共和国」であり2010年に成立した。日本の1.8倍の面積、人口5千万強、首都はネーピードー。約135の民族から成る。宗教は9割が仏教、ほかにキリスト教、イスラム教がある。日本でビルマという名が知られるのは、主要民族のバマー族を英語表記したものを、日本人がビルマと読んだからだ。そしてあの二度も映画化された小説、「ビルマの竪琴」が特定の世代には強く印象に残っているのである。11世紀にバガン王朝が成立して19世紀には英国に支配され、一時日本軍の支援で「ビルマ国」が出来たが、すぐまた英国統治となった。1948年、ビルマ連邦として独立したが、62年に軍事クーデター、89年に軍事政権のままミャンマー連邦成立、2011年一応民主化ということになった。英国の支配とともに、ピアノが流入し、当時の王家ではこれをミャンマー音律に変更させたという。ラジオ放送開始は46年、国営テレビは81年に開始された。またFM放送はヤンゴンのみだろうか、2001年に始まった。
なぜこんなことを書き連ねたかといえば、上映に先立ち、石谷監督が会場のあるビルの一室で、スライドと音楽を使って「ミャンマー音楽文化講座」を開催してくれたからだ。だから映画そのものに入る前に予備知識を結構与えてもらった訳だ。石谷監督は若い頃、ミャンマーの映画音楽を聴いて虜になったという。東南アジア各国、インド、中国、どこのとも違う、しかしどれにも似ているミャンマーの音楽は、地理的にも影響を受けてきたし、映画音楽というまさに大衆の為の音楽は、日本で言えば歌謡曲に匹敵する。それにしても監督の語った内容、何から書けばいいのか。
「ビルマの竪琴」のあからさまな虚構、ミャンマーの裕次郎というべきスターの存在、「ミャンマータンズィン」なる伝統とポップの融合、軍事政権下でも海外の音楽は流入して影響を与えてきた事、アムーンなる女性歌手が素晴しい肢体で踊り回る「ンガーティーデー」の最新動画、はたまた伝統衣装や伝統楽器をミックスしたヒップホップ、「ターソー」というらしいが、ヤンゴンでの熱狂ライブの様子等々。しかし、こうしたシーンとはまた一線を画したところに今回の映画の焦点は合わされている。
私とミャンマー音楽の出会いは、やはりあの小泉文夫先生による。彼の残した膨大な世界の民族音楽の録音のうち、レコード化された一枚にあった。1978年前後にシリーズ化して、キングレコードから発売された「世界の民族音楽シリーズ」は、小泉さんが主として70年代初頭に、自分で現地録音してきたものから選んでいるが、自ら20年の探求の結果というだけあって優れた演奏、録音が多い。世界中にあふれる民族音楽のレコード、CDのなかには観光土産に毛の生えた程度のものから、その説明に疑問を持つようなもの、あるいは演奏家をそのレコード会社の録音スタジオに連れてきて演奏させたものなど(それが悪い訳ではないが)など玉石混合だったのだ。その中で、彼は常に現地の音楽を学び、歴史的、地理的、文化的背景をきっちり把握した上で、状況がよくわかる写真も添付して、日本の良質なレコード盤に結実し、紹介した。それだけでも凄いことだ。その中でも、初めて耳にした「ビルマの民族楽器」(SEVEN SEAS GXC5011, 1978)はその音楽の特異さ、溌剌とした美しさ、演奏の卓越さ、楽器の不思議な形など、驚異的であった。その興味はしかし、そこで終わっていた。それに続く情報がなかったからだ。
岩手県の花巻市に、村上巨樹という音楽家がいる。”te_ri”なるバンドや、ソロ活動で、複雑精妙なるギターを聴かせる。国内外を演奏しながら近年は地元で作曲やギター指導を行っていた。彼独自の視点からの著作もある。また国内各所からゲストを招き、彼らの研究内容の講演や、知られざる音楽状況を記録した映画の上映(「スケッチ・オブ・ミャーク」や「ドキュメント灰野敬二」など)も企画して私や周囲の音楽マニアからは頭の下がる存在だった。その彼、2、3年前から「僕、最近ミャンマーの音楽にはまってるんですよ」と話していた。ときおり出会って話を聞くと、興味は関心となりついにはミャンマー訪問を繰り返すようになったという。そこで東京での石谷監督の映画の上映会を知り、深夜バスで駆けつけ監督と知遇を得て、今回の盛岡上映にこぎ着けたという訳である。
2.割にくどい映画内容紹介
「音楽が穏やかならば、人も穏やかになる 音楽がなくなれば、人もなくなる 人と人とをつなぎ、精神を育てる役割を担う、ミャンマーの伝統音楽『サイン(サインワイン)』の楽団公演に密着したドキュメンタリー」
上記は今回の上映を知らせたフライヤーのキャッチコピーである。
「音楽が穏やかならば、人も穏やかになる 音楽がなくなれば、人もなくなる」というのは、この映画の中心となるチョーミン氏の言葉だ。私が感心したのは、このバンドリーダーたるチョーミンの一貫した態度である。まさに人格者といえよう。その理由はおいおい書いて行く。
ミャンマーには雨期と乾期があり、乾期は農閑期的で、祭礼も多いという。また、タイなどでもあるようだが、少年達が一時的に仏教僧院に入る「得度」、これは少年の家では盛大に祝う儀式となり、村全体にそのお披露目をするのだ。その他祭儀、祝宴(結婚式なども)に呼ばれる楽団、これをサインと現地語ではいう。サインは十数人の編成で、演奏メンバー、歌手、道化役者などを含んでいる。またサインは、バンドの中心となる楽器の名でもある。正確にはサイン・ワインという。チョーミンは現地でも人気あるサイン奏者であり、他のバンドでもサイン奏者がリーダーである。あたかもデューク・エリントン楽団とかカウント・ベイシー楽団というように、ピアニストの位置にある。編曲、曲構成や上演全体もサイン奏者の意思が反映しているし、そのために彼はメンバーの入れ替えもする。さらにはマネージャーとして興行の契約、メンバーへの給料支払いも考えなければならない。
サイン・ワインは、環状の枠の内側に調律された多数の小型の太鼓が下げられた構造で、真ん中に座った奏者は両手で、素手でこれらの太鼓を叩いて旋律を生み出す。その早さは尋常ではない。調律太鼓を用いるという点では、インドのタブラ・タラングにも似ている。旋律打楽器としてはガムラン系にも似ているが、金属的な余韻が少なく、溌剌としたサウンドが特徴である。
さて、映画は、人気絶頂のチョーミン楽団が、メンバー入れ替えをしなければならない所から始まる。メンバーは元々農民であるが農閑期にはミュージシャンとなってバンドに契約する。そして給金の多寡によってもバンドを渡り歩くことになる。この辺は意外にシビアな雰囲気だ。そのバンド運営の厳しさを語るチョーミン、また公演依頼に来た遠方の村の代表と、契約金の交渉でなんとか条件を呑ませたいチョーミン。昨シーズン、チョーミン楽団はとても人気があったため、メンバーはもっと給料を上げてほしいと要求するが、チョーミンはそれに中々応える事が出来ない。結局、何人かは離れ、新たなメンバーを主軸として新シーズンのリハーサルが始まる。サイン(楽団)のアンサンブルは。サイン・ワイン、ネー(オーボエ系管楽器)、チー・ワイン、モーン・サイン(共に金属製ゴングの旋律打楽器)が一糸乱れぬユニゾンを奏するのが主である。そのタイミングがちょっとでもずれるとチョーミンは演奏を止める。どうしてもずれてしまう年配のネー奏者に、何度もその箇所を繰り返させる。その厳しさはかなりのものだ。しかし決してチョーミンは怒る事も声を荒げることもない。ちょっと呆れて宙を見上げてしまうこともあるが、他のメンバーもじっと待っている。そのチョーミンの表情たるや、やるせなさと忍耐と必死の思いがありながら、温和さを失わない、それも仏教の信心篤いミャンマー故だろうか。それとも彼個人の特質なのだろうか。また複雑なフレーズを、これまた通り一遍ではできないリズムで高速に駆け抜けるパッセージに苦心するネー奏者の気持ちも手に取るようにわかる。
一方、チョーミン楽団を離れたメンバー達も、実は彼の元でやりたかったという気持ちを語っている。チョーミンに指導を受けて育った道化役者や、出産のため今シーズンはバンドを離れた歌手、皆、チョーミンを慕っている。しかし生活は決して楽ではない。若手役者は言う。「別にでかい家や外国の車を欲しいとか思わないよ。こうやって楽しく巡業できるのが僕の生き甲斐なんだ」チョーミンの兄や従兄弟もバンドを主宰している。いずれ劣らぬヴァーチュオーソである。チョーミン以上の迫力さえ感じるような演奏をしている。こうしたバンドが、上ビルマ地方、古都マンダレーとその周辺に固まって存在し、百近くもあるという。この地域、「アニャー」は古来からの文化が色濃く残っているのだ。そこにまたフリーのダンサーや役者達が、事務所を構え、スマホ片手にオファーを待っているのだ。ちなみにスマホの普及率は高いようだ。
上演の期日が迫った。遂にチョーミンは若手を1人どこからか連れてきて、ネー奏者に据えた。しかしあの年配者をクビにした訳ではない。一緒にツアーに連れて行った。大きなトヨタのトラックの荷台に、舞台設営用材料、楽器、PA一式、そしてバンドメンバーもそのまま乗って出発。幹線道路を外れると、牛やら羊やらの群れが道を塞ぎ、橋の無い川をザブザブと乗り越え、泥濘にタイヤをとられ、全員がトラックを押し、目的地に着く。一方で広場に舞台設営が開始され、また一部メンバーは演奏を開始してそれを大きなトランペットスピーカーで村中に聞こえるようにする。
私が小泉氏のレコードで聞いたのは70年代の演奏だが、その楽団には全くPAというものが無かったようだ。しかし現在のバンドには、サイン・ワインはじめ、あらゆる楽器に複数のマイクが設置されているし、それらをしっかりミキシングして、ただしトランペットスピーカーで出している(頑丈だし、湿度の変化に強い)。モニターはない。野外の舞台が整って演奏が始まるのは午後6時頃。会場は壁も無く、全く開放的で、興行主が全てを支払うので村人は無料で聞きにくる。今回は金持ちが僧院に新しい建物を寄付した、そのお祝いだ。役者と歌手が歌を聴かせ、ダンサーが登場して人形振りのような芸を披露する。それが道化役者と絡んで村人を湧かせる。ダンサーは歌手も兼任する事がある。
夜も更けて行き、いよいよサイン・ワイン奏者の登場である。
チョーミンはここぞとばかりに名人芸を披露する。村人はじっと見据え耳を傾けている。若いネー奏者との息はぴったり合っている。陰の方で年配奏者は一緒に演奏しているが、決して前には出ない。真夜中になり、演奏は佳境に入る。ようやく一段落したのは午前一時をすぎた頃だった。かなりの村人は帰ったが熱心な聞き手が残った。そしてこれからまたチョーミンは朝四時まで演奏を続けた。最初の方に出た役者や歌手は、ステージの後ろで寝ている。翌朝はまた、早くから演奏があり、昼には片付けてまた全てをトラックに積み込み、帰路につく。こうした演奏旅行がシーズンである乾期中に80回近く行われるというから、かなりハードだ。その間にチョーミンは音楽学校の同窓会的な演奏に出たりもする。この映画は、こうした伝統音楽伝承者たちだけではなく、興行巡演するときには欠かせない役者、道化、歌手、ダンサーの横顔も紹介する。見る限りは、伝統的スタイルに取り組む若手の数、熱意は十分で、安泰なのだなとも思う。しかしテクノロジーの浸透は、確実に音楽もパフォーマンスも変えて行く。
ミャンマーは仏教国だが、とにかく民衆と宗教の距離がなくて、布施をするのは当然だし、どこにでも仏像はあり、それがまた点滅するLEDでギラギラと装飾されている。たとえは悪いかもしれないが、パチンコ店の外面、そしてゲーム機のようだ。なにかあればすぐ仏像や僧を拝む。良い事、悪い事、全て仏教的に解釈する。それが普通のことだ。
サイン=楽団も、かつてはPAなどなかっただろう。小泉氏のレコードではそういう写真も説明も無く、極端に小さい音量の楽器、例えばサウンなどは、通常楽団と一緒には出来ないといったことが述べられている。前述したように現在の楽団はかなりの電気増幅を行っているし、歌手も役者もマイクを用いている。チョーミンは伝統的スタイルを守りたいというが、伝統曲をアレンジしたり、新しいフレーズを付け加えるなどはいつもしているようだ。そうした編曲が固定化して、十年もたてば音楽の印象はかなり変わる。
だが、私は70年代に録音されたレコードと、チョーミン楽団を聞いて極端な差異は感じなかった。ただ、ドラムセットを用いる場面もあり、興行としてのハイブリッドはあると思う。確かに他の楽団と切磋琢磨する中で、演奏は派手になったかもしれない。昔よりはメリハリがはっきりし、歌手や役者との絡みも見せ場のひとつだ。都会の若者達は、ラッパーやヒップホップと伝統楽器のハイブリッドに大挙して集まり体を揺らしている。チョーミンらのサイン=楽団は、極力伝統楽器と伝承音楽の様式を守り、農村の祭礼には欠かせない存在として、ミャンマーの文化の一部となっている。変容と伝承、いや伝承の変容は、必然だ。ジャズもそうやって変容してきた音楽だという事を、この様子を見ながら改めて思い至った。
3.ミャンマーのジャズ?として
二十世紀初頭、アメリカ合衆国では南部でも北部でも、数多くの、主としてアフロアメリカンのジャズメンがひしめいていた。彼らの職場は主に酒場であり、それは違法な場所でもあった。そこでクラブ付きの契約をしたバンドは、毎夜毎夜、歌手とヴォードビリヤンとを伴い、ダンス音楽としてのジャズを演奏した。まずは顧客が気持ちよくダンスを踊れる音楽を! 彼らの本来の音楽文化や資質とは異なるものを要求された。ブルーズやゴスペル、チャーチソングではなく、バーバーショップなど、和声が美しく、リズムもノリのいい声楽を器楽に置き換えながら発達した。さらには西欧音楽の最新の成果を取り込みつつ技術的な洗練を求められた。それは同時にバンド同士の仕事の奪い合いであり、またミュージシャンの争奪戦ともなった。
そう考えると、ミャンマーの伝承音楽の現状が、古き良き時代のジャズシーンに重なってくる気がした。しかしひとつ違うものがあるとすれば、ジャムセッションの不在かもしれない。ジャズが数ある大衆音楽のなかで抜きん出て発達したのは、ミュージシャン同士の技術の競合を、商売抜きに、営業終了後から朝まで有志が、互いの噂を聞きつけて集まって腕を競い合った、その現場を得た事かもしれない。そして、その場で、伝統的なスタイルや規範を乗り越えたり、超絶的にその枠内を駆け抜けるような「アドリブ」=即興演奏が発達した。これがアメリカのジャズだ。おそらくミャンマーの伝統楽器、とくに旋律打楽器はその音律は固定され、移調も難しい。その中でアドリブが発展しても、インド音楽(特にヒンドゥスタニの)ほどの即興性は生み出さないだろう。
20世紀初頭、ジャズ以外でもタンゴとか、パリミュゼットとか、ジプシースウィングなどの大衆音楽は発達した。日本でも音曲演芸の座が増え、日本各地の民謡が都会で喜ばれるブームもあった。全て第二次大戦前の話だ。ここで大事なのは氏族、血族、土着のしがらみが薄れたこと。これが土着民だけによらないバンドを生み出す。そして彼らは、楽団の演奏を地元の儀礼用ではなく、商品音楽として他所に売り込んで行く。そのとき音楽のパトロンは変わる。ミャンマーでは離れた村が、富裕層が、となるが都会ではどうなのか?ジャズのパトロンは言うまでもなくギャングであり密造酒の業者だった。現代のパトロンは誰なのか。いや現代はパトロンよりもプロデューサーと演出家の時代なのだろう。地元との紐帯の希薄化は大衆音楽が、商品音楽、商業音楽になる契機だ。そして同時にそれは、単に伝承の丸写しに終わる事無く、新しい要素を導入する。楽曲自体だけではなく、演出も、マイクやPAの使用もそのひとつだ。しかし、その当事者達が、伝統や伝承を叫ぶ。叫ぶのは、それらが失われていくのが明らかだから。アフリカの大衆音楽がグリオだ、王族の血だとかいったり、レゲエがジャーイズムというイデオロギーを生み出すのも、失われた、失われつつあるものへの憧憬だ。ミャンマーのシーンもまさにいま、そうであろう。
チョーミンの「音楽が穏やかならば、人も穏やかになる。音楽がなくなれば、人もなくなる」と語る言葉に嘘は無いだろう。しかし、それを言わなければならない、言わせてしまったのは、まさに音楽が、より刺激的になり、人の心をざわつかせるような演出が望まれ、それによって競合するなら、そしてミュージシャンが給金の問題で移籍する状況。その中でチョーミンは懸命に流れに抗っている。
私が嬉しく思ったのは、後半、いつの間にか、映画の冒頭でチョーミン楽団を離れた何人かが、またチョーミンの舞台に戻っている事だった。出産で離れた歌手も必ず戻ると言った。彼らにとってやはりチョーミンと一緒に音楽をやることが生きているうえで喜びを感じるなら。それは金銭であがなえる事ではなかったのだ。バンドとは紐帯の意味であり、そこからひと括りにされた人々を意味する事になった。チョーミンは、その結び目なのである。
しかし、数ある伝承音楽のサイン=楽団の輝かしい音楽が、まるでブラックホールからエックス線が噴出するみたいな最後の輝きのように見えるのは私だけだろうか。
70年代から非常に緩慢な変化をしてきた彼らの音楽文化、しかし今、誰もがスマホを持ち、ミャンマー社会は否応無く動いて行く。これまでの時間よりも急速に変容するだろう。いつまでもトヨタトラックに楽器を縛り付け、泥にはまったトラックを楽団全員が降りて押すような道路、ステージの裏手で雑魚寝する状況は続かないだろう。村々には立派な文化センターができ、そこでは地元の若者がDJをするようになるだろう。サイン・ワインのサウンドを、サンプリングしてシンセで演奏する日は遠くないかもしれない。それをとめることはできない。
4.失われた故郷を目指して
先日、とある宗教団体の主催した講演会を聴講した。その団体の指導者が言う。「成熟した社会を目指して」と。蓋し、成熟とは終末の前触れである。私は、社会の理念や制度の充実は比較的早く達成され、あとは衰退して行くなかで、権力闘争になると思う。前述のようなモットーは、歴史的視点を欠いているのではないか。あるいは成熟=終末を希求しているのだろうか。いま、現代日本は成熟を超えて衰退期にあると感じる。その下り坂の中で傾斜をいかに緩やかにし、あるいはゼロ成長の安定化した社会が求められるのではないか。
しかし「収益はなくてもいいから損しない程度でいい」なんていう企画は絶対赤字になる訳で、上昇志向をもっていないと衰退は進む。
翻って、音楽が(不遜な言い方だが)面白くなるのは、危機的社会、情況化された社会、個々のアイデンティティが脅かされる社会だと思う。「面白い」が不適当なら、興味深い構造変化とダイナミックな表現を見せるのは、というべきか。また一方で、19世紀中盤〜20世紀初頭、つまり「成熟した」大衆社会、消費経済の確立と、帝国主義から資本主義への移行期に、その様式的完成を見た様々な大衆音楽のスタイルは、ほとんど移民のサウダージ、ノスタルジアで醸成されている。それはダンス、歌、音楽の三位一体で成熟した。さらに2つの大戦後には、その故地を持たない、サウダージのない音楽が成熟する。それはメディアそのものを故地とするようなスタイルだ。ロック、ヒップホップがその典型だろう。
「『歌』を語る 神経科学から見た音楽・脳・思考・文化」(ダニエル・J・レヴィテン著、山形浩生訳、 P-vine books、ブルースインターアクションズ出版、2010年)という本がある。特別な主張をしているのではないが、分かりやすく事例も豊富である。そこで私が大いに共感したのは、音楽の社会的機能=意義についてである。「音楽は何の役に立つか。そんなものなくてもいいではないか」。しかし音楽を、共同体の結節点として、それを持つ事によってその集団=組織=社会体(ソシウス)は、生存条件を緩和し、より強靭に生存していくであろう。もちろんこれは両刃の剣であり、敵対や拮抗するソシウスがそれぞれの歌を持つ。音楽は共同体の象徴であり、それが同時に生存競争の武器にも成る。また、川田淳造が「無文字社会の歴史」(岩波学術文庫、2001年)で記述しているように、無文字社会で個々人が即興的に作る歌は、周囲にそれとなく聞かせる事によって感情の発露となり、直接的ではなく、会話でもないコミュニケーションとなる。これも近代化していない共同体ではよく見られることだ。映画「捜査官X」(ピーター・チャン監督、中国/香港、2011年)では事件の起きた村で村人が、賞賛や非難を次々に歌で伝えるシーンがある。これは1917年清朝末期の中国南部の山奥の小さな村を設定しているのである。チャン監督の慧眼を感じた。
さて、チョーミン楽団は、いつのまにか出自をすでに離れてしまった。チョーミンは音楽の専門家として生きている。いわば第二段階の大衆音楽/伝承音楽。しかし、彼らの音楽によって、変容しつつある農村社会もつなぎ止められるだろう。
近年、日本の被災地の多くで、古来の祭礼(それはさほど古い由来ではない事も多いが)を、復興の象徴にしようという動きがあり、それ故に戻ってくる青年、壮年の層は少なくない。
https://motion-gallery.net/projects/mawarikagura
この現実を傍目に見つつ、映画「チョーミン楽団が行く!」を多くの方に紹介する事を思い立ち筆を執った。
「音楽がなくなれば、人もなくなる」。(劇終)
映画「チョーミン楽団が行く!」今後の上映予定
https://www.facebook.com/hiroyuki.kaku.37
11月10(土)、11(日)
会場 名古屋大曽根ゲストハウスぷらっとほーむ
(https://www.airbnb.jp/rooms/15710638)
<両日共同じタイムテーブル>
14:00 – 15:00
ミャンマー音楽文化講座 ¥500 定員25名
15:30 – 18:00
「チョーミン楽団が行く!」上映会 + トーク ¥1,000 定員25名
10月1日(月)よりメール受付開始
nagoya@ishitanitakashi.com
10月15日(月)より電話受付開始
080-5111-7704