#1086 第48回サントリー音楽賞受賞記念コンサート<ピアノ:小菅 優>
~サントリー芸術財団50周年記念~
text by Masahiko Yuh 悠 雅彦
2019年8月2日 19:00 サントリーホール 大ホール
1.ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ト長調 k.379 ( 373a ) (モーツァルト)
2.WHIM (藤倉 大)<世界初演>
3.ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 op. 53 「ヴァルトシュタイン」(ベートーヴェン)
…………………………………………………休憩……………………………………………………
4.ピアノ三重奏曲第1番 ロ長調 op.8<改訂版>(ブラームス)
●(アンコール曲)
ピアノ・ソナタ第10番 第1楽章(モーツァルト)
小菅 優 (ピアノ)
樫本大進(ヴァイオリン)
クラウディオ・ボルケス(チェロ)
日本人のピアニストとしてはこれ以上は望めない。それがベートーヴェンの「ヴァルトシュタイン」を聴き終えた瞬間の、私の率直な感想だった。<日本人の>と、敢えて括弧付きで述べたのには理由がある。それまで私の心を打った「ヴァルトシュタイン」として筆頭に挙げなくてはならない演奏はヴィルヘルム・バックハウスの演奏だった。ケンプも、近年のポリーニやアルゲリッチも素晴らしいが、聴き終えた瞬間に心臓が破裂しそうなほど共鳴した演奏といったら私にとってはバックハウスをおいてない。だが、この夜の小菅優の演奏は、まるで5月の微風を思わせる颯爽とした心地よさに溢れ、私にとっては水も滴る美女のデッサンをまじかに見るような心地よさを賞味した格別な演奏だった。
この公演は、彼女が第48回サントリー音楽賞を受賞した記念のコンサートであり、彼女の最も親しい作曲家である藤倉大のピアノ作品を世界初演するという点でも、あるいは現在彼女の最も親しい音楽仲間と心おきなく共演する、つまりは聴き手の私たちにとってワクワクせずにはいられない演奏が最後に待っているという点でも、今や成熟しきった才女の演奏振りをまじかに堪能する機会を与えられた幸運に酔いしれる一夜になることは演奏前からはっきりしていた。私はデビューしたころの彼女の演奏を聴いて、心を打つ演奏家でありながら演奏する彼女のどこかにおとぎ話の語り手を彷彿させるロマンティストの淡い調べがかくれている、何とも言えない不思議な魅力に惹きつけられていたことを秘かに思い出す。そんなわけで、彼女がソロイスト一辺倒に走ることなく、むしろ自分とは違う演奏技術や対話を楽しむ術を心得ているかのような近年の演奏家風情を好もしく思っている、いち小菅優ファンとしても、この夜の彼女の選曲や分けても共演する相手を選ぶセンスに感嘆した次第だ。ここから想像力を働かせて、彼女が藤倉大と実の兄妹のように仲睦まじく、樫本大進やクラウディオ・ボルケスとこんなにも息の通った親密な演奏(ブラームスのピアノ三重奏曲)を可能ならしめる音楽の幅の広さと自由闊達さを持った音楽家だということに私は思い切り感嘆したのだ。そこにアーティストの、自由な息遣いや会話の挑戦性があると考えたとき、小菅優という音楽家が一方でベートーヴェンのソナタ全曲録音を完成させる傍ら、樫本大進やクラウディオ・ボルケスとブラームス(ピアノ三重奏曲)を真剣勝負で楽しむことをしなやかにやってのける姿を目の当たりにすると、たとえこの夜の演奏がサントリー音楽賞を受賞した喜びを表現した特別な演奏会であったとしても、彼女が演奏曲や共演者の選定を遊び半分で済ませるわけがない。
この夜のコンサートで不明を恥じなければならなかったのは、藤倉大「WHIM」。作曲者によれば「小菅優さんに描いたピアノ協奏曲第3番「インパルス」のカデンツァのパートが独立した作品」だそうである。「優さんのピアノは毎回すごいと思っている」という作曲者の意図と、「練習に明け暮れないとあの曲は弾けない」という小菅の実感と、その両者の間で行き場を失っている私との感性がどこかで共鳴し合わないと、少なくとも今回は完全に降参した。次回はお株を奪い返さなくっちゃ。
オープニングのモーツァルトでいささか引っ込み思案ふうな演奏にいささか合点がいかなかった樫本大進だが、ブラームスのピアノ3重奏曲では芯のしっかりりした演奏で小菅を盛り立てた。ベルリン・フィルでの苦労がわかるような演奏だった。チェロのボルケスのスケール豊かな演奏が樫本の繊細な糸と絡み合ったところにダイナミックな小菅のピアノが、しかし優美かつ丁寧にピタリと寄り添っていくところなど、まるで3者がアンサンブルを常としているかのような息の揃え方を発揮している点で、この1点だけでも感動した。
アンコール曲はもちろん小菅優。彼女はモーツァルトの「ピアノ・ソナタ第10番」の第1楽章を涼やかに弾いた。面白かったのは鳴り止まぬ拍手に応えて3者が登場し、一人小菅優がピアノに向かった瞬間だった。樫本大進とクラウディオ・ボルケスはどうしたか。両者は顔を見合わせながら、ピアノの後ろにセットされていたオーケストラ用の演奏台に腰を下ろし、小菅のアンコールを見守ったのだ。3者の仲が客席からも微笑ましく感じられた、この数分間が何とも言えぬほど印象深かった。