#1096 河田黎 at シャンパーニュ
text by Masahiko Yuh 悠雅彦
2019年9月7日 14:00 at 新宿3丁目「シャンパーニュ」
河田黎 (vocal)
with 宮崎みどり 工藤織江 白井あかり
太宰百合( piano )
◯ 宮崎みどり
1.学校帰り 2.二匹のかたつむり
◯ 工藤織江
1.ラース家の舞踏会 2.パリのミュージック・ホール
◉ 河田黎
1.月の光 2.綱わたり 3.夜のパリ 4.メッセージ 5.秋 6.枯葉
……………………………………………<休憩>……………………………………………
◯ 宮﨑みどり
1.美しい星 2.真夜中の居酒屋
◯ 白井あかり
1.ワルソーのピアニスト 2.天国から汽車が来る
◉ 河田黎
1.朝の食事 2.朝寝坊 3.ムッシュ・ウィリアム 4.灯台守は鳥が来るまで 5.ジョニイ・パルメール
私がいわゆるシャンソンに身を入れて聴くようになったのはクロード・ヌガロ(1929年9月9日~2003年3月4日、パリで死去)を知ってからだ。初めてヌガロを聴いたとき、フランスの大衆歌謡としてのシャンソンと歌い手の人格が少しの乖離もなく一つに溶け合って、シャンソンならではの知的でありながら決して妙な高踏性をまとわない粋なパリっ子たる歌いぶりに、何とも言えない感動を味わったことが忘れられない。その点ではイヴ・モンタンやレオ・フェレらも好きな歌手には違いなかったが、クロード・ヌガロのようにジャズを自分の歌の重要な背景として切り離せないフランスのいわゆるシャンソン歌手が私の知る限りいなかったことは間違いない。もし当時、私がジャズ専門の執筆者として多忙な時間を過ごしていなかったら、ぞっこんだったヌガロのシャンソンに間違いなく入れ込んだのではないかという気がする。幸か不幸か専門であるジャズの仕事がにわかに忙しくなって、とうとうその機はあっというまに去ってしまった。
そのヌガロの作品を歌っている河田黎(れい。以下省略)のステージを初めて見た瞬間、あの頃の思い出がふとよみがえった。河田黎と出会わなければ、ヌガロは私の思い出の中でずっと眠り続けていたかもしれない。つまり彼女は私にあの素敵な思い出を甦らせてくれた人だ。以来、河田黎のヌガロを含むシャンソンの名歌を聴くのがこの上ない楽しみになった。それもつまりは河田黎がいてこそであるのは間違いない。このシャンパーニュというライヴハウスは初めてお邪魔したが、外からの店に通じる階段がお年を召した方や足の悪い方にはやや難儀だが、赤坂の「バルバラ」の雰囲気とも通じ合う居心地のいいスポットであった。この日は宮崎みどり、工藤織江、白井あかりらが河田黎の前座を気持ちよく盛り上げたが、特筆していいのは全出演者の伴奏楽譜をすべて担当した太宰百合のピアノ伴奏だった。歌い手にとって太宰のような達者この上ないピアノは、想像するにシンガーにとっては1000人力の味方みたいなものだろうか。彼女のキレのいい、思いのこもったサウンドが、河田の歌唱の背後で、あるいは連れ立って散策するように弾んでくると、それだけで河田の歌が活きいきと輝き出す。歌い手と伴奏ピアニストの関係の、すこぶる幸せな空気感をここに読み取ることができた。歌手が全幅の信頼を寄せるピアニストの存在がかくも大きなものかとつくづく思ったひと時でもあった。ちなみに太宰のピアノが冴え渡ったのは、最初のステージの5曲めで河田が歌った「秋」であったことを、たった今思い出した。そういえば、2年前の4月末にもこのJAZZ TOKYO誌上に河田黎のコンサート評を書いたことがあったっけ。といっても、そのときはヌガロのことには触れていなかったような気がするので、今回はあえて私のヌガロ讃歌を絡めて書いたというわけである。彼はよほどチャールス・ミンガスがお気に入りだったらしいが、私もニューヨークにしばらく滞在した1970年、まず最初に訪ねたのがミンガスとセロニアス・モンクだったのだ。もしヌガロとすれ違っていたらなぁと何度思ったことか。
いったんヌガロから離れよう。
この日、最も気持ちよく聴いたのはレオ・フェレのヒット曲「ムッシュ・ウィリアム」だ。
河田さんはご自身で訳された日本語で歌った。
真面目な 会社人間 ムッシュ・ウィリアム
無遅刻 無欠勤 ムッシュ・ウィリアム
気がつけば 月日は過ぎ 40歳
道楽もせず 平凡な 毎日
でも ある夏の夜 夜風に吹かれて どんどん歩いた
行き当たりばったり
そこで こんなことが 起こった
ムッシュ・ウィリアムらしくないね…どうしようっての?
13番街で
うら若い娘に出会った ムッシュ・ウィリアム
すみれの花なんか やっちゃった ムッシュ・ウィリアム
娘を妖しいホテルに、連れ込んだ
女をよこせ! ヤクザに凄まれ 頭にきたムッシュ
傘で一発ぶんなぐったが
閃めくナイフが 脇腹にグサリ! とんでもないことになった
ムッシュ・ウィリアムらしくないね どうしちゃったのさ?
13番街で
もう 取り返しのつかない ムッシュ・ウィリアム
血の海の中に転がる ムッシュ・ウィリアム
哀しげに聞こえるヨ トロンボーン
暗闇の中、すぐかたわらを スーツと 通り過ぎたのは
街をうろついていた 死神だったのかもしれない
ついてないねー
ムッシュ・ウィリアム らしくないね、死んじゃったね
13番街で
別にメロディーなど書かなくても、河田さんが訳出した日本語の詩だけで、ムッシュ・ウィリアムの滑稽と生真面目な半生のあらましをごく当たり前の言い方で表現しながら核心をついた人生の哀感に、ホロリとさせられる。私が見たステージで河田黎は決まってと言っていいほどこの曲を歌った。詩人でピアニスト、ソングライターで舞台俳優でもあったレオ・フェレ。「パリ・カナイユ(パリ野郎)」などのヒット曲を書き、一方で68年の革命時には救世主的振る舞いを演じ、あるいは若者を鼓舞する「時の流れに」(71年)を発表して健在ぶりを示した在りし日が懐かしい。ヌガロには会いたかったと今も思う。河田さんの歌を聴くと、そのことを思い出してはチャールス・ミンガスやセロニアス・モンクに会いたくなる。親しく交流したアート・アンサンブル・オヴ・シカゴの生存者達やチコ・フリーマン、あるいはソニー・ロリンズやアンドリュー・シリルやジョージ・ケイブルスのところへ飛んで行きたくなるのだ。(2019年9月23日記)
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