#1121 喜多直毅+元井美智子+久田舜一郎
2020年1月18日(土) 渋谷区・松本弦楽器
Text and photos by 齊藤聡 Akira Saito
Naoki Kita 喜多直毅 (vln)
Michiko Motoi 元井美智子 (三味線, 箏)
Shunichiro Hisada 久田舜一郎 (小鼓)
なかなか観る機会のない、能楽師・久田舜一郎(大倉流小鼓方)の即興演奏。もとは阪神・淡路大震災翌年のコンサートで故・齋藤徹(コントラバス)が共演して驚き、その後もフランスでミシェル・ドネダ(サックス)らとの共演などを積み重ねてきて、それゆえにいまも即興音楽リスナーの前に姿をみせてくれているわけである。
「原始感覚美術祭」(2018/8/31、長野県大町市)においては、久田、齋藤、ダンサー3人(ザイ・クーニン、皆藤千香子、矢萩竜太郎)が圧倒的なパフォーマンスを繰り広げている。それはまるで他者が容易には入り込めない結界が創出された世界であり、あらためて久田の存在感を知らしめるものだった(近藤真左典によるDVD作品『ぼくのからだはこういうこと』で観ることができる)。また昨2019年の齋藤とのデュオも素晴らしいものだった(2019/4/11、大田区・いずるば)。
この日は楽器店という狭く親密な空間での演奏であり、小鼓の音量も抑えめにしたようである。それでも、次第に大きくなってくる音波の迫力にはわかっていても驚かされる。入念に乾燥しピンと張られた皮からの澄んだ打音、それも決して一様ではなく、実にさまざまな貌で瞬時にあらわれては消える。かけ声もまた多様だ。ときどき裏皮の調子紙や皮自体を唾で湿らせたりもして、その動きがパフォーマンスのひとつとなっていた。
元井美智子が使った三味線はハードな即興演奏を想定したものだった。中棹の三絃(地歌三味線)には猫ではなく犬皮が張られており、それに2種類の撥を使った(小ぶりの象牙製のもの、津軽三味線用のより小さいもの)。地歌用の撥で津軽三味線のように叩いたら間違いなく撥が折れるのだという。演奏前後にそのことを教えてくださったが、演奏自体では、それらの特性を直に示すようなことはしない。楽器、人、音の間にある即興音楽のプロセスは、単純な説明による消費を許すものではないということだろう。そして演奏は意外に抑制気味に思えて、それがまた何かの胎動を暗示するよう。
箏では小鼓の音を得て動き、小鼓の音を予測して同時に絡むように動き、そして驚いたのは小鼓の音に先んじて箏で仕掛ける場面が何度もあったことだ。すなわち小鼓とのインタラクションにおいて時間との対話があった。元井は即興音楽シーンの箏奏者のなかではアグレッシブではなく静かなほうだと思えるのだが(筆者のわずかな知識の中ではあるけれど)、このような即興的な動きがとてもおもしろい。ときに掌底でブレーキをかける響きも、弦で弦を擦る音も、小鼓の多様さへの呼応として聴いた。
元井は沢井筝曲院(生田流)の出身である。故・沢井忠夫には「お箏は不完全な楽器だから、奏者の発想で綺麗な伸びる音も潰れた苦しい音も工夫次第で出せる可能性がある。だからこうしか弾かないとかこうあるべきという考えはしないで、音色を何十色何百色と出せるプレイヤーになりなさい」と教えられたのだという。楽器の「不完全さ」とそれゆえの「可能性」とは、即興音楽の文脈でもとても興味深い観点ではないか。
喜多直毅のヴァイオリンは、今回は、前面に出て小鼓や箏の音と個々にインタラクションを策動するのではなく、全体のサウンド作りに貢献する意図があったように思えた。気がつくとその長く繰り返される音が、サウンドという同乗車の進む向きを別のルートに誘導している。演奏後に喜多に尋ねると、減衰音を主とする和楽器奏者ふたりに対し、ヴァイオリンの持続音をもって常に鳴っている「横糸」のようなイメージでの演奏だったのだと言った。
喜多の即興演奏においては不思議な和音が提示されることが多い。ときにはそれは、ふたつの弦を同時にポルタメントで変化させながら弾いていくさまざまな技法によるもののようだ。この日は、低音域でふたつの弦が短9度の関係にもなったのだという。その結果得られる奇妙な緊張感は、奏者にとっては技法的な説明であり、リスナーにとっては喜多ならではのサウンドの独自性として受け止められる。
今回のギグは三者三様の「大人の即興演奏」で、静かに耳から脳に浸透した。
故・齋藤徹は、若い日に、アメリカ人女性に「日本人のあなたがなぜ西洋の楽器でジャズをやっているの?」と質問され返答に窮した。帰国後に沢井筝曲院を訪ね、邦楽の伝統を変えるため門戸を広げていた沢井夫妻も齋藤を迎え入れた(「青鶴7」2016/3/14)。久田との即興音楽シーンでの交流は上に書いた通りである。喜多もまた、齋藤との出逢いから即興音楽の表現を開拓し続けている。彼は久田が齋藤やドネダらと展開した演奏を意識して、アブストラクトなアプローチを採用したという。その一方で、久田には2018年から能楽作品「葵上」においてピアソラ曲の演奏を依頼され、アブストラクト寄りか、抒情的なものにすべきか、そのあり方を模索している。縁から連なってゆくこういった表現の発展のあり方は、即興音楽を間違いなく豊かなものにしていると言うことができるだろう。
(文中敬称略)