#1296 KARM日本ツアー・関東編
Text by Akira Saito 齊藤聡
Photos by Akira Saito 齊藤聡 and m.yoshihisa (noted)
Michal Wróblewski ミハル・ヴルブレフスキ (alto saxophone and clarinet) from Prague
Torsten Papenheim トルステン・パペンハイム (acoustic guitar and objects) from Berlin
Guests:
2024/3/16 (土) OTOOTO(東北沢)
w/ Cal Lyall (guitar)and Yasumune Morishige 森重靖宗 (bass)
2024/3/17 (日) Candy(稲毛)
w/ Ayako Kanda 神田綾子 (voice)
2024/3/18 (月) Ftarri(水道橋)
w/ Tetuzi Akiyama 秋山徹次 (guitar)
2024/3/19 (火) Hako Gallery(代々木上原)
w/ Kohsetsu Imanishi 今西紅雪 (箏)
2024/3/20 (水) Bar Isshee(千駄木)
w/ Yoko Ikeda 池田陽子 (violin) and Ayako Kanda 神田綾子 (voice)
KARMはプラハのミハル・ヴルブレフスキ(アルトサックス、クラリネット)とベルリンのトルステン・パペンハイム(ギター)による即興のデュオユニットである。ミハルは2度目、トルステンは初めての来日であり、日本での紹介記事はほとんどない(*1)。ユニット名はエストニア語で「rough」くらいの意味だそうで、かれらが語感重視で当たりを付けたものだ。初リーダー作のタイトルはKARMならぬ『KRAM』、これもまた遊び心。
かれらの特徴はまったく電気を使わないことだ。マイクもエフェクターも、PAやアンプにつなぐケーブルもない。それによるアコースティック性は、「通常」の楽器使用で表現されるわけではない。トルステンは弦に微細な力を加え、リードや石などの物体の接触による打音や擦音を入念に提示する。一方のミハルも管を大きく共鳴させることをしない。マウスピースを外して揺れ動く息を吹き込み、掌で叩き、リードの先端を髭に触れさせたりもする。
すなわち、アコースティック性は楽器の特性というよりも音が創出されるマージナルなプロセスに向けられている。たとえば、「ギターを弾く」、「サックスを吹く」といった常套句は明らかにかれらの音楽をあらわすために適していない。古田徹也『言葉の魂の哲学』(*2)を引くならば、「一つ所に留まらず、いわば次々にアスペクトを渡っていくことではじめて、言葉の輪郭というものを捉えることができる」。この指摘は音楽についても共通するところがあるだろう。かれらは意のままにならない音というものに向き合い、さまざまな貌を選びとり、その実践そのものを創造的な表現としている。ことばも音も責任を伴う「わたし」なのである。
今般のツアーにおけるKARMの実践場は9箇所。そのうち5回の演奏に足を運んだ。
OTOOTO(東北沢)では1セットのデュオであり、対バンはギターのカル・ライアルとベースの森重靖宗のデュオ。かれらは放たれたあとの音の増幅に焦点をあてるような即興演奏であり、KARMとのコントラストがなおさら両者の向くところを際立たせた。
Candy(稲毛)ではセカンドセットにミハルと旧知の神田綾子(ヴォイス)が入った。神田はPAを使ったもののかなり出音を抑制し、KARMと同じフェーズに入ってみせた。その結果みられたものは、たとえば神田が放った声を受けてフレーズのように展開するミハルの姿。このありようは互いの即興の位置を理解していなければ実現しなかった。
Ftarri(水道橋)ではセカンドセットに秋山徹次(ギター)。初共演であったからか、秋山はKARMのほうに近寄っていったようにみえた。しかし、トルステンと秋山のギターは似ていない。トルステンのルールはその最小化でもあろうから、手癖やクリシェといったたぐいの個性が浮き彫りになりそうなものだが、おそらくは実践の積み重ねと経験によりそうと感じさせない。一方の秋山はなにかを現出させるための演奏ではなく実践が目的と同義。これはすごいことだ。
Hako Gallery(代々木上原)ではセカンドセットに今西紅雪(箏)。トルステンの演奏をはじめて目の当たりにしたとき、筆者はかれに箏のようだと言った。トルステンもそのことを意識して今西との共演に臨んだのだが、おもしろいことに両者のちがいが随所にあらわれた。柴田南雄は日本の伝統音楽の性質や特徴について「結局はすでに古くからしばしば指摘されて来たこと、つまり余韻を愛好することと、騒音性を必ずしも排除しない点に帰するであろう」と書いている(*3)。たしかに、減衰音の残響、弦に挟んだヘアクリップの人為と偶然とのあいだの動き、そうしたものによる音の空気が箏にはあった。トルステンのギター演奏はどちらかといえば人為の操作であり偶然の要素はあまりない。だが、演者も結果としての音をすべて予見していないのだろう。このちがいの発見と共有が演奏のスリリングさに貢献した。
Bar Isshee(千駄木)では池田陽子(ヴァイオリン)と神田綾子(ヴォイス)のデュオに加えて全員でのセット。池田も共感してKARMと同じ完全アコースティック、そして神田はふたたび最小限のPA使用。この丁寧な準備により、皆の音の存在感が同じ地平に立った。四者は共通の空間を取り囲む。池田の多様な擦音、神田のべつのものへの憑依、そして四者が互いの様子を感じ取りつつ自身の作業に集中している。そのことによる現象は、静かな中でだれが音を出すのかというコミュニティの現出だった。それはやがて共同作業のサウンドへと移り変わっていった。
ステージごとの特性は創造プロセスが事前に仕組まれた結果ではない(場所やゲストの選定にあたり多少の企図があったとしても)。知らない人との出会い、あるいは旧知の関係の改変。実践と自他へのフィードバック。一連の演奏には、そうしたフリー・インプロヴィゼーションの醍醐味があった。
(*1)例外として『Improvised Music from Japan Extra 2006』(Improvised Music from Japan、2006年)のベルリン特集でトルステン・パペンハイムが取り上げられている。
(*2)古田徹也『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ、2018年)
(*3)柴田南雄「日本の楽器」(『日本の音を聴く』(岩波現代文庫)所収、1980年)
(文中敬称略)
秋山徹次、森重靖宗、池田陽子、今西紅雪、フリー・インプロヴィゼーション、神田綾子、ミハル・ヴルブレフスキ、トルステン・パペンハイム、カル・ライアル