Chapter43 ソニー・ロリンズ
photo&text by 望月由美 Yumi Mochizuki
撮影:1968年1月3日、東京サンケイホールにて
ソニー・ロリンズは大の親日家で1963年の初来日から2010年の80歳記念ツアーまでしばしば日本を訪れている。 写真は1968年、2度目の来日時のもので、まだこの頃はサックスにマイクを着けていなかったので生の音が聴けた。ロリンズは興が乗ってくるとステージ中央のマイクから離れ、舞台の端から端まで吹きながら歩くのが常であったがノン・マイクでもロリンズのテナーは美しい音で客席を満たしてくれた。
2012年のライヴ以降ステージに立ったというニュースは伝わってきていないが2012年頃までのステージの演奏から吟味して選曲されているアルバム『Road Shows』シリーズのロリンズは唯我独尊、無我夢中で自分の世界に入り込んでいて思わず引き込まれてしまう。 持ち前のパワーに加えてキャリア70年と云う年輪の重みを加えたテナーはエネルギーに満ち溢れ、ソロイストとしての円熟ぶりが音の隅々から伝わってくる。80を過ぎてなお演奏にかける意欲と熱意には頭が下がる。
テナーを手にして70年というロリンズの長いキャリアの中でも筆者が一番よくターンテーブルに乗せるアルバムが『WAY OUT WEST/SONNY ROLLINS』(CONTEMPORARY)である。 サボテンや雑草が生えしげる荒れ果てた西部の荒野、頭にはカウボーイ・ハット、腰にはガンベルトをまき左手にテナーをもって得意顔でポーズを決めるロリンズ、足元には牛の頭蓋骨がころがるというアンバランスさがなんとも楽しいウイリアム・クラクストンのジャケット写真も格別で、さあロリンズを聴こうと云う時には真っ先に『ウェイ・アウト・ウェスト』ということになってしまう。
チャカポコ、チャカポコという馬の蹄鉄の響きを擬音化したシェリー・マンのドラムにのってフッと音を出すロリンズ。一曲目の<I`M AN OLD COWHAND>。この出だしの一音のフッがたまらない。フッと空気に溶け込むテナーに心がなごむ。これこそロリンズならではの至芸、肩の力の抜けたなめらかなトーンは他の人ではなかなか聴けない。
1957年3月7日マックス・ローチ・クインテットの一員としてウエスト・コーストにツアーした際コンテンポラリーのスタジオに立ち寄ってレコーディングしたもので、コンテンポラリーのオーナー、レスター・ケーニッヒによるとレコーディングがスタートしたのは深夜の3時だったという。メンバー夫々が仕事をこなしてから集まったためである。お声がかかったミュージシャンはレイ・ブラウン(b)とシェリー・マン(ds)の二人でピアノ・レスのトリオ。 シェリー・マンのユーモラスで洒落っ気たっぷりのドラミングとゆったりとしたピチカートだけど要所要所をびしっと決めるレイ・ブラウンのベースもパーフェクトでほれぼれとする。
4時間ほどレコーディングが進み朝の7時ごろアルバムの半分くらいの収録が終わり、さあこれからどうしようかという段階になって、ロリンズが<今すごくホットになっているんだよ!>と話すとシェリー・マンも<僕もだよ、このまま演奏を続けたいね>と云い、レイ・ブラウンもにっこりと微笑んだ。結局は貫徹でそのままレコーディングが続行され、この一回のセッションでアルバムは出来上がったという。 深夜の3時に初めて顔を合わせた3人が一発でこの親密な音の会話を交わせるのは正に匠の技としか云いようがない。
このピアノ・レスのトリオという編成はロリンズのたっての要望で実現したものでロリンズはこの編成がよほどしっくり来たのか、このツアーからニューヨークに戻ってマックス・ローチのグループを離れた後に初めて自分のグループを結成することになるが、その時の編成がこのピアノ・レス・トリオでメンバーはS・ロリンズ(ts)、ドナルド・ベイリー(b)、ピート・ラロカ(ds)と云う顔ぶれで、その記念すべきお披露目は「ヴィレッジヴァンガード」であった。 1957年11月3日、日曜日のマチネー(午後の部)がニュー・ソニー・ロリンズ・トリオのデビューであった。 因みに夜の部はロリンズとウイルバー・ウエア(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)という顔ぶれのセットで、昼・夜あわせて『a night at the“village vanguard”』(blue note)の誕生である。
セロニアス・モンクを師と仰いで尊敬し、モンクとは『Thelonious Monk with Sonny Rollins and Frank Foster』(Prestige、1953) 『BRILLIANT CORNERS』 (Riverside、1956)などに参加していたが、この時期のロリンズはこのピアノ・ レスの編成が気に入ったのか1958年2、3月にはオスカー・ペティフォード (b)とマックス・ローチ(ds)によるトリオで『FREEDOM SUITE』(RIVERSIDE) を 録音しているし、ヘンリー・グライムス(b)、スペックス・ライト(ds)と『Sonny Rollins And The Big Brass』(Metrojazz )を収録するほかこの編成でヨーロッ パ・ツアーも行っている。この編成でのロリンズはどれも生きが良くて、おお らかである。
デイヴィッド・マレイ(ts)は雑誌のインタビューの中で“ロリンズがピアノ・レス・トリオを好んでやるのは彼がハーモニーのマスターだからなんだよ。おそらく彼の頭の中には常にハーモニーがガンガン鳴っていて、だからピアノを必要としないのだと思うよ…”と語っている。 ピアノ・レスによっていかにもロリンズらしい奔放さが表現されるのだという。
当時20代後半と云う気力の充実した年頃であったがこのあとロリンズは一時ジャズ・シーンから雲隠れをする。 ロリンズの雲隠れは2度目、というか雲隠れは何度もあったようだがジャズ界で大きくとりあげられたのは2度と云うことになっている。
1度目は1954~55年ごろで、ロリンズはシカゴに移り住む。50年代初頭のニューヨークでは仲の良かったマイルズやジャッキー・マクリーン(as)、ケニー・ドリュー(p)達をはじめみんなが薬に走ったりと、あまり良い状況ではなかったのでロリンズはシカゴでジャズ・シーンから離れクリーンになるべく自らの生活の改善に努めていたという。 1955年マックス・ローチ・クインテットがシカゴを訪れた際クリフォード・ブラウン(tp)を聴いてブラウン&ローチに共鳴しハロルド・ランド(ts)の後継としてマックス・ローチ・クインテットに加わってシーンの第一線に復帰する。 クリフォードとの共演は凡そ一年ほど、翌年の1956年6月26日にクリフォードは交通事故で旅立ってしまう。 ロリンズは尊敬するクリフォードの突然の死に計り知れないショックを受けたそうである。 ロリンズはクリフォードが亡くなる4日前の1956年6月22日に名盤『SAXOPHONE COLOSSUS』(PRESTIGE)を録音しているがもしこの録音が6月26日よりも後に設定されていたらあの<モリタート><ブルー・セブン>等の名演はなかったかもしれない。
2度目の雲隠れは1959年の夏「プレイボーイ・ジャズ・フェスティヴァル」に出演したあと、またライヴ・シーンから姿を消す。 ロリンズ29歳、人気絶頂時の隠遁である。 ジャズの世界では人気もありトップ・アーティストとしての地位は確立されていた時であるが本人は自分のプレイに満足していなかったし、毎晩クラブで酒と煙草にかこまれて演奏する生活から離れて音楽を勉強し直す決断をしたのだそうだ。 ロリンズの音楽に向き合う真摯な姿勢が浮かび上がる。
ソニー・ロリンズは現在ニューヨークのウッドストックに居を構えているが1959年当時はマンハッタンのロアー・イースト・サイドに住んでいて、クラブ通いをやめたロリンズは毎日ジョギングをして生活の改善をしたり、ヘンリー・ストリート・ミュージック・スクールの先生について音楽理論や作曲を学んでいた。ロリンズは子供のころ、親から音楽の勉強をすすめられたが嫌がって勉強しなかったそうだ。そのためプロになってから何度か音楽教師について音楽指導を受けているようである。
そして自分の部屋では思う存分サックスを吹くことが出来ないので近くのイースト・リバーにかかっているウイリアムズバーグ橋の中央の辺りで川の流れを見ながら練習したのだそうだ。時には橋の下を通る船の汽笛に合わせて音を出して楽しんだという。 そうした練習中のある日、偶然ブルックリンからマンハッタンの方に向かって歩いていたあるジャズ評論家に目撃されてしまったのだ。ロリンズが記事にしないでくれと頼んだにもかかわらず、しばらくしてメトロノーム誌にスクープされてしまい、有名なウイリアムズバーグ橋伝説が生まれたのである。
1961年11月ソニー・ロリンズはジム・ホール(g)を加えたカルテットで「ジャズギャラリー」に出演しジャズ・シーンにカムバックし伝説を現実にしたのである。そしてその復帰第一作が『THE BRIDG』(RCA)であった。
ソニー・ロリンズは1930年9月7日、ニューヨーク、シュガーヒルの生まれで、サボイ・ボールルームやアポロ・シアターにほど近いハーレムで育っている。 近くにコールマン・ホーキンズ(ts)が住んでいてロリンズにとってホーキンズがアイドル的存在であった。 のちに1963年7月、ロリンズはニューポート・ジャズ・フェスィヴァルでホーキンズとの共演を果たしその10日ほど後に『SONNY MEETS HAWK!』(RCA)のレコーディングを実現する。 少年時代ルイ・ジョーダン(as,vo)の影響でアルト・サックスを始めるがホーキンズにあこがれて16歳の時にテナーに替える。サックスは自己流でマスターした。 ロリンズが16歳というと時は1946年、当然のことであるがパーカーやモンク達からバップの洗礼を受ける。 近所にはジャッキー・マクリーン(as)やケニー・ドリュー(p)、アート・テイラー(ds)と云った仲間がいて一緒に練習していたし、マイルズも東セントルイスからニューヨークに出てきていて知り合いとなり、みんなでハーレム界隈をたむろしていた様子はマイルズの自伝にも書かれている。
1951年の1月マイルズの『MILES DAVIS AND HORNS』(PRESTIGE)へのレコーディングに参加するがそのときマイルズの口利きで同じ日にプレスティージへのファースト・レコーディングを一曲だけ行うことになる。このときマイルズがピアノを弾いていることでよく知られているが、これ以降プレスティージやリヴァーサイド、ブルー・ノート、RCA、インパルス、マイルストーン等々のレーベルに精力的にアルバムを録音することになりジャズ界のレジェンドとなった。
当然のことながらロリンズはグラミー賞をはじめ多くの賞を受賞しているが、最大の栄誉はオバマ大統領から2010年度の『the Medal of Arts from President Barack Obama』を受賞し、2011年の3月2日、ホワイト・ハウスでオバマ大統領から直接賞をもらったことである。ホワイト・ハウスでオバマ大統領からメダルをかけてもらう時の写真を自分のホームページに掲載しているし、ロリンズを“サキソフォン・コロッサス”と讃えるオバマ大統領のスピーチは「youtube」で見ることが出来る。 オバマ大統領のスピーチそしてロリンズの笑顔が素晴らしい。 https://www.youtube.com/watch?v=aT3GQO7btJ0
今年の4月にソニー・ロリンズのロード・ショウズVol.4『Holding The Stage (Road Shows, Vol.4)』(Doxy)がリリースされた。ロリンズのオーナー・レーベル「DOXY」からリリースされたもので1979年から2012年に行われたライヴからセレクトされたライヴ演奏であるが、あらためてロリンズのエネルギッシュなパワー、音楽にかける情熱、その熱さに驚かされる。 現在85歳、この録音当時でも82歳になっていたことになるが自在にジャズを操る力は半世紀前と変わらないし爛熟味を増した分ずしりと胸にこたえる。
ロリンズのツイッターやフェイスブックを見ると『ロード・ショウズVol.4』のことやイラスト画を投稿したりとまだまだ元気そうである。 今度はいつライヴ・シーンに姿を見せるか楽しみに待ちたい。
*関連リンク
『ソニー・ロリンズ/ロード・ショウズ Vol.2』
http://archive.jazztokyo.org/five/five832.html