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R.I.P. ジャック・ディジョネットある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥No. 332

#64 ジャック・ディジョネットとの仕事

text : Kenny Inaoka  稲岡邦彌
photo by Takashi Ishii 石井隆 + Kenny Inaoka (ZEBRA session)

ジャックとの仕事は1973年、デイヴ・ホランドとのデュオ録音に始まる

ジャックとの初仕事は、1973年6月。デイヴ・ホランドとのデュオ。前後して国内リリースしたジャックとキース・ジャレットのデュオ『ルータ&ダイチャ』(ECM)を意識したわけではない。スタン・ゲッツのリズム隊として来日したリッチー・バイラークp、デイヴ・ホランドb、ジャック・ディジョネットdsという当時随一のピアノ・トリオのデビュー録音を狙ったもの。ところが意に反してリッチーの参加が認められず、ジャックとデイヴのデュオとなった。ピアノ・トリオを想定して西新橋のイイノホールをブックしていたため、持ち替えの多いデュオ録音に苦戦。しかし、災い転じて福となすのが新米ディレクター。帝王マイルス・バンドの優等生ふたりが次々と繰り出す楽器のナマ音を間近で耳にしたからたまらない。ジャックがアコピ、フェンダーローズ、電子オルガン、メロディカ、マリンバ、ドラムス、パーカッション、ヴォイス、デイヴがアコベ、エレベ、ヴォイス、パーカッション。この時、耳に焼き付けた彼らのナマ音が僕のスタンダードになってしまい、以後、日本のミュージシャンの録音で僕を悩ませることになる。この年は、5月にセシル・テイラー・ユニット、12月にチャールス・トリヴァー・ミュージック・インクのライヴ録音もあり、6月から7月にかけ2週間にわたって日本のフリージャズ・バンド14組をライヴ録音するチャンスに恵まれたが彼我の音色、音質の差に途方に暮れたものだった。ちなみに、念願のリッチー・バイラークを含むピアノ・トリオは20年後の1993年2月、NYで録音を果たし自身のレーベル Transheartからリリースが実現したのだった。

ジャックの世界に先駆けたピアノ・アルバムの制作が続く

ジャックとの2度目の録音はデイヴとのデュオ録音の2ヶ月後にやってきた。イイノホールのピアノの虜になったジャックから「8月にCTIオールスターズでもう一度来日するのでその時にピアノ・トリオを録音したい」とのメッセージを預かって別れたのだった。「ドラムはジョージ大塚だ。ベースはそちらで決めてくれ」という希望を受け、ベースは当時ジョージさんのバンドに在籍していた古野光昭を起用することになった。ジャックはもともとピアニストとしてキャリアをスタートさせたことは知っていたし、デイヴとの録音で実力のほどは確認できていた。ジャックはジョージさんのバランスの取れた音楽的なドラミングを認めていた。古野も頑張って録音はスムースに終了し、ドラマーとして知られたジャックのピアノ・アルバムであることを強調するためにジャック+キーボードを掛けてアルバム・タイトルを『ジャッキーボード』とした。Riversideレーベルで名を馳せたプロデューサー、オリン・キープニュースがジャックのピアノの才に目を付け自身の Landmarkレーベルでジャックの『Piano Album』を制作したのは12年後の1985年のことだった。ベースはエディ・ゴメス、ドラムスはフレディ・ウェイツが務めた。

心の通じ合う仲間が集まった『ZEBRA』の録音

3度目の仕事は1985年5月、内藤忠行さんの映像作品『ZEBRA』のための音楽制作だった。当初のキース・ジャレットとのデュオ案からレスター・ボウイtpとのデュオに変更になったが、結果的にはこの変更が成功したと思う(キースの映像作品への音楽制作は息子のパーカッショニスト、ゲイブリエル・ジャレットとの共演で1989年9月に実現している)。エンジニアのデイヴィッド・べイカーのドライヴでウッドストックのカーラ・ブレイの Grog Kill Studio に到着すると、すべてお膳立てが整っている手際良さ。ジャックがスタート・ボタンを押すとジャックがプログラミングしたポリリズミックなシンセの音が。ビデオのプレイバックを見ながら地から聞こえてくるようなアーシーな音でメロディを吹き流す。この映像、このサウンド、このメロディ...思わず胸に込み上げてくるものがある。音楽制作に関わる者としてこれほどの幸福感に浸れる瞬間は滅多にあるものではない。何よりそこに集った者すべてが共有するアートに対するピュアな思い。環境を整えてくれたカーラ・ブレイを含めて。映像の完成度をより高めたい内藤さんの意向もあり、ビデオ作品としては未だリリースされていないが、音楽は独立した作品として日本 (Pan Music) とアメリカ (MCA) でリリースされた。先に旅立った、デイヴィッド・ベイカー、レスター・ボウイ、カーラ・ブレイを追ってこの10月、ジャック・ディジョネットが逝った。

ジャズのスピリットがジャックからラヴィとマシューに引き継がれた現場

2014年5月、内藤さんと僕はジャックからブルーノート東京への招待を受けた。ラヴィ・コルトレーンとマシュー・ギャリソンを従えたトリオ演奏だった。楽屋を訪ねると写真家の中平穂積さんとプロデューサーの伊藤八十八さんと一緒になった。中平さんがコルトレーンとジミー・ギャリソンの写真を息子たちに見せる。「彼らの親父たちが早く亡くなってしまったので僕らが面倒を見てきたんだ。とくに、マットはほとんど家族のように暮らしてきた」とジャック。キース・ジャレットとのトリオがひと段落して、今後はこのトリオを中心に活動していくという。ECMからアルバム『In Motion』もリリースした。ジャックたちの世代のジャズのスピリットが次の世代のミュージシャンに引き継がれていく現場に立ち会うことができた。
このとき、グリップの変化に気が付き尋ねてみたところ、リストが痛くてレギュラー・グリップが握れないんだと寂しそうに答えたのを覚えている。

https://www.bluenote.co.jp/jp/reports/2014/05/21/jack-dejohnette-trio-featuring-ravi-coltrane-matthew-garrison.html

サイドメンとしてのジャックとデイヴ

1976年8月、僕らは真夏のマンハッタンのCI レコーディング・スタジオにいた。悠雅彦さんが主宰するWhyNotレーベルのレコーディング。悠さんが目を付けた若手ピアニスト、ドナルド・スミスのデビュー・アルバムだ。共演はすでに名の知れたセシル・マクビー(b, 1935~) とジャック・ディジョネット (ds, 1942~2025) 。新人の録音にこの二人を配するとは悠さんの意気込みはひとかたならない。さて、これからサウンド・チェックが始まろうとした時、ジャックがシンバルの止めネジを外し始めているのに気が付いた。「どうしたんだ?」と尋ねると「話が違うのでやめだ」という。つまり、ドラムセットをバラして帰ろうとしているのだ。急いでプロデューサーの悠さんに確認すると、どうやら契約交渉に慣れない悠さんと話の行き違いがあったらしい。なんとか話をまとめ録音は無事終了した。『Luv』とタイトルされたこのアルバム、ドナルド・スミスの代表作として残っているのだが日本では残念ながらあまり注目されていないようだ。曲は3人が2曲ずつ提供しているが、セシルとジャックがドンに容赦ない愛の攻撃を仕掛けており聴きどころ充分の快作である。本稿を書くにあたってネットを検索したところ、2022年4月にコロナが原因で亡くなっていることが判明した。享年78。
https://amsterdamnews.com/news/2022/04/14/donald-smith-consummate-pianist-dies-at-78/

代わって1986年5月、東京・芝の郵便貯金ホール(現・メルパルクホール)。パーカッショニスト富樫雅彦の音楽生活30周年記念コンサート。ステージには富樫の他に、スティーヴ・レイシー(ss)とドン・チェリー(tp)、加えてベーシストのデイヴ・ホランドが。富樫お気に入りのJ.F.ジェニ=クラークでもJ.J.アヴェネルでもない。確保していたJ.J.が体調不良で、ホランドがNYから急きょ駆けつけてくれたのだ。猛烈にドライヴするホランドを得てバンドはグルーヴに満ち、富樫さんもドラマーに戻ったかのような活きの良さを見せたのだった。コンサートは大成功、ライヴ盤は『Bura Bura』(PAN Music)として残った。富樫さんはこの時のドライヴ感が忘れられず、バンド「J.J.Spirits」を結成、グルーヴィーな演奏を再開することになったという。

一度だけジャックの自宅を訪ねたことがある。81年の11月から1月にかけて行われたノーマン・シーフを起用したフォト・セッションの時だった。当時、ジャックはウッドストックに近いウィロウに住んでいた。内藤忠行さんの『ZEBRA』を録音したカーラ・ブレイと自宅からほど近い。中はログハウスのようなウッディな作りで、冬は零下20度近くまで下がるため、玄関や窓は二重になっており大きな薪ストーブががんがん炊かれていた。よく知られた<Lydia>と言う曲を捧げられた愛妻のリディアにもこの時初めて会った。娘たちは元気に戸外で乗馬を楽しんでおり、カメラを向けたが僕のアマチュア・カメラでは寒さでシャッターがおりなかった。
この時のノーマンが撮ったジャックの写真は見つかり次第アップするつもりだが。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。最新刊に訳書『キース・ジャレットの真実』(DU BOOKS)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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