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ある音楽プロデューサーの軌跡 稲岡邦弥R.I.P. スタンリー・カウエルNo. 274

#54 スタンリー・カウエルとストラータ・イースト
#54 Stanley Cowell and Strata-East

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
photos by Mitsuhiro Sugawara unless otherwise indicated 菅原光博

スタンリー・カウエルが亡くなった。享年78だがほぼ人生を全うしたのではないか。それほど彼のキャリアは充実していたと思う。初めてスタンリーに出会ったのは 1973年12月、Music Inc.での来日時。今年、2021年、Strata-East 設立50周年にオールスター・バンドの一員として来日の予定だった。コロナ禍が収束し記念ツアーが実現した折りにはジョージ・ケイブルスがスタンリーに取って代わることになる。1973年の初来日はビザの取得に失敗したジョン・ヒックスのトラとして急遽スタンリーが代わったもので運命の悪戯に驚く他ない。

旧トリオレコードに勤務していた私がStrata-East(ストラータ・イースト)レーベルとディストリビューション契約を結んだのは、マイク・マントラーとカーラ・ブレイの紹介による。当時、マイクとカーラはJCOA(Jazz Composers Orchestra Association) をベースに、各国のインディ・レーベルの全米ディストリビューションを請け負う New Music Distribution Service (NMDS *1972年に設立され常備在庫をモットーに1990年に閉鎖。最大のヒットはチック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』という) なる組織を運営していた。ミュンヘンを拠点とするECMもアメリカでは NMDSを通じて輸入盤を流通させており、JCOA/NMDSは私が契約したばかりのECMのプロデューサー、マンフレート・アイヒャーの紹介だった。NYのオフィスで会ったカーラは「マンフレートはね、ミュンヘンでは忙しいのかしら、NYに来るといつも寝ているのよ」と笑いながら話してくれた。彼らを通じてはカール・ベルガーのCMS (Creative Music Studio) の紹介も受けた。後年、JCOAとカーラのWATTレーベルはECMがディストリビューションを受け持ち、最近ではマンフレート・アイヒャーがマイケル・マントラーとカーラ・ブレイのアルバムをプロデュースするようになった。70年代とは立場が逆転したが、マイクとカーラが実務を離れて本来のミュージシャンに戻ったということに過ぎない。マイクはカーラと別れて実家のあるオーストリアに戻り(現在はコペンハーゲン在住)、カーラは新しいパートナー、スティーヴ・スワロウを迎えてすでに久しい、という変化はあったのだが。

Strata-Eastは、50年前の1971年スタンリー・カウエルとチャールス・トリヴァーによりNYに設立されたアフリカ系アメリカ人が運営するアフリカ系・アメリカ人のための自主運営レーベル。チャールス・トリヴァーによれば、Strataは文字通り階層、積層を意味し、Eastはニューヨーク。1969年、マックス・ローチのバンドで出会ったふたりが意気投合、翌年ベースにセシル・マクビー、ドラムスにジミー・ホップスを迎えてMusic Inc.なるカルテットを結成、翌年、カルテットをビッグバンドに拡大してアルバムをレコーディング。メジャー・レーベルではリリースを実現できず、当時、デトロイトに住む彼らの友人のミュージシャン達がStrataという名で活動組織を持っており彼らに加入を勧められたが、NYに自らの組織を新設した。彼らに連帯を表明する意味でStrataを名乗ったが組織的には完全に独立したものであったという。トリヴァーが外政をカウエルが内政を担当、ミュージシャンが自主制作した音源をアルバム化、流通は上記のようにNMDSに委託した。

レーベル・スターターのオケ版『Music Inc.』(1971) に続くカルテット版Music Inc.のスラッグス(Slug’s)でのライヴ Vol.1、Vol.2(1972) は、当時の彼らの先鋭的なポスト・バップな演奏を生々しくドキュメントしたアルバムとして高く評価され、続くクリフォード・ジョーダンの『In the Wolrd』』(1972)も日本の輸入レコード店で人気アイテムとなり、トリオレコードで国内盤化された。マイルス・デイヴィスのバンドで活躍したパーカッショニストのエムトゥーメ M’tumeのUmoja Ensembleによる『Alkebu-Lan: Land of the Blacks』(1973) はアフリカン・アメリカンのルーツに迫り、マックス・ローチを中心とする7人のパーカショニストによる『Re.:Percussion』(1973) と共にダブル・アルバムの大作で彼らの意気の高さを象徴するものであった。続いてリリースされたスタンリー・カウエルの『Piano Choir』(1973)もピアニスト/キーボード奏者7人によるクワイアの演奏をフィーチャーした大作で、数あるカウエルのプロジェクトのなかでも、最大規模のものであった。資料によると「ピアノ・クワイア」は1972年にNYで結成され、早くも1972年6月にNYのシェイクスピア・フェスティヴァルでデビューを果たしたとある。カウエルを中心に、ハロルド・メイバーン、ヒュー・ローソン、ダニー・ミクソンら7人の鍵盤奏者が繰り広げるキーボード・ミュージックはけだし壮観であった。7台のグランド・ピアノ、2台のエレクトリックピアノ、オルガン、ハープシコード、打楽器(M’tumeらが参加)...。

 

このように内容の充実したアルバム・リリースが続くなか、1973年11月にStrata-Eastの日本のディストリビューター、トリオレコードと鯉沼利成率いるあいミュージックの共同プロジェクトとして敢行されたのがMusic Inc.の来日ツアーだった。ピアノのジョン・ヒックスがヴィザの取得に失敗し、急遽スタンリー・カウエルが来日したが、結果としてStrata-Eastを代表する双頭が顔を揃えることとなり郵便貯金ホール(現メルパルクホール)のライヴ盤『Live in Tokyo』が歴史的意義を持つものとなった。ストラータ・イーストからリリースされるアルバムは、レーベルの意向を受けることなくミュージシャンが本来志向する音楽をストレートに表出することができるため、代表作としてストラータ・イースト時代のアルバムをあげるミュージシャンが多い、なかでも1973年にリリースされたビリー・ハーパーの『カプラ・ブラック』は名盤の誉れ高く、自他共に認める代表作として語り継がれている。チャールス・サリヴァンの『ジェネシス』然りである。その後、ファラオ・サンダースのスピリチュアル系、ギル=スコット・ヘロンのソウル系などのアルバムが続き、トリヴァーを中心とする新主流派系を幹にアフリカン・アメリカン系ミュージシャンによる強固なストラータ(積層)が構築されて行ったのだった。国内ではトリオレコード時代のLPから徳間ジャパン、BombaのCDへと続いて行ったのだが最終的には何枚の国内盤がリリースされたのかは定かではない。ストラータ・イースト自体では1980年頃までに60枚近いアルバムがリリースされている。その中でスタンリー・カウエルはリーダー、コ・リーダー、バンドメンバーとして数多くのアルバムに参加、精神的支柱としても重責を果たした。

今年は、記念すべき設立50周年にあたり、チャールス・トリヴァーを中心にゆかりのミュージシャンが結集、「ストラータ・イースト・オールスターズ」として来日の予定だが、コロナ禍の中で未だに具体的な日程を出せずにいる。そのなかで、双頭のひとりスタンリー・カウエルが昨年末に急逝、ピアノがジョージ・ケイブルスに変更になった。ケイブルスはリーダー・アルバムこそリリースしていないものの、ハーパーの『カプラ・ブラック』に参加しているファミリーのひとりである。ちなみに、予定される「Strata-East 50周年記念オールスター・バンド」の陣容は;ディー・ディー・ブリッジウォーター(vo) チャールス・トリヴァー(tp) ビリー・ハーパー(ts) チャールス・マクファーソン(as) ジョージ・ケイブルス(p) バスター・ウイリアムス(b) アルヴィン・クィーン(ds) である。ディー・ディーも上記サリヴァンの『ジェネシス』とビリー・パーカー=フォース・ワールドによる『フリーダム・オブ・スピーチ』に参加しているファミリー。一刻も早くコロナ禍が収束し、オールスターの来日が実現することを念じてやまない。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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