ジャズ・ア・ラ・モード#22. ビリー・ホリデイの最高にゴージャスなアクセサリー
22. Billie Holiday’s the most gorgeous accessories : text by Yoko Takemura 竹村洋子
Photos : Library of Congress-William Gottlieb Collection, Pinterestより引用
ビリー・ホリデイ(Billie Holiday, 1915年4月7日 – 1959年7月17日) については、この連載コラムの#9:ビリー・ホリデイとシンプルなクルーネックセーターで一度取り上げた。彼女のニットのセーターが一番ビリーらしさが出て素敵だと書いた。
今回も彼女のガーディアの花でもなく、彼女は好んで着ていた華やかなローブ・デコルテのロングドレスの話でもない。
今回はビリー・ホリデイの愛犬の話だ。
ビリー・ホリデイは彼女の短い活動期間に長きに亘ってボクサー犬の『ミスター』、そしてチワワの『ペピ』と一緒だった。愛犬家には叱られるかもしれないが、私はビリーの数多く残されているミスターやペピと一緒の写真を見ると、彼女が身につけていたジュエリーやガーディニアの花よりも、彼女の愛犬達がずっとゴージャスなアクセサリーに見えて仕方がない。
このコラムは『ファションを通してミュージシャンたちの違う側面を見てみよう』という趣旨で始めた。ファッションとは、流行りの服装のみならず、広義にはライフスタイルや文化なども包括していう。
また、アクセサリーとはイヤリングやネックレスのことだけではない。女性の帽子、ハンドバッグ、靴、などの服飾品、装身具を総称していう。いずれも女性を美しく引き立てる大きな役目がある。
ビリー・ホリデイは多くのミュージシャン達に影響を与えた彼女の音楽性や芸術性よりも、その稀有な生い立ち、人種差別、麻薬、アルコール依存症と戦いながら人生を送ったジャズ・シンガーとして語られることも多いが、その生き方は今更語るまでもなく壮絶なものだった。
ビリーは本名、エレオノーラ・フィガンという。フィラデルフィア生まれ。父のクラレンスはナイトクラブのジャズ・ギタリストで、ほとんど家にはおらずエレオノーラは、母のサディに育てられた。1928年にサディとエレオノーラはニューヨークへ移り、エレオノーラはやがてハーレムのナイトクラブに出入りするようになり、1929年後半にはクラブ周りでそこそこの生活ができる様になる。15歳の時、『ビリー・ホリデイ』という芸名を決めた。
1933年、コロンビア・レコードのジョン・ハモンドに認められ。ベニーグッドマンと共演する。1935年以降には、デューク・エリントンと共演。その後。ジョン・ハモンドの企画によるアルバムをベニー・グッドマン(cl)、ベン・ウェブスター(ts)、テディ・ウィルソン(p)、ジョン・トゥルーハート(tp)、ジョン・カービー(b)、コージー・コール(ds)とレコーディングし大成功を収め、ジャズ・ジンガーとして名が知られ始める。
カウント・ベイシー楽団、白人クラリネット奏者のアーティー・ショウ楽団とも共演。ビリーは白人バンドと最初に共演した黒人女性シンガーだったが、黒人であるがための理不尽な待遇や不満が多くの行き違いや不満が元で、アーティ・ショウと決別する。バンドから離れたビリーは、白人、黒人を問わず同席できるダウンタウンにある『カフェ・ソサエティ』の専属シンガーとなる。
1939年、ビリーはアメリカ南部の黒人リンチについて歌った<ストレンジ・フルーツ:奇妙な果実>を自分のテーマソングとして、レコーディングし、これがビリーを一躍有名にした。
1930年代後半から40年代にかけ、ビリーはアルバム・レコーディングや契約を増やして、徐々に名声を高めていく。多くの著名なミュージシャンとの共演も増えていった。
ビリーの唄うスローでメランコリックなラヴ・ソング、<ブルーミー・サンディ>(1941)<ラヴァー・マン>(1944)などのレコーディングで1940年代の終わり頃にはビリーはジャズ・シンガーとしての名声をさらに高めていった。
クラブ出演以外にもタウンホールを始めとする大きなコンサートでも成功を収め、1947年には映画『ニュー・オーリンズ』にも出演。
1940年代はおそらくビリーの最も活動した、歌手としての絶頂期であっただろう。
が、一方で、プライベートライフは決して良い状況ではなかった。30年代後半に知り合ったトロンボーン奏者のジミー・モンローと親しくなり1941年に結婚する。ジミー・モンローは麻薬の常習者で密売人でもあり、ビリーが死ぬまで終わらなかった麻薬習慣はジミーの影響から始まったと言っても過言ではない。この結婚生活は1947年に終わる。
1945年の母親のサディの死に加え、人種差別や、他のシンガーたちのやっかみ、数々な不当な扱いにも悩み、初日のショウに神経過敏症で遅刻、優しい反面、気分屋で我儘の二重人格とさえ言われるようになっていく。そしてヘロインのみならずアルコールの摂取量もどんどん増え、アルコール依存を深めていく。1947年にはLSDにも手を出し、麻薬所持法違反で逮捕され服役。麻薬解毒治療のため入院するが失敗。
この頃、ビリーはボクサー犬の『ミスター』と出会い、1940年代はいつも一緒だった。
ビリーが犬をペットにしようという考えはビリーの友人、アイリーン・ウィルソンのダルメシアンを預った時に浮かんだ。また、最初の結婚相手のジミー・モンローとの結婚生活がうまくいかなくなった頃に、犬に対する愛情を新たにしたようだ。
彼女の犬達がビリーにとって、如何に大事だったか、リナ・ホーンはこう言っている。「彼女の人生はとても悲惨で、白人、黒人問わず他の人達にひどく駄目にされてしまいました。麻薬の小さな秘密の世界に入る以外に、彼女の行くべきところはなかったのです。彼女は、生き延びるためにはあまりに傷つきやすかったのです。彼女と一番よく話したことは彼女の犬のことです。彼女の動物達は本当に彼女の信頼できる友達だったのです。」と。
ビリーはツアーにもミスターを同行させ、よくバンドのバスを止めてミスターを散歩に連れ出し、バンドのメンバー達から怒りを買っていたらしい。
ビリーはある時、アポロ劇場で歌いたくなかったので、ボクサー犬のミスターに彼女の代わりにショウに出なさいと言った。するとミスターは彼女に軽く吠えた。「それでいいのよ。お前さんステージに上がって、次のショウで私のお代わりに歌って頂戴!」と言ったという話もある。
ボクサー犬はドイツが原産の中型犬で20世紀半ばに品種として確立した比較的新しい犬種である。ドイツで軍隊や警察で活用されており、特に第一次大戦下においては軍用犬、赤十字でメッセンジャー犬、ガード犬、レスキュー犬として活躍し、ワーキングドッグとして認められている。アメリカでは第二次大戦後、軍のマスコットとなっていた犬らが帰還兵らに持ち帰られたことによって人気となった、1940年代の流行の犬種だ。
短毛で光沢のある滑らかな毛を持ち、がっしりと強く、頭も良く、品格が高くエレガントだ。如何にも贅沢好みのレディにふさわしい犬ではないだろうか。
アメリカのボクサーは音がよく聞こえるように、また感染症を防ぐために断耳を施されているのが当時一般的だった。ミスターの耳もピンと立っている。
彼女とミスターの写真は多く残っているが、そのどれを見てもミスターがビリーを完全に信頼しきっている様子がわかる。ミスターはビリーの一部だったのだろう。堂々とした姿のツーショットも数多いが、椅子に座ったビリーの足元に体を伏せているミスターの写真は、そこにはカメラマンやスタッフもいただろうが、ミスターのリラックスした様子は、ビリーとそれほど強い絆があったか窺える。素晴らしい光景だ。
ミスターは40年代の終わり頃に他界し、ビリーは悲しみに暮れて泣きまくっていたという。
ミスターが亡くなった後、ビリーはチワワ犬の『ペピ』を飼う。
1949年ビリーは阿片所持で拘留される。釈放されてから間もなく、ビリーの1930年代以来の友人であるハーバート・ヘンダーソン博士の計らいで麻薬中毒からの更生のため、カリフォルニア州、ベルモント・サナトリウムに入ることになった。ヘンダーソン博士と夫人はベルモントへの道のり30マイルの旅をビリーと車で出かけた。一行がマウンテンビューで休憩した時に、ビリーは小さなチワワ犬を買って、既にチワワを飼っていたヘンダーソン博士にビリーが退院するまで面倒を見てくれる様に預けた。2週間後にビリーは阿片の痕跡がないことで退院することができた。
ビリーのチワワ犬は『ペピ』と名付けられ、ビリーが他界するまで大事に飼われていた。ビリーはコーキー・ヘイルというピアニストを雇っており、二人は仲が良くコーキーは伴奏者としても、友人としても良い関係にあったようだ。
二人はショーの合間によくお喋りをし、その時ビリーがいつもペピをあやして毛をそっと撫でながら、「もちろん、わたしは子どもを産んだことはないわ。」と言い、ある時はビリーが体重5kgほどしかないペピの上に人形のナプキンをおく、というような奇妙なままごとを演じていた。「私の赤ちゃんは具合が悪いの。」と言ってから哺乳瓶でペピにミルクを飲ませていたりしていた。
チワワ犬は世界最小の犬種である。大きな瞳に丸い頭を持ち、可愛らしい外見から、ディズニー映画のキャラクターとして登場したり、チワワを持つモチーフにしたアニメのキャタクターも多い。近年の品種改良により、頭はどんどん丸くなってきている。ペピはおそらく淡いベージュ、顔はそれほど丸くないが、その分ピンと立った大きな耳が目立ち、大きな瞳もぱっちりして可愛らしい。小さくても機敏で独立心もあり、彼らの愛情を一人の飼い主に集中させる、と言われるが飼い主によっても性格は当然変わってくる、とチワワを2匹飼う私の友人から聞いた。
ビリーが、大きさは違うがボクサーとチワワという短毛の犬達を選んだのは偶然だろうか?犬にも時代によって人気や流行がある。ミスターもペピもその当時の犬の姿だ。
悲しいことに1950年代のビリーはいくつかの大成功を収め、ジャズシンガーとしての高い評価を受けながらも、健康状態はどんどん悪化していった。1950年代の中頃までには、ビリーの声は粗くなり初期の頃の彼女のものではなく、彼女のスピリッツもスキルも失われて行く一方だった。私生活ではチンピラギャングのジョン・レヴィとの結婚と破局(1949~1950)、1951年には昔の恋人ルイ・マッケイと結婚し、ルイはビリーのマネージャーになるが、この関係も1956年には破綻していく。
朝から強い酒をがぶ飲みする様な飲酒癖、あらゆるドラッグに手を出すドラッグ癖は一向に改善されず、大麻所持により何度か逮捕され、服役生活も送る。そのため、出所後はニューヨークでのクラブカードも失い、クラブでは歌えなくなり、コンサート中心の活動を余儀なくされる。
それでもニューヨーク、ウエストコーストへ、彼女の念願だったヨーロッパ・ツアーにも参加して唄い続けていた。1958年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルでは聴衆に罵声を浴びせられ、公演は切り上げられた。この頃には酷使された体は完全に憔悴仕切り、肝硬変、腎不全、心臓などボロボロの状態だった。
最晩年の1958年、ビリーはチェコスロバキア出身のアリスという地質学者と親しくなった。アリスはビリーの面倒をよくみ、ペピの面倒もみた。1959年7月17日、ビリーが亡くなった後、ペピはアリスに引き取られて行った。
ビリーは稀有な才能を持ちながらも、人種差別、性差別、麻薬やアルコールといった自己破壊の悪魔と戦い続け、決して良くなかった男運に加え、人間関係のもつれや喧嘩など、乱れた生活にも拘わらず名声を勝ち得たその裏には背負いきれないほどの苦悩があり、弱く、傷つきやすく孤独だったに違いない。
リナ・ホーンの言うように、そんなビリーを支え続けたのが彼女の唯一信頼できる愛犬ミスターとペピだったのだろう。
後にスタン・ゲッツはこう言っている。「私は、彼女が人生に幾度もつまづいた人にしてはとても強い人だったという事を知っている。彼女と共演した時、彼女の優しさと可愛らしさ以外には何も目に入らなかった。」と。犬は飼い主の鏡と言われる。彼女の愛犬達はさぞ、優しく可愛いく、ビリーを裏切ることもなかっただろう。
ミスターとペピと一緒に写っているビリーはとても美しい。
ビリー・ホリデイは華やかで美しい物が大好きで、その好みは格別に贅沢だったらしい。贅沢な衣装に身を包み、モデルのように振る舞い、ヘアーのセットにも何時間も費やしていた。そしていつも必要以上にアクセサリーを持ち歩き、ホテルの部屋で、念入りに手入れをしていたようだ。
しかし、私はミスターとペピが彼女を一番美しくさせているように思える。
だから、ビリーの愛犬、ミスターとペピが『ビリー・ホリデイの何物にも勝る最高にゴージャスなアクセサリー』と言いたい。
<Strange Flutes : 奇妙な果実>live 1959
*参考文献
・The National Grove Dictionary of Jazz
・Billy’s Blues 『ビリー・ホリディ物語』by John Chilton 新納武正訳
・犬の品種一覧