JAZZ meets 杉田誠一 #114 佐藤秀樹と『Our Jazz』
text by Seiichi Sugita 杉田誠一
佐藤秀樹と出会ったのは、1969年の東大闘争集結(解放砦=安田講堂崩壊)の日に必然的に廃刊となった同人誌『Our Jazz』の同人としてであった。ぼくは、最後の2冊だけしか参加していないが、佐藤秀樹や岡崎正通は、大先輩である。
創刊当時のことは詳しく知らないが、東銀座OLEOの常連によって創刊されたときく。OLEOのママ、松坂比呂は『Our Jazz』に触発されて『ジャズ批評』を創刊する。そういう意味では、同人誌『Our Jazz』の限界を踏まえて商業誌『Jazz』を創刊したのである。
佐藤秀樹は、日本を代表する経済誌の社員でありながらも、外出時は、必ず毎日、マルミ、オザワやハンター、十字屋のエサ箱をあさったという。
1966年7月、ジョン・コルトレーン来日が決定。たまさか、佐藤秀樹とOLEOで話すことがあった。
__ジミー・ギャリソン以外はひとりも知りませんね。
「いや、ファラオ・サンダースは、レコード出してますよ」
__えっ、どこから?
「ESPから、こんどお貸しします」
凄いなあ!フリーもしっかり押さえているのです。
佐藤秀樹は、目白駅前の1軒屋に住んでいた。『Our Jazz』の編集会議は、同人の家で持ち回りであった。目白駅で待ち合わせ、佐藤宅へ。「ちょっと待ってください」と、レコード袋を玄関前のジンチョウゲの中に隠す。「家内に見つかると大変なことになりますから(笑)」。
当時のぼくには、その意味がよく理解できなかった。何せ輸入盤を所有するなんて、夢のまた夢。千円札が1枚あれば、3日は帰宅しないなんて生活の日々だった。(写真の師匠 朝倉俊博宅にはよく泊まりよく飲んだ)
当時は、日本盤のジャズ・レコードなんてほとんどなく、ジャズ喫茶が唯一の情報源であったのだ。だから、輸入盤を集めるなんて夢のまた夢__。同人のなかでそのあこがれの愛好家が佐藤秀樹と岡崎正通であった。ふたりとも口数少なく、原稿を書くことはなかったけれども、岡崎正通はたんたんと完全ディスコグラフィーを創り続けていた。その正確さには、何度も舌を巻いたものです。
そのジャズ愛好会Our Jazzが崩壊するのが、あの解放砦崩壊の日である。
その日、狛江の副島輝人のアパートで編集会議が開かれた。TVがつけっぱなしで東大闘争終焉の様が刻々とリアルタイムで伝わってくる。当時、平岡正明のデビュー作「ジャズ宣言」(『ジャズ批評』創刊号)が鮮烈に受け入れられていた。
ぼく自身は、ジャズとイデオロギーを短絡することは、反対であった。どちらかといえばノン・ポリ/心情左翼。
口火を切ったのは、蒲田で「黒音」というジャズ喫茶を経営していた共産党「詩人会議」のメンバーであった。「せめて、カルチェ・ラタン(お茶ノ水)で、石ぐらいは投げに行くべきである!」
ぼくは、「舗石を剥ぐと、そこは砂浜だった」と知る。
佐藤秀樹=岡崎正通は無言で立ち去り、N光学の組合員らはカルチェ・ラタンへ。
そして、誰もいなくなったアパートの一室で、「杉田クン、ぼくはすぐ追いかけるから、先に行っててくれたまえ」。
結局、副島輝人は来なかったわけで類型的な日和見主義者だと知る。
こうして、『Our Jazz』は廃刊となる。
最後に佐藤秀樹と出会ったのは、『ジャズ批評』編集長、松坂比呂さんを偲ぶ会であった。信じられないほどガリガリ。長らく糖尿病と闘っていると。
佐藤秀樹(1933~2021)さんのご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。