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カンザス・シティの人と音楽 竹村洋子No. 292

カンザスシティの人と音楽 #58 チャーリー・パーカーの愛娘、プリー・パーカーの墓石が語るもの
Charlie Parker’s daughter, Pree Parker’s headstone

Charlie Parker’s daughter, Pree Parker’s headstone
text by Yoko Takemura 竹村洋子
Photos: Used by permission of the University of Missouri-Kansas City Libraries, Dr. Kenneth J. LaBudde Department of Special Collections, Courtesy of Kim Parker

今年5月、UMKC(ミズーリ大学、カンザスシティ校)マーサウンズ・アーカイブスのディレクターで『バード;チャーリー・パーカーの人と音楽』の著者でもあるチャック・ヘディックス氏からメールが届いた。
メールには「言葉を失った!リサーチャーがプリーのお墓の写真を送ってきた。」とあり、プリー・パーカーの墓石の写真が添付してあった。

プリー・パーカーは、正式に婚姻関係にはなかったがチャーリー・パーカー(以下バード)の最後の妻だったチャン・リチャードソンとの間にできた女の子で、生を受けてわずか2年半で亡くなった。

チャンとバードが最初に出会ったのは1943年、バード23才、チャン18才。チャンの友人がバードを家に連れて来た。2人が最初にデートしたのは1945年。バード25才、チャン21才でチャンの21才の誕生日だった。チャンは「52丁目の女王」と呼ばれていた女優でダンサーでもあった。

1950年の初め、バードにはドリスという妻がいたが、バードとチャンは恋愛関係を復活させ、その年の5月にチャンと娘のキム(1946年8月22日生れ)はバードのアパートに引っ越す。
1951年7月17日、バードがカンザスシティでウディ・ハーマン・ビッグバンドと共演していた時にチャンはニューヨークで女の子を産み、その子は『プリー』と名付けられた。プリーは嚢胞性線維症という難病を生まれつき抱えてた病弱な子だった。
バードはキャリアを積み上げていくが、ヘロインの乱用、アルコールの暴飲でチャンの心は次第に離れていく。バードのキャリアが上向いていくのとは裏腹に、私生活は暗礁に乗り上げた。二人はある口論がきっかけで、チャンは子供達を連れて52丁目の母親のアパートに移り住む。

プリーは1954年3月6日、土曜の夜に亡くなった。
翌朝、娘の死を知ったバードは、ブランデー・アレクサンダーを何杯も飲み、意識が朦朧とした状態で、チャンに意味不明の電報を何通か送っている。その電報はチャンをより気分悪くさせたという。
葬儀の間、岩のようにじっと立っていたバードは、プリーが生まれた時も、死んだ時もそばにいなかったという罪悪感に苛まれ、膝から崩れ落ちた。

プリーの眠る墓地はニューヨーク州北部 のマウント・ホープ・セメタリーという墓地にある。(Mount Hope Cemetery, Hastings-on-Hudson, Westchester County, New York, USA: Section 76 Lot 2 Grave 103)

バードとチャンはユダヤ人だったチャンの父親が眠っているこの墓地にプリーを埋葬したが、その区域はユダヤ人区域ではなく、黒人区域だったことを後になって知った。

ヘディックスはこうも言っていた。「チャンはプリーを父親の隣に埋めたかった。 残念ながら、墓地は人種差別で隔離されていたので、彼らはアフリカ系アメリカ人のセクションの見知らぬ人の隣にプリーを埋葬した。 墓石に正確な生年月日や死亡日がないのは奇妙なことなんだ。 石に装飾が全くないのも寂しく悲しい。バードとチャンはプリーを失うことで取り乱したと確信している。 通常、カップルが子供を失なった時、彼らは小さな天使やハートで墓石を飾る。 そして必ず子供の生年月日と死亡日を墓石に刻む。」

何の飾りもない質素な墓石は、バードとチャンの間の冷え切った関係を映し出しているようにも感じられる。
今年の8月29日にバードは102才の誕生日を迎える。天国でプリー、プリーの弟のベアード、チャンはじめ、家族の皆と楽しい誕生日を楽しく祝っていることを切に願う。

尚、プリーについての話は2015年にヘディックス氏と筆者がカンザスシティを訪れた際に行った、バードの義娘のキム・パーカーのインタビューでさらに詳しく知ることができる。
バードの誕生日にあたって、ちょっと寂しい内容のコラムになってしまったが、バードが如何に家庭的な人であったか、インタービューから推察できる。改めて、読者の皆さんに読んで頂きたい次第である。

また、キム・パーカーの厚意により、2015年に見せてもらったチャンの日記に数ページ追加して公開しても良い、とのことで3ページ分を掲載する。1954年~1955年に書かれたキムとバードとの様子が垣間見られる。

*キム・パーカー・インタビュー:2015年8月
https://jazztokyo.org/interviews/48-キム・パーカー%E3%80%80インタビュー/

*参考資料
・『バード;チャーリー・パーカーの人と音楽』チャック・ヘディックス著、川嶋文丸訳
より一部引用

●チャンの日記の写真は非常にプライベートなものであるため、無断転用は堅くお断りします。

竹村洋子

竹村 洋子 Yoko Takemura 桑沢デザイン専修学校卒業後、ファッション・マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー~モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。Kansas City Jazz Ambassador 誌『JAM』に2016年から不定期に寄稿。

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