常見登志夫 私の撮った1枚 #4「日野皓正&菊地雅章」
photo & text by Toshio Tsunemi 常見登志夫
日野皓正(tp)~菊地雅章(p)@岩本町“Tokyo TUC”
2006年9月13日(水)
2006年9月、菊地雅章(p)がニューヨークから久しぶりに帰国(来日?)し、ピアノ・ソロ・コンサート・ツアーを行った(7日(木)、8日(金)が代々木NARUの開店40周年、13日(水)、14日(木)が岩本町のTokyo TUC)。13日(水)のみ、日野皓正(tp)とのデュオで、翌14日(木)のソロにも足を運ぶと言っていた菊地の熱烈なファンもいた。翌春にECMから菊地のソロ・ピアノ作品がリリースされるというニュースが流れたころで、菊地のソロ・ツアーも大きなニュースだった(記事はスイングジャーナルに掲載)。
Tokyo TUCのあった岩本町はもともとアパレルメーカーが多く集まる問屋街で(TUCは東京ユニフォームセンターの略である)、秋葉原からも歩ける都心だが、夜は人の流れがほとんどなくなる街だった。そんな岩本町にギャラリーやライブハウスが増え始めたのが1990年代だったと記憶している。雨が降る中、多くのファンが店の前に並んでいた。
店内には当時の日野皓正クインテットのメンバーが後方の席(私のすぐ横)に座っていた。
1曲目は菊地のピアノ・ソロ。とても美しいのだが、うなり声を上げながら頭を鍵盤に押し付けるように、一音一音ゆっくりと弾いていた(バラードだった)。2曲目もピアノ・ソロ。足踏みをしながら叩きつけるような演奏(ブルース)。日野が3曲目で加わった。ピアノの横を手で叩いたり、マウスピースを外して、ピアノの弦を弾いたり。外したミュートを手で叩いたりもした(メモには、「ピアノに頭を突っ込んで強くブローし、残響を楽しむ」とか「トレモロの後、つんざくようなハイトーン」とかも)。
日野クインテットのメンバーである井上功一(ds)に「何の曲だか分かります?」と尋ねたところ、「分からない。完全なフリーだね」。〈ラウンド・ミッドナイト〉〈オレオ〉あたりでテーマは分かったが、その後もぴーんとした空気が張りつめたままだった。2部の終盤、「最後に何やる?」という会話が聞こえた。それまで二人の会話はほとんどなかった。曲を決めて始めたのもこれが初めてだった(〈黒いオルフェ〉)。
演奏中、すぐ横にいた石井彰(p)が僕に話しかけたのか、独り言だったか分からないが、菊地のピアノを「魂を削っているようだ」と言った。本当にそう思えた。
問題は写真撮影で、この店はステージも客席も暗いことが多かった。その数年前の、大柄だったランディ・ウエストン(p)の撮影時(1998年)などは、暗がりからぬうっと現れた姿にびっくりしたものだ。まだフィルムの時代で、ASA800のモノクロームのネガを使い、ISO3200で撮影、増感した(ノイズが乗りまくっていたけれど、かなりいいと褒められた)。暗くてもそういう工夫ができた。
この日はすでに当たり前になりつつあったキヤノンの安価なデジタル(EOS)だが、ISOは1600までしかなく、ズームレンズで暗かった。ステージは暗いからシャッタースピードをかなり落とした(1/10秒とか1/8秒だったと思う)。当然、ブレまくり。ISOを上げているのでノイズも出ている。まだ電子シャッター(シャッター音が消せる)などないころで、サイレンサーも使っていなかった。
スローシャッターだとシャッター音は“カシャ”というより、“ガッシャン”という感じで、張りつめた空気の店内では撮影は気が引けた。店長の田中紳介氏が「ごめんね。うちの方針だから」と詫びてくれたが、撮影は早々に切り上げた。田中さんには「写真の掲載は諦めました」と伝えた。
終演後、田中さんから「ちょっと2階(楽屋)に来て」と呼ばれてエレベーターで2階(楽屋)に上がった。ステージの取材なのでプライベートな場所(楽屋)に入ることは遠慮することにしている。田中さんがお二人に事情を話して、撮影させてもらえたのが、楽屋でのリラックスした様子である。余談だが、田中さんは菊地や日野とは旧知の仲どころか、立教大学時代にはバリトン・サックスを演奏しており、ライオネル・ハンプトン楽団が米軍慰問で極東を周る際には菊地とともに参加。沖縄や韓国、フィリピンなど約2ヶ月も一緒に過ごしていたそうだ。
田中さんには、「取材だから、仕事だからと撮影し続ける人もたくさんいる中で潔い」と褒められたのだが、きちんとしたステージ写真が撮れず、内心は冷や冷やしていた。そんな心配は杞憂で、SJ編集部でも二人(石井彰(p)も入れれば3人)の楽屋の笑顔の写真はとても好評だった。
実際、楽屋はとても和やかで、みんなが笑顔だった。気難しいと勝手に思い込んでいた、初対面の菊地もとても優しかった。