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GUEST COLUMNNo. 265

ウィルス禍の向こうに見る世界〜社会構造の変動と音楽〜

text by Yoshiaki ONNYK Kinno. 金野ONNYK吉晃

<これは精緻な論考でもないし、主張でもない。ただ、苛立ちを形にしておきたいという欲望と焦燥の果ての、希望だけで書かれた文章だ>

1.ビッグ・ブラザー

スマホに登録された情報で、感染した際に過去二週間の行動範囲、濃厚接触者がわかり、各自に警告することができるソフトが注目されている。これは電話通信を暗号化した情報を基本にしている。確かに感染拡大予防に役立つが、勿論個人情報・プライバシーは侵害される。
感染の有無に関わらずビッグ・ブラザーが個人の行動を把握する。
情報は暗号化され、自治体の担当者以外では操作できないという。
暗号化? 暗号は常に解かれる。
中国や韓国では、実用化され、感染拡大阻止に有効だったとされる。シンガポールでは運用が遅きに失し、感染爆発してしまったようだが。
では、韓国で実施された感染予防とプライバシーのどちらを優先するかというアンケートの答えやいかに。
命を守ってくれるのだから良いことだという意見が圧倒的だったという。つまり国に国民は保護されているからプライバシーが把握されても仕方ないということだ。
結局、中国、韓国など電子マネー、キャッシュレス経済の進展した国は、国民各自を経済的にも社会的にも管理する方向を強化している。経済的な動機より医療、緊急事態の動機のほうが国民の賛同は遥かに強いだろう。
ビッグ・ブラザーは微笑んでいる。
そしてプライバシー侵害をあまり気にしない、仕方ない、良いことだと答えたのは、より若い世代だった。
物心ついた頃からスマホ、ケータイ、ネット、ひいてはキャッシュレスになじんできた層だ。彼らの一部は現実のプライバシーなど重視していないのかもしれない。
実生活より大事にできる世界がある。その世界に存在できることが、より意義深いことなのだ。
SNSでも複数のハンドルネームを使い分け、一見無責任な匿名性の意見を撒き散らす。それは個人のある種の影、仮面なのだ。
人は常にRPGをしている。TPOに応じ、なにかになりきる、ふりをするのが習性だ。ヒトは社会的動物になってこそ「人・間=ニンゲン」なのだ。
もうしばらく前から、ネット上には仮想の世界、コミュニティができ、その世界の住人として、生活し、恋愛し、あるいは旅をしながら戦っている。
そうだ、単純な例はネットゲームのチームだ。オンラインしている時間だけの共感。
振り返れば、味気ないこの世界。いや、それどころではない。連帯感ではなく同調圧力が覆う社会。それはゲゼルシャフトでもゲマインシャフトでもない。
趣味、スポーツなどに耽溺するのと同じく、仮想世界に生き甲斐を見いだす。(ネトゲに耽溺して実生活を顧みなくなった者達の言は興味深かった。「俺が行かないと皆が困るんだ」「皆が俺を待ってる」と。)


2.マトリックスとアヴァター

現実のプライバシーなど何程でもない。ネットで繋がる仲間との付き合いを維持するために、仕方なく現実の労働をする。
もう少し経てば、仮想通貨=暗号資産だけで生活可能だろう。
(仮想通貨の基盤、ブロックチェーンを作ったと言われる日本人が、ファイル共有ソフト「ウィニー」をつくった<47氏>と同一人物ではないかと推測されたのも分かる。しかし正反対の性質を持つ技術なので真偽は不明だ)
ウィルス感染を防ぐために他人に接触しない。部屋から出ずに生活は全て完結する。人間は現実界でヒト(今西錦司のいう単独生活者)になってしまう。そしてウェブ社会で再びニンゲンになる。

しかし食事、消耗品、洗濯、ゴミ処理等、現実の生活において、どうしても現実的、物理的な関わりを持たなければならない必要は残る。それもいずれロボットが担うだろうか。健康、医療、介護、製造業、建造物管理なども、インフラ、ライフラインもそうなるだろうか。IoTとスマートスピーカーで、もはや動く事さえ不要だ。

こうして、新型コロナウィルスは国家を完全な管理社会へ推進する強い動機となる。不安と恐怖は最も強い動機であり、同調圧力の源である。
国民は積極的に被管理対象としてビッグデータの一部となり、各自の部屋から出ないで過ごす生き方を選ぶようになる。
(人が集まる形でのライブ告知をする奴は非国民だ!)
そして理想社会はシミュレーションの中にうまれる。いや、それはシミュレーションではない。ヴァーチャルでもない、それはオルタナティヴ・リアリティーだ。
(映画「マトリックス」の世界がそれだ。これが唯一の例ではない。「1984」、「REXX」、「THX1138」も同様だった。SFと映画はいつも予言する。)

3.コロニアル

かつての国家間において戦争の果たした役割が、いまこのような形で露出している。どこかの首相もこれは第三次世界大戦であると認識したらしい。
大戦の後には国境線と社会体制が変化するのは当然だ。
しかし、20世紀には二度の大戦であまりにも損失が出たので、焦土を作らない<準戦争事態>が幾つか用意された。
東西冷戦を基盤として核戦争の恐怖は大衆の与り知らぬ所で突発的に始まると言われた事態だった。
温暖化は抗う事のできない地球規模の経年的変動事態として認識された(そして二酸化炭素排出量の取引という形で先進国の優位性を保つ動因となってしまった)。
人口問題は低開発国の爆発的人口増加と先進国の少子高齢化のギャップ、エネルギー消費の不均衡として周知された。
さらに、これに抵抗する原理主義テロリズムは、従来の軍や警察の果たす役割を決定的に変えた。
テロリズムも、温暖化も、人口爆発も、感染も、あるいは放射性物質も、見えにくいが故に、そして誰しもが場所と時間に関わり無く被るという、不安と恐怖による陽動、そしてまた議会制民主主義と党派政治による民衆の扇動。
それは怪しげなカリスマの役目であり、使い古されたシナリオだ。
疫病という世界大戦にもまた勝者は無い。支配者ではなく管理システムが独裁、勝利する。

21世紀はその最初の20年で人類の終焉を、あるいは終焉の始まり、世界構造の変動へ向けて大きく舵を取った。
その舵手なのか舵輪なのか、其の役目は一世紀前にはスペイン風邪であり、今回は新型コロナウィルスが担ったというべきなのか。
今世紀の終わりには民主主義も人道主義も貨幣経済も消え、不可知な知能が生産と消費と生命のバランスを決めているだろう。それはもはや資本主義でさえないだろう。

私が嘆いたところで何が変わろうか。
先ほど、見えないものによって我々は支配されると書いた。
では音楽はどうか。それは見えない。だから人の心にしみ込む。善くも悪くも。そしてそれはいつも記憶の中にあり、あるいはわき出してくる。

4.対称性、揺り返し、補完性

私は世界の、「対称性と、その乱れ・ゆらぎ」に注目する。そしてまた、世界の事象が、対発生/対消滅というパリティであることを信じる。さらにまた、これを信じるならば、ある事象は常に相反的な揺れ、ゆらぎによって波動となっていることを認める。
例えば音響は、空気の振動であるが、大音響は波形から見れば振幅の幅が大きい事だ。それは一方的ではなく必ず反対方向にも同じだけの振れを持つ。持続してエネルギーが与えられない限り、波動は連続しながら次第に振幅は小さくなり、消える。これもひとつの対称性である。
政治も、帝政を倒し、民主主義が高まり一気に独裁、軍事ファシズムに走る。そしてまた過剰な程の民主主義へと振り子は揺り返す。これは歴史が教えることだ。
これらを同一に見るのが戯言だというなら、この文章は読み捨てて良い。

もし物理現象と社会が異なるというなら、付け加えておきたいのは、常に反対側の勢力は皆無にならず、相補的、補完的な勢力であるという事だ。

音楽も、あるとき理論的に(あるいは技術的に)段階をあがっていく。
ピタゴラスが「天界の運動」は弦の振動と同じく調和関係にある音楽だと言い、ノートルダム楽派がオルガヌムを理論的に発展させ、新ウィーン楽派が12音主義を生み、電子音楽、ミュージック・コンクレートが到来し、シンセサイザーとコンピュータが民生化して、といった具合だ。
しかし其の一方では必ず、民衆的、土着的、部族的、儀礼的な音楽のエトス、パトスがそれらの陰にあって、支え合う。
その典型をジャズの歴史に見る事が出来るだろう。

 

5.物語と時間

ところで、技術的発達の先に生まれたのがハウスミュージックだった。それは実に単純にリズムボックスと二台のターンテーブルとミキサーで生まれた、クラブ毎のダンス音楽だった。それは発展して遂にヴェイパーウェイヴと呼ばれるスタイルになった。この音楽はクラブのような現実の空間ではなく、ネット上のヴァーチャルな社会の住民のパーティ音楽だ。それはパソコンの前に座っているヒトの、ウェブ内のアヴァター達である。
ヴェイパーウェイヴの隆盛は終わったともいうが、だからこそ「あれはなんだったのか」と問える。それは70〜80年代のポップスのサンプリングだけを素材とした、極めて愉悦的な響きの音楽である。新しさとノスタルジアの同居した、未知の故郷。未来的で人工的で其の逆でもあるパラドキシカルなセンスの横溢。
そんな説明では分からないだろうが、一番近いのはゲーム音楽である。それには終わりも始まりも無い。モチーフはステージをクリアするまで循環する。
ここで思い出すのはもうひとつの「ゲーム音楽」だ。それはジョン・ゾーンの「コブラ」で頂点に達した。複数のジャンルを問わない演奏者が、規則とプロンプターの指示に従い進行する、集団即興としてもひとつの極点ではないだろうか。この音楽には終わりが無いとも言える。
ゲームであればゴールがあるだろう。全てのステージをクリアするという快感を得るのが動機となろう。
「コブラ」は厳密な管理者のもとにあり、終りのない密教修行のようなものだ。それは秘事口伝たるカバラーに近い。

終わりの無い、というのは聴衆側からの印象である。12音主義者が気づいたことも同じだった。原則を厳守すれば、結局どの曲も同じ印象になってしまうのである。よほど音列、その反転や逆行に注意していればこそ、構造が分かろうが、それは果たして音楽を鑑賞していると言えるのか。

ケージもまた、音楽とは音の出し方の規則だと言った。
しかし音楽とは、ゲームでも規則でもないだろう。
ゾーンもまたそれに気づいた。だから彼はユダヤ的なるエトスに回帰した。
そこには物語が必要だったし、それがパトスも生んだ。
マサダとはユダヤ人がローマ帝国に抵抗した「砦」の意味。ローマ軍が遂に突入したとき、女子供をふくめ全員が自死していた。本土決戦の道を選んだかもしれないかつての日本を思い起こさないだろうか。

戦いも物語も終わるように、音楽も「終わる事」が必要なのだ。
(ラ・モンテ・ヤングがこの言葉を聴いたらどう反論するだろう。また「天界の音楽」も永遠ではないだろう)
終わる事、それは時間の形式に依存する
キリスト教的には、世界は最後の審判へ向かう直線的時間が想定されている。あるいは大乗仏教でも弥勒菩薩の下生までの時間(五十六億七千万年!)を想定している。
ヒンズー教的には、世界は大きな周期で循環し、そのタイムスパンをカリ・ユガという。今あるものは過去にもあった、という訳である。
「スターウォーズ」や「スタートレック」といった映画作品にも、循環的時間観念が反映しているのを感じる。
存在は時間によって計られ、存在が無ければ時間もまた無い。

もし、「終わりの無い映画のディスク」があれば貴方は見るだろうか。技術的には可能だろう。有限サンプルの無限の組み合わせ。これは言語や音楽や数字にも匹敵する。そしてAIの得意とする所だ。
AIはツールだという。ではAIの美空ひばりが語るのは誰の何のためのツールなのか。
さあバードでも、コルトレーンでも、ベイリーでも、コニッツでも作ってくれ。皆が喜ぶだろう。ミュージシャンは死んでも音楽は死なないよね、と。

 

6.対位法

ウィルス禍のため、人の集まる会場が使えなくなったミュージシャン達は一斉に、自宅などからライヴ動画を配信開始した。当然の選択だったのだ。あたかも魚達が漁網に追い込まれるように、そこに至った。民を網する、とはこういうことではないのか。

ヴェイパーウェイヴと化したジャズを、即興を、私は聴かない。終わったものは終わったままにしておきたい。
私はその対称の位置に生まれる、泥まみれな、素朴なものを俟つ。
私は、焼け野原となった地に芽吹くものを聴くだろう。それがどんな音楽なのか。育ててみないと、花が咲かないとわからない。

(終わり?2020年4月20日)

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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