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GUEST COLUMNNo. 304

邦楽のパースペクティヴ<前編> 金野ONNYK吉晃

0. ブンメイカイカ
脚下照顧とか、灯台下暗しといった言葉は、昔から散々聴かされていたのだが、なかなか実感が伴わない。我々の現状の音楽文化(そういう言い方を許されるとして)は、明らかに明治維新以降の、海外文化流入、あるいは受容の影響化に変容してきたことは明らかで、細川周平が、新たなライフワークに傾注する前に『近代日本の音楽百年 黒船から終戦まで(全4巻)』(2020年)によって分析と展望をまとめあげたのは理解できる。
そしてここでまた思い出さなければならないのは明治政府が設置した「音楽取調掛」である。これが官製の洋楽関門であり、また邦楽の将来を決定づけた。

伊沢修二:還暦記念写真 1911

1879年(明治12年)10月7日に明治新政府は、音楽教育の調査と研究のため、「音楽取調掛」を開設した。1878年まで3年間アメリカに留学していた伊沢修二(1851〜1917)がその御用掛となり、1881年10月26日音楽取調掛長の任に付いた(88〜91年、後に東京音楽学校校長)。
伊沢は童謡や唱歌を用いた教育をしていたというのが興味深い。あまりにも特定の音楽を愛好していれば、かなり偏向してしまったかもしれない。いずれこれは国策と関係する。
彼は即時に「音楽取調ニ付見込書」を提出し、東西両洋の音楽を折衷して唱歌を中心に音楽教員養成カリキュラムを作成する方針を決定した。このとき、彼は教材制作のためアメリカから恩師の音楽教育学者L. W. Masonを招いている。
政府内には、日本の音楽教育について三つの案があった。1)西洋音楽を日本に移植してそれのみを教育する、2)日本固有の音楽を育成発展させる、3)西洋音楽と東洋音楽の折衷 ということになる。
伊沢は、3の折衷案をとり、その実現のため、イ)東西の音楽を折衷した新曲の作曲、ロ)将来の国楽(国民音楽)を興すべき人物を育成するための教育、ハ)諸学校に音楽を実施し、その適否を確かめるための実験、を指導した。
そのため日本音楽、すなわち雅楽、俗楽(三曲合奏、地唄など、雅楽以外の殆ど)、清楽(中国由来の音楽)の調査研究を行い、それらをすべて五線譜に採譜すべきものとした。
この目的は「西洋音楽の直輸入により劣った日本音楽が一掃される」のを危惧し、音楽において日本と西洋では優劣がないことを証明することにあったといわれる。
(このパラグラフではウィキペディアの「音楽取調掛」の記述を一部引用、追加、改変)

録音という技術が無い時代、音楽の記録は記憶に頼るのでなければ、各文化に伝承された記譜法に依存していた。或る意味では語り部〜talking bookである。しかし脱亜入欧をモットーとする新政府では、日本音楽も五線譜に記載することを疑問に思わなかったのではないか。大体にして当初は各文化の音楽を支える音律に違いがあることを意識していなかったであろう。そして西欧式の記譜で保存・伝達・表現できる音楽である事で日本音楽を西欧並みに引き上げたいという意志があったに違いない。逆に言えば日本音楽が西欧の記譜に馴染まないとすれば、その事が「劣った音楽」の証左と考えたかもしれない。
また、江戸期までの日本音楽に和声の概念が無い事は大きな特徴である。というより西欧圏以外の伝統的音楽文化に和声の観念はほとんどなかった。五線譜の記譜と和声の欠如は、克服すべき弱点と思えたかもしれない。
西欧文化が全ての点で優越しているという意識こそ明治政府の施政方針の基盤であったのは誰もが知る所だ。西欧並みであろうとすること、すなわち現状での劣等感と、日本の独自性の確立という葛藤がみられる。

武田忠一郎

1. 記譜と和声
武田忠一郎は市井の音楽家、音楽学者である。明治25(1892)年、岩手に生まれ、県下各地で教員生活を送った後、東洋音楽学校(現在の東洋音楽大学)に入学、東北民謡とわらべ唄の研究を開始、帰省後、岩手各地の女学校で教鞭をとるかたわら、全く経済的援助なく東北各地を訪ねて民謡採譜の仕事を続けた。この有り様は「東北民謡の父 武田忠一郎伝―東西音楽の架橋」(黒沢勉著、1996、信山舎出版)に詳しい。日本音楽の五線譜への記譜。勿論それは不可能とは言わないが、音律が異なる以上、かなり困難である。
バイオリンの名手だった武田は、微妙なピッチのずれを無段階で出せる弦楽器の有利によって記譜に成功し、また自作の多種の音律の笛を持参して日本民謡を把握していた。深山、漁村、寒村まで徒歩で分け入って、地元の歌い手と親密になり、酒を酌み交わしながらご機嫌を取ってなんとか歌ってもらい、という仕事に、教員勤務の休日を費やした。第二次大戦後は電気が通った事も手伝って、テープレコーダーも用いているが、その重さ、大きさを考えればバイオリンと笛のほうがまだしもと思えるほどだ。
いずれ武田は一万曲以上の東北民謡を記譜した。さらに新たな民謡を作曲、オーケストラ伴奏を付けるなどの工夫もし、レコードにも吹き込んだ。また。日本初の民謡学校を創設したことも特記すべきだろう。まさに彼は伊沢の設定したイ〜ハの目標を一人で達成したのである。

西欧楽理システムで記述できる、その音声構造だけを抽出しようというのは、ある種の還元主義である。武田らの努力は、ピッチ、音価を可視化した「五線譜」という空間の中に日本人の聴覚を記載することが可能になっただろうか。
従来の伝承方式(家元制度、厳密な記号化に依存しない口承)を排し、記譜された「曲」、あるいは逆転写され先行した「作曲」の記譜、それらの演奏=再演は、日本音楽を西欧音楽と同等の立場に置くべく、あたかも自然科学・応用技術分野で先進思想・技術を導入したように、人文社会科学でも陰陽五行説、儒教に依存しない、合理的な芸術の発展を促した(はなから仏教や神道は説明原理にはならない)。
伝統音楽、すなわち雅楽、俗楽、清楽、民謡までを、記譜という方法で西欧音楽的視点から相対化することをまがりなりにも得た。また文化という意味では精神的な基盤が重要だが、それは国家的宗教を必要とする。それだけはキリスト教を導入する事なく、新たな国家神道の創出によって、またそれ故に中途半端な脱亜入欧を果たしたと言える。
歴史に「もし」はないが、仮に、ここで国家的宗教としてキリスト教を導入したなら、それは国民国家生成への妨げになるのは目に見えている。つまり宗教的権威が信者の精神を統べるようになれば、天皇親政の国民支配と早晩衝突する事は明らかだろう。
新政府は国語を作り、暦を改め、度量衡と貨幣制度を統一化し、税制を定めた。国民生活への徹底的な変革は、当然精神的支配にも及ばなければならない。議会と議員内閣の無い段階、政治的、法的支配の中枢が天皇を中心としたシステム(天皇親政)では、仏教やキリスト教を別の権威として認可する訳にはいかない。世俗王権と宗教的権威の相克は西欧史を知ればわかることで、西欧ではようやく市民社会で世俗権力とブルジョワジーが優位となり、産業革命・資本主義の台頭を招いたのである。それは新政府の中枢にはよくわかっていただろう。

前述の「中途半端さ」は日本の他文化受容の特徴でもある。どこまでも完全に目標と合致し得ない状態、つまり完全性、合理性への諦観がどこかに漂い、いつの間にか変質したその差異が独自の情緒〜感情表現となる。それはモットーとして言われた「和魂洋才」に象徴されるかもしれない。言い方を変えれば超克されるべき前近代としての「日本の陰」と、建設されるべき現代の「日本の影」のジレンマであるが、国際人たらんとして、日本人の本性を失うまいとする拮抗関係であった。そしてそれは昭和に突入してファシズムに吸収されていく。
さて、新たな音楽文化の創出、日本独自の作曲作品の生成という前述の3)のイ)乃至2)も含めた目標達成において、大きな基盤の欠落がある。
西欧楽理の発展してきた基盤、ヘレニズム(ギリシャ、ローマ文化の融合)、ヘブライズム、ことにカソリックのキリスト教精神を否定とは言わぬまでも等閑視したことである。宗教としてではなくとも、記譜のなかに既に浸透している。例えば階名、ド・レ・ミ・ファ…はヨハネ福音書の段落毎の最初の音からとっていることは言うまでもない。

西欧音楽の精神的基盤を等閑視して、楽理だけを取り込んだ結果、日本音楽は奇妙な洋風建築を打ち立てる。日本のアカデミックな作曲達はこの歪みを解消すべく漸進してきたといえよう。近松敏文「日本的和声論批判(関西学院大学修士論文)」1987)によれば、まさに日本音楽の刷新を発展を目指した音楽家達の脳裏にあったのは「音楽の理論化とはつねに和声化のことであり、それが日本音楽を西欧音楽と対等にする唯一の方法である」という観念だった。しかし日本民謡に和声を付して西欧楽器アンサンブルで演奏させたとき、そこにもはや民謡はない。これはコダーイやバルトークなどの作品が民謡素材から発展しても全く異なるレベルに達している例を見ても分かる。
この観点からすれば、日本のみならず、どこの地域の単旋律民謡についても西欧的な和声やら拍節を付すことで換骨奪胎、あるいは文化的搾取の構図が出来る。近松は戸田邦雄と小島美子の書より、その見解を引いて、「日本的和声学」に固執した三人の作曲家の方法論を丁寧に批判している(日本の音楽教育がいかに和声学に腐心して来たかについては森田信一、松本 清「日本における和声理論教育の歴史 」音楽教育学会誌、2008に詳しい)

我々が洋館と呼ばれる洋風建築を見る時の面白さ、それは違和感でもあるのだが(勿論欧米に洋館はない)、それは日常生活に形式と理念を無理に適合させた結果である。しかし家の中でも靴を脱がない生活を、我々は終に達し得なかった。
既に我々がその生活様式を中途半端と感じないとすれば、まさにそれは明治政府の思惑が成功し、我々の精神がひとつの鋳型に収まったということではないだろうか。違和感、ずれ、不一致、これらの解消に向かって、調和、いや解決を求めて精神は活動するだろう。機能和声理論のように。
宮城道雄、滝廉太郎、山田耕筰らの活躍は、こうした背景を認識して再考すべきである。

2. 音楽産業・メディア・演歌・労働歌
またここで無視できない要素がある。
一つは音楽が、上演コンテクストを離れて聴覚だけの芸術にみなされる事で、演奏の現場だけで消えてしまう音響ではなく、電波に乗り、音盤に記録され、メディア産業の重要な商品、大衆の嗜好品となったことである。
この「複製技術時代の音楽」についてはもう十分に語られてきたが、それはアカデミックな領域(洋楽、邦楽問わず)だけでなく、ポピュラー音楽でこそ拡充した。西欧クラシックを中心にレコードはブームとなり、大衆的な日本音楽(小唄、端唄、長唄、浄瑠璃等、また音頭、民謡、演歌、他に芸妓の三味線や歌もある)が蓄音機から流れ出した。
さらに、音律や記譜法の折衷や日本的和声といった構造上の問題だけには還元できない問題がある。
それは、日本語と音曲の関連性である。江戸期まで、日本の各地域は相当に隔たった口語を用いていた。明治期に「標準語」「国語」といった新規格の共通語が創成されても、その発音は各地域で差があったし、現在でもそうである。しかしそれでも新たな共通語によって国語と音楽教育が始まり、文学でも言文一致が潮流となった。ここで伊沢が歌唱を教育していたことを想起すべきだろう。
それでも弧状列島全体の日本人の固有の発声、イントネーション、アクセントなどは、従来の歌謡、労働歌、祭礼の歌い上げのなかに残った。この問題に関しては小倉朗「日本の耳」(1977年、岩波新書)に、具体的な分析がある。
新しい日本の歌曲の作曲は、こうした日常の言語パフォーマンスと合致しないでは普及する事はできなかっただろう。しかし時代は下り、1970年代からの歌謡曲、フォーク、ニューミュージック、具体的には陽水、ユーミン、サザンなどの歌詞と旋律の不一致について戦前世代の作曲家達が驚き、「日本語を破壊している」と嫌悪したことは記憶に新しい。さて、我々の言語はいま、破壊された跡なのだろうか。

明治維新により、日本には「芸術」という観念が生まれた。欧米の技術・科学・法治の他に宗教、哲学、思想、そして芸術が流入し、あらゆるジャンルに影響は及び、その作品や上演は全て「表現」ということになった。
美術や文芸、そして音楽など芸術運動は明治期に勃興した。それは「日本という土地」の発見だった(Discover Japan!、日本列島改造!)。日本人の表現は近代化、自由主義、自然主義など海外の影響を受け、遂に大正モダニズムに至り、ファシズムまたは社会主義に分岐して行く。
また日本社会の近代化は、家族、生活者としての精神的紐帯を希薄にしていく個人主義化であったとも言える。書生、学生、壮士ら、後には高等遊民、モボ、モガ、女給、職工などの独立した青年層は、都市部で賃金労働者となり、合流、離反を繰り返しながら、彼等の自己表現に合致する新しい芸術を模索した。江戸期までの身分制度に代わり、ブルジョワジーとプロレタリアートの分化、あるいはエリート層と被搾取者層の階層化ともいえよう。

近代化以前の社会を内在させた邦楽は、内部から変化して行くモメントを欠如し、そのシステムも教授法も享受する層や機会も旧態依然としたままであった。また流派意識の強い純邦楽はレコードという商品にはそぐわなかった(雅楽や三曲=三味線、箏、尺八の合奏、は日本最初の録音シリーズに既に収録されてはいる)。

宮城道雄

しかしここで天才が現れる。箏奏者、作曲家の宮城道雄(1894〜1956)である。
宮城こそは箏曲のモリコーネとも言える存在だ。当初生田流に入門したが、若くして箏の新曲を創作する事を志し、作曲家、評論家らに広く支持されて、洋楽と邦楽のフュージョンを目指した。またラジオ、レコードなどのメディアがその演奏を取り上げたことも大きい。海外の演奏家との共演、箏曲の五線譜記譜、後進の指導、多数の劇音楽・映画音楽の作曲、十七絃、八十絃、短琴、大胡弓など新しい邦楽器の開発も特筆すべき業績である。宮城は七歳での失明以来、私生活での数多くの浮沈辛苦にめげず、日本を代表する音楽家として邦楽の世界を海外に紹介し、また同時代の西欧音楽のエッセンスを吸収した表現を浸透させた。彼の『春の海』(1929年、昭和4年)は、我々が「琴の音色」と言われたときに真っ先に連想する音楽ではある。
宮城もまた、音楽取調掛の目標を体現したと言えようか。

ところで「演歌」の源流をご存知だろうか。その初源は明治期の自由民権運動に関わる。藩閥政府に反発する公開演説会に対する当局の監視が強くなった時、圧力をかわすために、また街頭で広宣するための、政治風刺の歌として「演説歌」が生まれた。これが演歌である。その代表となったのは「オッペケペー節」で知られる川上音二郎らであった。
議会開設と政党政治がまがりなりにも生まれ、当初の壮士の活動が減衰した頃、演歌は紅灯の恋愛悲哀を歌う「艶歌」に変容した。より情感を誘うバイオリンでの伴奏が導入され、昭和初期にレコード歌謡の市場が発展すると、演歌師は盛り場で「流し」をして生計を立てるようになる。

大正末期から昭和にかけて一世を風靡した大ヒット歌謡に「籠の鳥」がある。 作曲者は天才的演歌師と呼ばれた鳥取春陽(1900〜1932)。岩手県の沿岸部の出身である。彼は添田唖蝉坊門下のバイオリンの弾き語りをしながら全国を回る演歌師だったが、この作品がレコード会社の目にとまり、大正11年(1922)にレコード化された。大正13年(1924)に大阪の映画会社・帝国キネマ演芸が悲恋物語『籠の鳥』として映画化すると、その爆発的な流行は、社会問題となり歌唱禁止運動まで起こったという。
多数のレコード会社に引く手数多の状態で、多くの流行小唄を発表、新小唄、新民謡を作曲した。また、演歌とジャズのリズムを融合させた「望郷の唄」「浜辺の唄」で新機軸を打ち出したが翌年31歳の生涯を終えた。アカデミックな途ではなく、また古来の邦楽からでもなく、街頭演歌師の立場から洋楽を取り込んだ民衆歌謡を創作したという意味では彼の存在も忘れられない。

荒木 栄

また、演歌師が忘れ去った政治そして労働の世界にも一人の作曲家が立ち上がった。福岡県出身の労働者、荒木 栄(1924〜1962)である。
戦後日本を揺るがした炭鉱労使紛争、三井三池争議に参加し、その前後を通じて労働者を励ます歌を多数作り、愛唱された。代表作に「がんばろう」、「この勝利ひびけとどろけ」、「沖縄を返せ」などがある。
彼の作曲はいわゆるヨナ抜き音階を主体としており、極めて覚えやすく歌いやすい。素直に、ある種の日本独自の言語旋律の感性を隠さない。また民衆の心情に合致するもので、いわばビクトル・ハラ、セルジオ・オルテガにも近く、ハンス・アイスラー、クルト・ヴァイルの遠いエコーとも言えよう。ちなみに彼は23歳で洗礼を受け、34歳で日本共産党に入党している。
21歳に復員した時点での心情を短歌に詠んでいるが、後に宮沢賢治や啄木の影響も認められる。28歳から「うたごえ運動」を起こし、昭和30年前後には全国的な盛り上がりを見せた。共産党主導の全国大会ではソ連から第一線の歌手や音楽家を招いて最盛期を迎えた記録フィルムが残っている。おりしも世界初の人工衛星スプートニクが成功し、ソ連は世界最高水準の国家たらんとしていた。
62年、荒木は三池争議を描いた構成劇「不知火」をまとめ九州各地で公演。また板付基地問題より反基地運動に関わる。
荒木のように労働運動、キリスト教、共産主義、反戦(反米軍)運動という、草の根社会主義音楽家があったことも記憶されるべきだろう。彼の亡くなった米の山病院では毎年、荒木栄記念祭が開かれている。

古来からの形式に依存した邦楽だけが、日本独自の音楽を形成した訳ではない。その例として鳥取と荒木を取り上げてみた。それを邦楽というかどうかは別として。
しかしまた音楽産業の商品としてでもなく、いわば草の根、共同体、地域に根付いた邦楽=日本音楽のあり方としてさらに集団的な「邦楽」も存在する。
後編ではその現在形を紹介したい。(続く)

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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