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特集『私のジャズ事始』

フリンジとジョージ・ガゾーン ヒロ・ホンシュク

ピアノを強要されたのが3歳。ピアノから逃れるためにフルートを始めたのが10歳。しかしフルートでは友達に白い目で見られるだけだった。小学5年の時のクラス・メイトに伊藤くんというカッコいいヤツがいた。彼はフォーク・ギターを掻き鳴らし、ビートルズを歌って女子に大人気だった。その中に憧れの彼女もいた。そんなくだらないことが原因でいまだにビートルズを聴かない。たまに耳にすると「やっぱりすごい」ということになるのだが、結局1枚のアルバムも所有していない。小学校の当時は伊藤くんに対抗してサイモンとガーファンクルを聴いたものだ。フルートよりもっと見た目に良い楽器を始めなくては、と思っていた時に、友達のお兄さんがベースをくれた。皮肉にもバイオリン・ベースだった。

そのお兄さんはジャズ好きで、ベースを貰いに行った時にレコードを大音量でしこたま聴かさせられた。まずはチャーリー・パーカーの『Now’s the Time』。クラシック音楽の家庭で育った耳にはジャズは騒音以外の何ものでもなかった。あの苦痛はいまだに忘れられない。次はビル・エヴァンスの『Bill Evans at the Montreux Jazz Festival』。さすがにベースを貰いに行った日だったので、このアルバムのベース演奏がやけに耳に残った。あまりにも印象が強かったので、十数年後にこのアルバムを再び聴いた時に、あっ!あの時のアルバムだ!とすぐに認識したほどであった。その時初めてエディ・ゴメスだったと知った。

中学の時にベースを手に入れ、鎌倉光明寺の住職の息子をドラムに迎えて「光明寺ブルースバンド」を設立し、横須賀の米軍基地や神奈川テレビなどに出演した。へそ曲がりであったためB.B.キングは聴かず、バディ・ガイをアイドルとし、ブラインド・レモン・ジェファーソン、ライトニング・ホプキンスなどをコピーして演奏していた。10歳から始めたフルートのレッスンは秘密に続けていた、その理由は自分でもよくわからない。単に皆勤賞好きなのだと思う。結局大学はフルート科に入学したが、作曲の勉強の方が楽しかった。

大学を卒業すると運よく横須賀米軍基地で、軍人ではなく一般職員相手の趣味としての音楽の先生の職を得て、それがきっかけでアメリカに来た。音楽を特に勉強したかった訳ではなく、VISAを得るために学生になろうとオーディションを受けたら運良く奨学金が出たというだけの理由だった。良い時代だった。ニュー・イングランド音楽院の修士課程が始まるのが9月。基地での生徒たちは私の英語の稚拙さをよく承知していたので、1月にバークリー音楽院に行って英語に慣れた方が良いと助言。バークリーの方は全額奨学金が出て、1987年1月7日にボストンに着いた。まず住むところを探さなくてはならない。危ない地域にある安いYMCAに逗留してアパート探しだ。何せ9ヶ月分の生活費しか持っていなかったので、安いアパートを探すのに必死だった。ようやっと見つかったのが、ドルチェスターのドラッグ・コーナーと呼ばれるヤクの売人が集まるところにある、5人のミュージシャンがシェアしている一軒家だった。家賃は1ヶ月$160(当時2万4千円相当)と破格。当時のバークリーの学生の平均家賃は$800(当時12万円)前後だった時代だ。危ない地域だったので暗くなったら歩いて外に出るなと注意されたが、到着してすぐに車を手に入れていた。昔NYCに1年住んでいたことがある祖母の知人の知人が、処分するつもりだった車をビール6本で譲ってくれたのである。当時の運の良さに関する話は1冊本が書けるほど色々ある。さて、このシェア・ハウスの住人はドラムのマーク、サックスのダリル、キーボードのケニース、もう一人ドラムのグレッグ、地下で毎晩セッションだった。ドラムが二人なのにベースがいないのがなかなかチャレンジングだった。しかもこちらはジャズのジャの字も知らないのだからいい加減なインプロでグルーヴもへったくれもない。みんなよく付き合ってくれたものだ。

入居して1週間後、マークが「フリンジ見に行くぞ。おまえも来い。おれは帰りに彼女のところに行くから、自分の車で行ってくれ。」って、まだボストン市内も運転したことがないというのに、だ。出不精であるので行きたくなかったが、絶対見ろと言われて断れなかった。そしてこの夜が私の人生の本当の意味での第一日目となった。毎週月曜にウィロウ・ジャズクラブに出演していたフリンジ(The Fringe)は、クラブの電気を落とし、真っ暗の中で完璧にフリージャズだったが、そのグルーヴのすごいこと。サックスのジョージ・ガゾーン(George Garzone)のグルーヴ感に顎落ち状態だった。どんなフリーの中でも全くグルーヴをミスらない。それを見て、「私はガゾーンになりたい」と決心し、ガゾーンのギグの追っかけをしてガゾーンをフルートでコピーしまくった。そんなある日、ガゾーンがトップ・オブ・ザ・ハブでギグをしていた時、「ヒロ、おれはちょっと調子悪いから帰るけど、あとの代役頼む」と行って任された時の喜びを今でも忘れられない。

翌年自分のビッグ・バンドを立ち上げ、ガゾーンをフィーチャーするという夢を叶えた。それまでコピーしたガゾーン・フレーズで書いたこの曲を是非ご紹介したい。

注:The Fringeはもう52年ものあいだボストンで毎週月曜演奏しているトリオだ。サックスのガゾーン、ベースのJohn Lockwood(ジョン・ロックウッド)、そして2020年に残念ながら急死したドラムのBob Gullotti(ボブ・ガロッティ)。ボブ急死後ガゾーンとロックウッドは別のドラマーをゲストに迎え、今日も毎週月曜のギグを続けている。電気を落としてしまうので映像があまり公開されていないのだが、このYouTube動画では少し雰囲気が伝わると思う。

ヒロ ホンシュク

本宿宏明 Hiroaki Honshuku 東京生まれ、鎌倉育ち。米ボストン在住。日大芸術学部フルート科を卒業。在学中、作曲法も修学。1987年1月ジャズを学ぶためバークリー音大入学、同年9月ニューイングランド音楽学院大学院ジャズ作曲科入学、演奏はデイヴ・ホランドに師事。1991年両校をsumma cum laude等3つの最優秀賞を獲得し同時に卒業。ニューイングランド音楽学院では作曲家ジョージ・ラッセルのアシスタントを務め、後に彼の「リヴィング・タイム・オーケストラ」の正式メンバーに招聘される。NYCを拠点に活動するブラジリアン・ジャズ・バンド「ハシャ・フォーラ」リーダー。『ハシャ・ス・マイルス』や『ハッピー・ファイヤー』などのアルバムが好評。ボストンではブラジル音楽で著名なフルート奏者、城戸夕果と双頭で『Love To Brasil Project』を率い活動中。 [ホームページ:RachaFora.com | HiroHonshuku.com] [ ヒロ・ホンシュク Facebook] [ ヒロ・ホンシュク Twitter] [ ヒロ・ホンシュク Instagram] [ ハシャ・フォーラ Facebook] [Love To Brasil Project Facebook]

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