インプロヴァイザーの立脚地 vol.10 永武幹子
Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2023年7月17日 入谷・なってるハウスにて
永武幹子(ピアノ)が日本のジャズシーンで目立つ存在となって長い。彼女は2018年にインプロヴィゼーションの巨匠・齋藤徹(ベース)と共演したとき、自分の得意とする世界でぶつかるべきだと判断し、ジャズのスタンダードナンバーで共演した(*1)。だが、今年(2023年)に台湾のサックス奏者・謝明諺(シェ・ミンイェン)との共演の際、自然に「インプロで」と指示して演奏する姿を観て、筆者は驚いた。どのような変化があったのか。
フリー・インプロヴィゼーション、フリー・ジャズ
その謝との共演についていえば、今年、2度の機会を得た。永武はそれぞれを対照的なインプロだったと話す。高橋陸(ベース)、大村亘(ドラムス)とのカルテットは全員で創る「場にとけこむような音」、類家心平(トランペット)、池澤龍作(ドラムス)らとのクインテットはだれもが「我を出しあって成り立つ音」。必ずそうだとは限らないが、「フリー・インプロヴィゼーション」(インプロ)と呼ぶ場合には前者に、またいわゆる日本の「フリー・ジャズ」は後者にちかい。彼女はどちらも好きだ。
ピアノという楽器
ではインプロの演奏となるとピアノという楽器はどうなのか。欲しい音を自分で具現化できるのは良いところだが、一方、どうしてもコードから離れにくいのが難しいところで、インプロ演奏のとき「単音楽器になりたい」と思ってしまうこともしばしばある。彼女にとって、ピアノは「支配力」がありすぎて本来インプロには向いていない楽器なのだ。
だから、やれることがありすぎるピアノを使って、やることを「これ以上増やしたくない」し、むしろ「これしかできない」方がよい。そのような意識もあって、プリペアド奏法にも電子楽器にも手を広げていない。いかにしてピアノの打鍵音だけでインプロの音場に身を置けるかを考えている。
いかに即興演奏に臨むか
ジャズ・ピアニストの中でミシャ・メンゲルベルクやアンドリュー・ヒルを好んで聴く理由は、いきなり予想を裏切る展開があるからだ。その瞬間にいったん思考停止になる感覚であり、学術用語でいえば「エポケー」(*2)。そのように、見知らぬものが出てきたときに何が起こるのかを探りたい。
彼女自身もインプロ演奏の際には「左脳を使わないようにしている」。すなわち感覚に頼るわけだが、ことはそう簡単ではない。もとよりヤマハ音楽教室で長いことソルフェージュを学んできたため、音と音階名(ドレミ)が共感覚的に結びついており、十二音階の中で演奏するときには左脳(言語脳)が機能する。そういった世界からいかに距離を置くか。
だから、ピアノでのインプロといっても、調性を基準にするのではなく、不協和音の体系の中に身を置きたい。右手と左手でわかりやすいキャラクターの和音を作ることをせず、単音によっていろいろな線の流れを作ること。安心感のあるタテ(同一の瞬間)のコード感を作りすぎず、時間的に音が残るピアノの特性を活かしてヨコ(異なる瞬間)のコード感をこそ重視し、それにより安定さと不安定さの両方を残すこと。
また、それとは別に、ピアノを「音の高低の層が細かく分かれているドラム」とざっくり捉えて弾くときもある。
日常とつながるナチュラルさ
そういったことは、ナチュラルに演りたいという気持ちが強い。彼女はピアノのミシャ・メンゲルベルクやアンドリュー・ヒル、さらにドラムスのハン・ベニンクやポール・ニルセン・ラヴといった人たちを好んで聴いてきた。ミシャ・メンゲルベルクには日常生活と地続きのマイペースさがあって、洟をかみながら演奏する動画など大好きだ。アンドリュー・ヒルはどちらかといえばジャズ領域の人だが、弾きたいものを弾いていて分類など無関係な魅力がある。ポール・ニルセン・ラヴには奇を衒わないナチュラルさがある。かれらに共通するのは気負って「フリー・インプロヴィゼーションを演る」のではなく、しかし志は高いところだ。
この7月にレコーディングのために行ったニューヨークでは、空いた時間にあちこちのライヴに足を運んだ。印象的だったのは演者たちのナチュラルさだ。自立した者たちが日常の立ち居振る舞いの延長で語るようにプレイしており、彼女はそのありようを生活との齟齬がないものとして受け止めた。それは非日常空間を創出する日本とはずいぶん異なっており、だからこそ、日本では音色のインパクトがある演者の人気が高いのではないかと感じている。
とはいえ、日本のそういった人たちがナチュラルでないということにはならない。林栄一(サックス)が新宿ピットインの平日昼の部で月1回開く「月刊 林栄一」はすべてインプロを前提としている。永武が吉良創太(ドラムス)とともに共演したとき、ソロを取る林をみて、いきなり荒野の中でひとり吹いているようなイメージが浮かんできた。やはり、ふだんの立ち居振る舞いと同じように演奏するナチュラルさをカッコいいと思った。類家心平(トランペット)や池澤龍作(ドラムス)もまた、演奏においてつねに「自分自身」である人たちだ。
だから、ジャズでも分類やコードにしばられるものは好きではない。それに、もとよりピアノという楽器は過剰にシリアスになり、「聴かせる」音楽になってしまう傾向がある。それはライヴハウスの中にしかないものだ。逆に、自然発生的で空間を大事にする音楽のありように惹かれるという。たとえば、日本橋三越のギャラリーの大きな空間における小林裕児(ライヴペインティング)、齋藤徹(ベース)、熊坂路得子(アコーディオン)の共演(2017年)。松戸の竹林で自由に動きながらのミシェル・ドネダ(サックス)、レ・クアン・ニン(パーカッション)、今井和雄(ギター)の共演(2017年)。それから「JAZZ ARTせんがわ」での野外演奏や「JAZZ屏風」といったもの。
ソロピアノ
共演者や編成に影響されず行うソロでのインプロ演奏も愉しいと思っている。柏のナルディスや船橋のコクリコットで定期的にソロピアノのライヴを行っており、曲だろうとインプロだろうと決めずに演ることができて、そのありようが自身の腑に落ちるものだ。自由にどこにでも行けるし、感じたことをすぐに表現できる。
東京のライヴハウスで演奏するためには、ずいぶん前から使用の確保をしなければならない。だから、計画したときと、演奏するときとでやりたいことが変わっていることがある。だが、共演者がいると自分の気分だけで極端に演奏の方向を変えるわけにはいかない。ソロならばそれは自由であり、彼女はそこにもひとつの可能性を見出している。
(*1)齊藤聡『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』(カンパニー社、2022年)
(*2)外的現実に対する判断をいったん留保すること。
アルバム紹介
(文中敬称略)