インプロヴァイザーの立脚地 vol.16 マクイーン時田深山
Text and photos by Akira Saito 齊藤聡, m.yoshihisa (noted) and Aaron Choulai (front photo)
Interview:2024年1月10日 オンラインにて
いまでは、即興演奏を手掛けて伝統的な邦楽から越境する箏奏者は少なくない。マクイーン時田深山もまた伝統から出発した人だが、彼女の音楽性は誰にも似ていない。
箏を始めた
オーストラリア・メルボルン生まれ。母がオーストラリア人、父が日本人である。民族音楽学者の母は、日本の音楽を当地でも広めたいと考えていた。その希望があったから、箏奏者の小田村さつきが来豪したとき、母は生徒集めなどに協力した。小田村は、沢井筝曲院(*1)を夫・沢井忠夫とともに創設した沢井一恵の弟子である。箏を世界に広めるため、一恵が若い奏者をさまざまな国に派遣している時期のことだ。深山はまだ3歳だった。
深山が小田村に師事して箏を習い始めたのは、7歳のときである。最初は好きでも嫌いでもなかったが、中高生のときになんどか来豪して演奏する一恵の姿を見て、カッコいいと思った。中学3年生のときには、シドニーのオペラハウスにおいて一恵たちのバックで演奏する機会も得た。後ろから見た一恵の演奏姿はまるで「ついてこい!」と言わんばかりであり、刺激的だった。
一恵はつねに新しいことを奨励する人だったし、もとよりオーストラリアの音楽文化はオリジナリティを重視する性格のものでもあった。「正しい」ことよりは自分らしいこと、というわけだ。
そんなわけで、深山はメルボルンのモナシュ大学に進み、音楽学部を選んだ。民族音楽に力を入れている学校であり、楽器はなんであっても許可された。箏専攻とはいえ、箏を演奏するのは深山ひとりだった。
実技の授業は、箏の演奏自体とアンサンブル。特にアンサンブルがおもしろく、ジャズ専攻の学生たちもジャズセッションの感覚で参加していた。ただ、はじめは憂鬱だった。西洋楽器の人たちの中に箏で入るのは難しく、2年間は嫌々やっていた。風向きが変わったのは、「小編成でやってみよう」との助言を得たときだ。シタール、タブラとの3人で演奏してみたところ、音色がうまく融合した。そうなると大編成でも自分の演奏の方向性がわかるようになってきた。
大学を卒業するころには、人前でのライヴも始めていた。
沢井箏曲院
2008年の暮れに東京に移り住んだのは、もっと箏を追求するためだ。翌2009年には沢井箏曲院の内弟子となり、英会話のアルバイトをしながらNHK邦楽技能者育成会(*2)を受講した。2年目には東京藝大楽理科の大学院に入った。
内弟子は手を抜けない立場だ。すぐ近くにはつねに一恵先生がいて、練習の様子がすべてお見通し。とても集中できる環境だったし、他の人のレッスンを見学することもできた。
都内でも演奏活動を始めた。渋谷のPink Cow(既に閉店)において毎週「Japanese lounge night」というイヴェントがあり、そこで箏曲やアレンジした曲を弾いた。深山にとっての本格的なデビューは、2011年のソロリサイタルである(東京オペラシティ)。深山自身は中能島欣一の曲を選び、一恵が沢井忠夫や沢井比河流(忠夫と一恵の息子)、高橋悠治、肥後一郎など他の曲を選んでくれた。中能島は沢井箏曲院の生田流とは異なる山田流の箏曲家だが、一恵には流派にとらわれないところがあり、ぜひ演ればいいと深山の背中を押した。
一恵のレッスンは忠夫の曲を中心として現代曲を中心としており、古典曲は比較的少なかった。もとより一恵は箏の世界でも我が道をゆく異端者であり、古典を演奏するときでもその弾き方は普通ではない。箏は伝統的にはビブラートを使わないものだが、彼女の身体も音色も揺れ動き、ときに色っぽかったりも霊的であったりもする。そして、弟子にも新しいことをどんどんやるよう勧めてくれる人だ。深山は幸運だった。
沢井門下の若手を中心としたグループ・箏衛門には、2013年から在籍している。コロナ禍で活動がすこし止まっていたが、昨2023年に6年ぶりのコンサートを行うことができた。なお、沢井門下には箏衛門ののちに結成された螺鈿隊というグループもあり、深山の先輩たちがメンバーだ。現在、箏衛門が11人、螺鈿隊が4人。たしかに箏衛門は大合奏ならではの迫力や音色が特色ではあるが、両グループに所属するメンバーもおり(市川慎)、また同じ沢井門下でもあるから、演奏のありようには重なるところもある。
フリー・インプロヴィゼーション
即興にはずっと興味があった。たとえば明大前のキッドアイラック・アート・ホール(既に閉館)で内弟子の仲間たちと即興セッションに参加したり、ジャズバンドに声をかけてもらって入ったり、また中野のPlan Bで一恵、齋藤徹(コントラバス)、今井和雄(ギター)のライヴを観て強い印象を覚えたりもしていたが、それでも、自分自身が行うには躊躇していたという。
本格的に取り組み始めたのは2015年のことだ。縁があって、オーストリア・グラーツで定期的に開かれるインパルス(Impuls)というワークショップに参加することにした。何百人もの音楽家が参加し、2週間も続く。オーガナイザーが深山の自己紹介をメールで展開したところ、いくつか反応があった。フランク・グラコウスキ(サックス)、マノン・リウ・ヴィンター(ピアノ)の指導のもとでの即興演奏はそのひとつで、演ってみたらおもしろかった。さまざまな作曲家と出会い、良い曲が生まれたのも大きな成果だ(*3)。彼女には「扉が開いた」ように感じられた。帰国した彼女は、次第に演奏の枠を拡げていった。
翌2016年、スイスのジャック・ディミエール(ピアノ)が来日し、齋藤徹との1週間のデュオツアーを行った。毎日異なる音楽家(主に邦楽)がゲストで加わる企画である。深山は4日目に水道橋のFtarriで共演した。彼女にとってすべてを即興で演るはじめての体験となった。これも、若い箏奏者を紹介してほしいと言う齋藤に、一恵が推薦してくれたからだ。2017年からは喜多直毅(ヴァイオリン)との共演も始めた。少しずつ、即興が自分の活動の一部になってきた。
ニューヨーク
2019年になり、アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成事業(フェローシップ)に採択され、ニューヨークに半年滞在した。クリス・ピッツィオコス(サックス)が紹介してくれて、ブルックリンのThe Record Shopで箏のソロ演奏を実現できたのは大事な経験だ。ブルックリンのUnnameable Booksでも、ジェームズ・イルゲンフリッツ(コントラバス)、ジェシー・コックス(ドラムス)とのトリオで即興を演った。
もっとも、この助成制度は活動の成果よりも当地での吸収を重視するものでもあって、さほど活発に演奏をしたわけではない。深山は頻繁にライヴを観に行った。アンドリュー・ドルーリー(ドラムス)に声をかけてもらい、ブルックリンのブッシュウィックで毎週行われていた即興のギグ(*4)に行ってみたところ、オーガナイザーのスティーヴン・ガウチ(サックス)と知己を得た。ちょうど神田綾子(ヴォイス)が出演していたときである。また、ドルーリーがブルックリンの自宅で定期的に主催するSoup & Soundにも出演した。
楽器
いまの深山は十七絃箏を使うことが多い。これは通常の箏(13本の絃を持つ)よりも低音域に拡張されたものであり、英語では「bass koto」と称される。2015年にグラーツに旅立つとき、彼女はどちらを持っていこうかと迷い、ええいとばかりに十七絃を選んだ。結果的に、これが彼女に向いており、出したい音を出せる楽器だとわかった。いろいろと試したあとにまた十七絃に戻ると、心地良い。通常の箏よりもひとまわり大きく、その分音色の幅が広がる。箏は言ってみれば余韻が命の楽器だが、十七絃はそれがたっぷりあり、深い。また特殊奏法を演るときの効果が大きい。
もちろん通常の箏にはまた異なる良さがあり、これは奏者の好みだ。深山が感じるところでは、通常の箏は音色にしばられることが多いが、十七絃であれば聴く者も弾く者も「箏の音」という先入観を排し、よりニュートラルに受け止めてくれるかもしれない。だから、同じ箏だとはいっても性格がずいぶんと異なる。
エフェクターやルーパーを使うこともあるが、いまのところ、それ以上には積極的に使うことがない。それよりも、まだまだ生の楽器と向き合って発見できることがある。それは音色やヴォキャブラリーの探求である。音の拡張を通じて、新たな領域に入っていきたいと考えているという。
即興、曲
コロナ禍が世界を襲ったのは、ニューヨークからの帰国後まもなく。ドイツ・ブッパータールで行われる予定だった『私の城』公演(*5)も中止となった。それだけでなく、2022年ころまでの間、国内外からの依頼がほとんど無くなってしまった。
ただ、自分の音楽表現という観点からは悪いことばかりではなかった。それまで依頼仕事が多くて忙しく、自分からの発信が後回しになっていたからだ。深山はさまざまなことに取りんだ。
たとえば、ソロライヴ、ポップダンサーのYukiByeolとのコラボレーションなどは意義深いもので、自身の音や音楽を形成するために大事なものとなった。
ライアン・ウィリアムス(リコーダー)とリモートで頻繁にやり取りし、自分たちの曲をデュオ向けにして録音したことや、さまざまなオンラインでのコンサートに即興で参加したことは、いまにしてみれば、実際に人と会えないコロナ禍ならではの取組だ。
それから、須川崇志(コントラバス)、石若駿(ドラムス)との共演。このトリオでは曲を書いたりもしたのだが、彼女にとって、即興と曲とを隔てる境界線ははっきりしていないという。敢えていえば、現在は半々の比重で演奏活動をしている。
深山にとって即興とは「決め事がない」ものではないし、作曲は「自由がない」ものではない。ふたつの世界をまじえたヴァリエーションを作ることができる。
もとより箏での演奏は臨時記号がたくさん入った楽譜に向いていない。深山もジャズの和声やコード進行を活用するのがさほど得意なわけではなかった。だが、ヨーロッパでの模索で、そのような知識がなくても可能な即興があることがわかったという。箏にできること、それは音色や余韻といった特徴を活かすことだ。やりすぎず、自分らしくユニークにやりたい。箏による即興を行う奏者は何人もいるが、アプローチが異なるし、もとより他の人と自分を比較することもあまりない。
現代音楽、即興
もともと伝統音楽を学んでいたこともあり、彼女の音楽的なアイデンティティは現代音楽と即興との二本柱だ。
作曲家の山本和智による<3人の箏奏者と室内オーケストラのための「散乱系」>の公演に参加できたことはとても有意義だった(2023年、浦安市文化会館)。自分のことを想定してくれている、その期待にクリエイティビティをもって応えたい。この年に、カナダ・バンクーバー在住の作曲家リタ・ウエダが自分をソリストとして選び、コンチェルトを書いてくれたのも、嬉しい出来事だった。曲とはいえ音符がほとんどない。即興要素が入った自由度の高いフォーマットであり、これも深山の方向性に合うものだった。そして箏の古典曲については、竹澤悦子からレッスンを受けている。
この二本柱は、以前は深山自身の中で別々に存在していて、自分でも変だなとは思っていたという。だが即興と現代音楽の探求を続けるうちに、ハイブリッドな音楽として融合してきた。もとよりポップスもヒップホップもドラムンベースも好んで聴いてきたし、ビョークの<Anchor Song>を演奏したりするのも彼女にとっては自然なことだ。もちろん箏の演奏としての向き不向きはあるとしても、自分の方向性に正直に向き合い、咀嚼して発信することが大事である。
他の演奏者たち
尺八のブルース・ヒューバナーがおもしろい。アメリカ出身で日本に長く暮らし、オリジナルやジャズ的な曲などを演奏している。
山㟁直人(パーカッション)は、共演したライアン・ウィリアムスが紹介してくれた。素晴らしい音楽家だ。即興やダンスなどの表現を交差した活動をしていることも興味深い。
秋山徹次(ギター)の音もとても良い。いつか共演したいと思っている。
ディスク紹介
(*1)1968年に「沢井忠夫・沢井一恵門下生によるお箏の勉強会」において出発した集団は急速に輪を広げ、「沢井箏曲研究室」を経て1979年に「沢井箏曲院」が誕生した。(沢井忠夫著・小畑智恵編著『鳥のように 箏曲家・沢井忠夫の生涯』、文芸社、2000年)
(*2)NHK邦楽技能者育成会 邦楽演奏家育成のための講座であり、2010年3月までの第55期をもって終了した。深山は最後の受講生のひとりである。
(*3)このときの曲が、深山のソロアルバム『SONOBE』に4曲収録されている。
(*4)Bushwick Public Houseにおいて、インプロヴィゼーションのシリーズとして毎週開催されていた。現在はやはりブルックリンのThe Main Dragに場所を移して続けられている。
(*5)自閉症をテーマとして、ジャン・サスポータス(ダンス)が齋藤徹(コントラバス)らと協力して始めたタンツテアター(ダンス演劇)。2016年から3年続けてドイツで公演を行い、齋藤の没後も続けられている。2022年にはドイツと日本で再演され、深山は日本公演に参加した。(齊藤聡『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、カンパニー社、2022年)
(文中敬称略)
フリー・インプロヴィゼーション、マクイーン時田深山