INTERVIEW #191 豊住芳三郎
Interviewed by Akira Saito 齊藤聡
Photos by m.yoshihisa
Movie by 宮部勝之 Katsuyuki Miyabe
2019年7月20日(土) 埼玉県・山猫軒
日本フリージャズの勃興時から活躍したドラマー/パーカッショニスト、豊住芳三郎(通称サブ)。その活動領域は日本にとどまらない。若き日から世界を旅し、シカゴではAACM(Association for the Advancement of Creative Musicians)と行動を共にし、またヨーロッパ即興シーンの猛者たちと国内外で共演を積み重ねてきている。
2019年7月20日、埼玉県の山猫軒において、照内央晴(ピアノ)、庄子勝治(アルトサックス)との演奏を行う前に、豊住にインタビューを行った。
◆
― 1943年、横浜で生まれる。和光学園から堀越学園を経て、芸大打楽器別科を2年で中退、富樫雅彦に師事。
高校のとき富樫雅彦さんの音を聴いて、こんな叩き方あるんだと感動し、彼を追いかけた。それまではスイング、スイング、スイング♪、そうジーン・クルーパだった。富樫さんはスイング・スタイルみたいにべードラムを4つ踏んだりしない、スネア(小太鼓)ではストト、ストト、ストッ、カッカカ、なんて、なんと粋だなあって思ってた。
それで銀巴里(※)に高校を早退して会いに行った。ほぼ毎週金曜日の午後は、ときに学校の塀を乗り越えたりして銀巴里に直行していた。しかし、富樫さんはその日ヤクで捕まっちゃっていた、2年間も。数年後、ドラマーの友人が富樫さんに会いたいならと約束を取り付けてくれて、毎晩出演中の横浜のNight and Day(※)というビッグキャバレーに行くことにした。しかしその前の日の夜11時くらいにオヤジが死んだんだよ。オフクロに相談したら、まだ通夜ではないし行っていいと言ってくれた。それでNight and Dayに行ったら、富樫さんはアニタ・オデイとフケちゃってて居なかったの。松岡直也がリーダーで、「坊や、叩ける?」って。それで叩いた。これで2回の出会いをすっぽかされた。
富樫さんはアニタ・オデイに「Sweet」って呼ばれてたから、新宿厚生年金会館での「バディ・リッチ、ルイ・ベルソン、ジョージ川口との4大ドラマーとの共演」の時に頼まれて、ベースドラムのフロントに俺が「Sweet」って描いた。これを事故前まで使用していた。アニタ・オデイは富樫さんをアメリカに呼びたい、バークリー音楽大学にでもと言っていた。しかし富樫さんはとにかく中学を出ていない。アメリカでは芸術大学には高卒の資格がなくても入れるけど、中卒でないと入れない。で、ジャーイイヨーッ!て。
富樫さんは彼の父親のバンドでプレイしていたが、両親が離婚して継母が来て、それがイヤで家を飛び出しちゃった。仕事が箱根だからやってられなくなって、それで立教中学中退。まだ試験の夢を見るなんて言ってた。渡辺貞夫がヤマハで理論教室をやったときは一番前に座って優等生みたいだったんだって。俺と漢字の教材で勝負して勝つと、ウワー大学生に勝ったなんて大はしゃぎして、凄く中学中退のコンプレックスがあった。それがきっと大きなバネになったんだよ。海童道祖(定具:一般的には尺八)だって脚が悪くて、脚が良かったらここまで凄い人にはなれなかったというアメリカ人の弟子もいる。アーティストにはみんなそういうのがあると思うけどさ、コンプレックスを秘めてて、それをどう作品に転化、昇華するのかというところだと思うよ。
(※)銀巴里 1951年から90年まで銀座にあったシャンソン喫茶。高柳昌行、富樫雅彦、山下洋輔らによる1963年の演奏が『銀巴里セッション』(Three Blind Mice)に収録されている。富樫は麻薬による服役から出てきたばかりであった。
(※)Night and Day 横浜にあった、ブルースカイ、クリフサイドと並んで大きなナイトクラブ。
― 高校生の頃に既にフリーを演っていた。
高校のとき、62年に、インプロ、フリージャズみたいなの演ったんだよ。中野公会堂で和光学園から堀越学園のブラバンに引っ張られて、3年の文化祭を、中等部、高等部全生徒の前で。なんとアルトとのデュオ。1曲目はアート・ブレイキーのラテン調から12小節の短いリフ、中はインプロ。2曲目はクラスの学級委員長(プログラム出演申請に彼の名前がないと選ばれない)が、超卑猥なポエムを読んで、なんとそこからのインスピレーションでの即興演奏。これも副委員長が司会でチャンと説明する。3曲目は俺の知ってる色々なリズムのメドレーでサックスのインプロ。バンドテーマは「St. Thomas」。時間が来て幕が下りてきても、テーマはちゃんとやった。詩は意味が聞き取れないように、マイクをかじるように朗読させた。先生方にウケたよ。ワイシャツとチョッキを着ていたら、ブラバンの先生が「学生服を着て演れ」なんて言うんだよ。「イヤです」って言ったら「お前クビだ」って、俺「ハイ!」。でもね、ブラバンに小太鼓おれひとりしかいないから。体育祭の時走らなくてイイ、行進曲とかズーッと演奏してればいいんだ。曲の間奏時に全校生徒が俺の小太鼓ひとつで行進するのは気分良いね。まだ堀越も学生服で、芸能部とかなかったよね。しかしその頃ペーター・ブロッツマンもフリーを始めてるんだよ。ほぼ俺と同時期だよ。小杉武久さんはもっと前で、なんとデレク・ベイリー以前。スバラシイ!
― 21歳のとき、銀座「ギャラリー8」ではじめてステージに上がる。その後、日野皓正、武田和命、寺川正興、山下洋輔らと共演。山下洋輔トリオで叩いていたが、1966年、初の渡欧のため退団(後任が森山威男)。北欧各国、ソ連、東欧、北アフリカを廻る。
山下トリオをやめてミッキー・カーチスと「侍」でヨーロッパに行った。後任が森山威男で、出発の前の日に新宿ピットインで叩いていた。しかし山下洋輔さんは直後に病気をして、中断してますよね(※)。僕は67年に日本を出て69年に帰ってきた。昭和44年4月4日。
(※)第1期山下トリオ 肋膜炎の療養を終えた山下洋輔が復帰し、1969年に山下洋輔トリオを結成(~1972年)。メンバーは山下洋輔 (p)、中村誠一 (ts)、森山威男(ds)。
― 1969年に帰国し、直ちに吉沢元治トリオに入る(吉沢元治、高木元輝、豊住)。高木元輝との付き合いが始まる。夏頃から高柳昌行ニュー・ディレクションのドラマーとなる(高柳、吉沢、豊住)。『Independence』が豊住の初吹き込みである(69/9/18、70/2/2)。1970年3月に吉沢トリオ解散。
高木さんと出会ったのは69年に戻ってから。帰国して1週間も経たないうちに吉沢さんに会いに行ったんだ。そして何やってもいいんだよ、なんて言われて誘われた。高木さんはその前から吉沢さんとやっていて、中村達也も少し叩いていたのかな。
高柳さんとは銀巴里や銀座ギャラリー8で66、67年にすでに共演しているけど、この年のちょっと後、ニューディレクション結成で入団した。吉沢トリオ解散は次の年になってから(70年3月)。直後にニューディレクションを高木さんと一緒に退団した。変な話、あと2週間もいたら『解体的交感』(高柳昌行と阿部薫のデュオ)に高木さんと入ってたかも。
― 1970年に高木・豊住デュオを結成し、4/15に『Saxophone Adventure』を吹き込む(A面がデュオ「深海」、B面は菊地雅章の作曲指揮による10人でのコンダクション)。71年4月の演奏は『If Ocean Is Broken』としてイタリアQbicoレーベルより後年レコード化。
『Saxophone Adventure』は凄いよ。マッツ・グスタフソンもレコードを持っている。いま25万円だって。僕はすでに7、8年前に12、3万円で売却。あのころバスクラ吹く人なんて少なかったよね。
高木さんは『If Ocean Is Broken』(71年4月)の「Nostalgia for Che-ju Island」(済州島への郷愁)でアート・アンサンブル・オブ・シカゴの「苦悩の人々(People in Sorrow)」を引用している。レコードのタイトルは高木さんの曲から、それぞれの曲名は僕が付けた。高木さんのお爺さんは済州島出身で、強制的にではなく、政治的な理由で日本に亡命して来たんだ、貴族の出身だとよく言っていた。そして横浜に移住したんだ。
『苦悩の人々』のレコードを僕がヤマハで買って、すぐに彼に持って行ってコピーして、もう毎回というくらい演っていたよ。数年しても高木さんがレコード返してくれないので、それを言うと、別れた女性の家にあるから返せるわけないじゃん、って。そのあと日本版プリントのLP買ったけど1、2回しか聴いてないナー。あれロスコー・ミッチェルの曲じゃん。ロスコーの家に行くとヴァイブがあってさ、俺この曲弾いていた。その時はAECの作曲と思っていた。ある日ギュンター・ハンペルが尋ねてきてヴァイブを触ったら、「Don’t touch!」なんて言って触らせてくれなかった。ロスコー・ミッチェルとジョセフ・ジャーマンとダグラス・ユワートがわが家からすぐの4、5分のところで共同生活をしていた。
高木さんは『モスラ・フライト』(75年)でも「苦悩の人々」を演っている。あれも良いアルバムだよな。もう二人とも毎回99%はあの曲を演っていた。日本人好みの良い曲だよね。ジョセフに演ろうって言ったら、自分の曲しか演らないんだ。仕方ないよな。
『Sabu / Message to Chicago』(74年)(豊住、宇梶昌二、原尞、藤川義明)や『滄海』(76/1/24)(豊住、高木、加古隆)でも「苦悩の人々」、そして『If Ocean …』の中でも「Nostalgia for Che-ju Island」として演っている。『滄海』は越谷の「蔵の音」が出してくれたんだよ。高橋義博さんはAACMと高木さんの大ファンだからネ。
― 1970年に師の富樫雅彦が妻に刺され、下半身不随となる。
富樫さんが刺されたのは70年の1月かな。あくる日にすぐに行ったよ、奥さんに会いに行ってくれっていうんでさ。渋谷署で留置されてっからね。だけど男では会えなくて、沖至の奥さんが下着かなんかを持って行った。1週間くらいで出てきたのかな。
僕はすぐに仕事を頼まれてさ。佐藤允彦の『恍惚の昭和元禄』、あれ本当は富樫さんと高木元輝の予定だったんだ。レコードは今、二十何万円かするんだよ。ぺらぺらの海賊版も出てる。また銀座のジャンクでのゲイリー・ピーコック、菊地雅章とのトリオも、頼まれて富樫さんの代わりに演奏したんだ。
― 宮間利之とニューハードに短期間在籍。
71年にチャールス・ミンガスが来日したときにはニューハードのメンバーとして演ってるけど自分はソロもないから名前は出ていない(『ミンガスとオーケストラ』、1971/1/14)。その頃、ツトム・ヤマシタと佐藤允彦の『ものみな壇の浦へ』(1971/1/27)、ニューハードと富樫さんの『牡羊座の詩』(1971/1/22、27)、そして弘田三枝子のLP。同じ週に日本コロムビアの第1スタジオで以上4枚に参加している。
― 1971年4月29日、シカゴに渡る。
シカゴに渡ったのは71年4月29日。天皇誕生日だったから覚えてる。『If Ocean Is Broken』はそのひと月くらい前に新宿でやった演奏。シカゴにその時のオープンリールが送られてきて、そんな聴く機材なんてAACMのメンバーではムハール・リチャード・エイブラムス以外の誰も持っていない。で、彼のところにスティーヴ・マッコールと一緒に聴きに行ったんだ。スティーヴが眠りこけたら、ムハールは聴けって彼を起こしてくれたんだよ。気に入ってくれて超嬉しかったなー。もう彼と一緒に聴く前はビクビクしててさ。
ムハールが来日したときは僕は外国にいたんだけど、ダニー・デイヴィスの日本人の奥さんが呼んだんだ。疲れてたようだったって聞いた。凄く神経質な人だからな。僕もいろんな人を日本に呼んだけど、彼だけ呼べなかったのが心残りだ。彼の事務所からOKが出たのだが、残念!共演は2度している。
(※)シカゴ滞在時については、豊住の手記「AACM突撃日記」(『アート・クロッシング 第2号:豊住芳三郎』所収)に詳しい。
― ハミッド・ドレイクは高校生のときに豊住さんのプレイを観て参考になったと言っている。
富樫さんが演っていたんだけど、マレットの後ろでシンバルのトップとタムを普通に同時に叩くと、ある音色を出す効果がある。俺もシカゴで演ったんだろうね。それでハミッドもまだ演ってるよ、なんて。
― 1972年春、パリに渡る。アラン・ショーター、アラン・シルヴァ、ボブ・リード、アンソニー・ブラクストンと共演。Creative Music Orchestraに参加。また、加古隆らとのグループEmergencyで、『Homage to Peace』を吹き込む。
パリでは加古隆と演っていて、Emergencyというグループで録音した。加古とのデュオ『パッサージュ』は帰国してからだね(1976年)。
アンソニー・ブラクストンのCreative Music Orchestraで演ったのはパリに行ってすぐだよ(『RBN—-3° K12 (Pour Orchestre)』、72/3/11)。シカゴでも会ってる。ジョセフと演ってるときに客席にいた。彼の家にも行った。ほとんどAACMの連中はフランスじゃない?残念なことに当時のアメリカじゃ、ああいうのは時にゲテモノ扱いだよね。フランス人は最初は俺の事「ジャポネ、ジャポネ」って呼ぶんだけど、楽器を演ると「サブ」になる。才能、個性を認めてくれるんだね。なにか才能持ってる人にはガラッと対応が変わるよ。それが文化の歴史なんだろうね。
― 1972年8月、フランスからインドネシアへ渡る。同年11月に渡仏した高木とはすれ違いとなった。
パリからインドネシアのバリ島に行った。高木さんはその後でパリに来て、それがわかってたらもっとパリにいたよ。ひとりだしさ、もういいやって思って。
インドネシアではガムランを聴いていた。東京でもパリでも聴いて、うわあ面白れえと思ってさ。もうインドネシアに行こう!って、それで船で大西洋、ケープタウン、インド洋、マラッカ海峡、シンガポール、ジャカルタから陸路。バリの国立の音楽学校で太鼓や鍵盤を教えてくれるんだよね。しかしダンスもやんなきゃいけないんだよ、踊りも込みなんだ。子どもが簡単にやっているのを見てやめちゃった。だが音楽には影響を受けてるね。段々速くなったり段々遅くなったりして、急にバンと止まったりして、凄えな、って。
インドでタブラも演ってるけど、ある人はインド音楽を演るならインドに生まれなきゃ駄目だよという。ニューデリーで日本人のシタールを持ってる人を結構見た。しかし沢山あるラーガのスケールが3つくらいしか覚えられなかったりとか、趣味ならいいけど…。キューバ音楽も大好きだけど、あいつらは血の中にリズムあるからさ。しかし彼らは日本の盆踊りだったら、ジャンプするな!なんて言われるかも。向こうは4、5歳の子たちがジャンプ、ジャンプで踊ってるだろ。だから国によってリズム違うからさ。ジャズは黒人のもの、まあハン・ベニンクは白人だけど白人のスイングもある。だからここまで来たら、「サブ」しかないんだよ、開き直ってさ。向こうに行ってエルヴィン・ジョーンズの真似したってさ、「カッパラッタネ」って言われる。誰でもリズムを持っているわけじゃない。顔はひとつ、指紋はひとつ、それがアートなんだよ。それを押し通せばいいんだよ。これが俺のリズムだって演れば、向こうではそのオリジナリティを認める。
外国の色々なのも音楽なんだって知っておかないとさ、だって日本の音楽教育なんて超つまらないじゃない。いやクラシックもいいけどね、99%あれが正しいみたいに言われると、それだけじゃないだろう、あれが正しいなんて勘弁してよって。それって洗脳だと思うけど。
― 1974年1月に一時帰国。10月に『Sabu / Message to Chicago』を録音(宇梶昌二、原尞、藤川義明、豊住)。1975年、スティーヴ・レイシーのツアー(富樫、吉沢)に高木とともに同行。7月に『藻』(豊住、高木、徳弘崇)を吹き込む。9月に富樫雅彦『風の遺した物語』に参加。1976年、加古・高木・豊住のトリオで『滄海』(1/24)と『新海』(1/25)を演奏。
宇梶、原と演ったのは副島輝人さんの企画ですよ。『藻』の前にスティーヴ・レイシーが初来日して、レコード『Stalks』では富樫さんや吉沢さんが共演している。そのツアーには同行して、富樫さんが遠すぎてできない所では自分が演った。
一時期、高木さんの音はもろにレイシーだった、吹き方とか動作まで。80年代初期かな。70年代は違う。あんまり内輪での評判は良くもなかったんだけど、本人はもうそれ。プロセスとしてそれがあったんだろうね。
(庄子)僕はそのころ福生にいて高木さんの家に何度か泊めてもらって、もうレイシーでした。完璧にソプラノ1本で、歯もソプラノ用に削って、「庄子君、どう?」なんて。どう?って言われても返事に困って。
― 1977年頃から阿部薫との共演が始まる。
阿部薫とはじめて演ったのは69年かな、ニュージャズホール(※)でちらっと。親しくなったのはミルフォード・グレイヴスの合宿のとき(77年、あわせて『Meditation Among Us』が吹き込まれた)。何年かふたりは会ってないわけじゃない、俺もシカゴとかフランスとかに行ってたし。で、あいつ、合宿に遅れて来たんだよ。こう前髪を垂らして、「ミルフォード、結構指図するんだよ!」とか言って。あいつそういうのが嫌いだから眺めてるだけでね。俺もこれやってみろとか言われて大変だったんだけどさ。
で、とにかくその翌日、福島・平が初日なわけ。俺とか梅津和時とかは2日目は福島のパスタン(※)主催の回のみに出たが、初日は出演なし。ワークショップでは新体道みたいなのもやらされたりした。ミルフォードはアフリカ武道のヤトラをやるでしょ。阿部に言わせるとね、演奏中に彼がタンバリンをやりながら横に来て肘鉄くらったっていうんだ。で、後ろからヤトラで蹴られると思って、ミルフォードの目の前で、睨み通して延々と、時に飛び上がって吹いていた。ジーンと来たよ。フリージャズで泣きそうになったのなんてこの時以外にない。そうしたらミルフォードが演奏止めて引っ込んじゃったんだよ。終わって、阿部は楽屋で間章と1時間くらい話していて、ミルフォードはあいつが明日出るなら俺は出ないと言っていたって。だけど主役のミルフォードが出ないとかはありえないじゃない。俺と梅津と阿部は福島のパスタンに呼ばれていて、もちろんEEUの高木、近藤等則、土取利行は全ツアーに同行してた。で、阿部は福島でクビを切られたんだよ。阿部に言わせれば、あいつが止めたんだからあいつの負けだって食い下がったが。パスタンではあいつ可愛がられてたしネ、それで演奏が終わった後、カーテンの横くらいでソロを吹き始めたんだけど、あんな哀しい音のサックスをあれ以降聴いたことがない。こんな哀しい音がサックスで出せるんだ、って。きっと切られた悔しさがあったんだろうな。
そう、ミルフォードとの合宿の夜は雑魚寝。もう何年も会ってないわけじゃない。あいつらしいんだよ、横来て「君タイコやってんの?」って。俺も結婚直後で太っちゃっててさ、「俺だよ、豊住だよ」って言ったらガバッと起きてさ、間に尋ねにいって、戻って来たら「一緒にやろう」なんて言ったんだ。それでデュオが始まったわけ。6年近く会ってなかった、で、「俺はシカゴとパリに行ってた、お前は?」と聞いたら、「アルゼンチンに行って戦争してた」って。最高だろ!?「バズーカ砲はガーンって肩に来るんだよ」なんて。それ信用しててさ、阿部のお通夜の日に鈴木いずみ(※)に「あいつアルゼンチンに行ってたんだよなあ」って聴いたら、「ウソウソウソ」だって。ああ俺聞かなきゃ良かったって。まあ俺は今でも信じてるからね。もし天国でも地獄ででも会って「お前行ってたよな」って聞いたら、あいつ得意のニタっとした顔をすると思うんだけど。だけどこういうウソ、もうウットリくるぜ。あいつらしいよ、真顔で言ってた。でもホントかもしれない、いずみも知らない。英国とアルゼンチンとは本当に戦争してたからね。
その直後から再共演を始めたが、9月のある日かは騒(※)で、すでに別の決まったドラマーがいて、背の高い若い奴だった。阿部はタイコ上手いからね、1部は客の前でずっとそいつにタイコを教えてんの。タイコもあいつの音だな。2部で俺が入ったかな。
この間出た『万葉歌』『挽歌』は78年の頭と7月。『Overhang Party』(ALM)が8月、『蝉脱』(イタリアQbico)が2月と4月。
(※)ニュージャズホール 1969年に当時の新宿ピットインの2階を借りて開かれた場。
(※)パスタン 福島市にあったジャズ喫茶。
(※)鈴木いずみ(1949-86) 作家、女優。阿部薫の妻。
(※)騒(がや) 初台にあったライヴハウス。
― 阿部薫は1978年9月9日に急死する。
阿部は病院から運んだ。担架で団地の階段をのぼろうとしたが無理で、4階までおんぶした(副島輝人さんは「だっこした」みたいな書き方をしていたが)。
阿部とは自主コンサートをやろうと言って日仏会館を仮おさえしていた。確か翌年1月13日。予約締め切りが9月12日とかだった。予約金の半分くらいしか払えてなくて、9月8日に払いに行くことにしてたんだ。俺の息子がまだ0歳で、女房と3人で千葉の国民宿舎に泊まって海で遊んでいた。もう1泊しようと思って、電話で1日伸ばすと阿部に伝えた。それで9月9日に帰ったら騒のママから、彼が亡くなったと電話があった。中野の病院に行って、病院の軽の運ちゃんと、いずみと、阿部のお母さんと俺とで遺体を運んだ。
いずみが「書いてやる、書いてやる、書いてやる」って言うから、何かと思ったら、騒のママが、「いずみがちゃんと見てないから」なんて言ったんだって。ブロバリン100錠の瓶に3錠だけ残っていたんだ。それ聴いた彼女が怒っちゃってさ。で、本当に「”ドヤ”の狐目の女、レズに間違えられて喜んでる」なんて書いた本を出している。彼女の本には阿部か彼らしいと思われる登場人物がよく出てくるね。
― 80年代からヨーロッパのフリー・インプロの音楽家たちと多く共演するようになる。
ハン・ベニンクは2回くらい日本に呼んだよ。デュオを録音したのは95年(『DADA 打、打』)。アムステルダムのビムハウスでは、ペーター・ブロッツマン、ミシャ・メンゲルベルク、フレッド・ヴァン・ホーフと演った。
アメリカだったら、「日本人がジャズ演ってんの?」「なんかかわいそうね」なんて目で見られる。灰野敬二もあれって悔しいよなあと言っていた。本場だからか? でもヨーロッパは「誰」で見てくれる、「サブ・トヨズミ」と。いろんな奴が集まってんじゃん、昔の絵の世界のパリみたいに。「何人、日本人」とかはその後にくる。
最初にミシャがICP(Instant Composers Pool)で来たときには俺はスタッフだった。最初に彼を招聘したのは88年くらいかな、85年にジョン・ゾーンを呼んだ頃で。2回目は7年経っていて、それからは3年おきに演ろうと彼が決めた。合計でミシャと5回日本ツアーをやってんだよ。自分でも信じられないよ。
ミシャは寿司が好きでね。山葵も好きなんだよ。回転寿司でも注文の山葵が来るまで食べないんだよ。
その頃「ガイジン」と一緒に演るってのが面白かった。日本は島国じゃん、だんだんそういうのは無くなってきたけど。だから俺中国なんかに行くと、待遇がいまだに「ガイジン」なんだよ。
ジョン・ゾーンの85年の初来日、あとフレッド・ヴァン・ホーフ、フィル・ミントン、バール・フィリップス、ネッド・ローゼンバーグらも僕が最初に呼んだ。デヴィッド・マレイとは井野信義、片山広明、梅津和時、僕とで横浜でいちど演ってるよ。「Lonely Woman」なんかを演奏した。80年代後半かな。
― 宇梶昌二、齋藤徹と1988年に北米ツアー。
宇梶と齋藤徹とは88年くらいにアメリカとカナダにツアーで行った。その前が、レオ・スミスと僕とフレッド・ヴァン・ホーフでカナダ。日本人とのツアーは10日間くらいかな。カナダではいろんな町に行ったよ。アメリカはアトランタだけ。僕は先にカナダに入って、「Festival International de Musique Actuelle de Victoriaville」で演った。そのフェスにはいろんな人が出たよ。アンソニー・ブラクストン、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、フレッド・ヴァン・ホーフ、レオ・スミス、エヴァン・パーカー、マリオン・ブラウンとマル・ウォルドロンのデュオ。
齋藤徹の『Coloring Heaven』(1988年)はその直後かな。バール・フィリップスは僕が呼んだんだよ。徹とバール・フィリップスとはそのときがはじめて。ベースって楽器は、いや弦楽器全般にいえるかな、仲間意識があって仲良くなると感じられる。宇梶とはデュオを演ってた。キッドアイラック(※)でデュオを演ると、彼の奥さんが弁当作ってくれんだよな。もう宇梶は引退した。頑なな人で、チラシなんかにも「孤高の人」と書いていた。
(※)キッドアイラック・アート・ホール 世田谷区松原にあった小劇場・ギャラリー
― 最近ではアジアの音楽家たちとの共演を増やしている。
謝明諺(シェ・ミンイェン、通称テリー)(サックス)、李世揚(リー・シーヤン)(ピアノ)とのトリオで(謝明諺『上善若水 As Good As Water』と同メンバー)、先月(2019年6月)、クアラルンプールのクラブNo Black Tieで演ったよ。CDもまた出すと思う。台湾には7、8年前くらいからもう5、6回行っているか。ジョン・ラッセルとは一昨年(2017年)に台湾で共演している。最初は基隆に住むピパ(琵琶)の駱昭勻(ルオ・チャオユン)と演ってた。
この間日本に来た上海の老丹(ラオ・ダン)(サックス、笛)とは、最初に上海で演ってる。「お前と一緒に演りたがってるミュージシャンがいる」ってんで「いいよ」って。そのとき後ろに旭日旗があって、俺まったく気付かなくて、帰ってきてからフェイスブックであーたらこーたらって書かれていた。僕から言わせればステージにあんなの載せるなんてダサいよ。そんなことやってる暇ないだろう。ステージから下りてそういう話をしたいなら受けて立つけどさ。
上海、中国のフリージャズはこの10年くらいかな。ブロッツマンの初中国もずいぶん前だし。オランダ人の主催だけど、北京には、80年代か90年代初めにミシャ、ジョージ・ルイス、ハン・ベニンクと。それでハン・ベニンクがステージで新聞を燃やしたんだよ。それは政治的な意味で捉えられるからみんなに批判された。余興のつもりだったかもしれないけど、刑務所に入れられたかもしれなかったと言う人もいた。ハン・ベニンクはそういうのとか、外国人が行っちゃいけない地域があるのとかで、中国を批判していた。
余談だけど、ハン・ベニンクは学生服を凄えバカにするんだよな。向こうにはそういうのはないから、ナチみたいに見えるんだろうね。こちらが人民服を見るのとキット一緒だよ。「お前もあれ着てたのか」って、ハンにもミシャにも聞かれて、うんと答えたら「Ha? t!!!?」って。いちど岩手でクルマに乗っていて、駐車場の制服の誘導員に、ハン・ベニンクが窓を開けて「I hate uniform!」って叫んで閉じた。本当に苛々するんじゃない、彼らにとっては。おいらも洗脳されてたしな、学生服なんか着たくもないよな。
中国はフリー演る人少ないっていっても人口が14億いるからな。CDも売れるんだよ、初日完売なんてあるんだよ。5、60枚持って行ったこともある。またあいつららしいんだけど、僕は割引で売るでしょ、それを色付けてもっと高く売る。それを自慢にするんだよね。
アフリカは生活自体がまだまだインプロだからね。まだインプロは流行らないか必要ないんだ。キューバには2回行って、バンドの飛び入り。面白いのは他のバンドがヤキモチ焼いて、我々とも演ろうよなんて言ってくる。
― 批評や評価について。
批評は本人のためになるわけだしさ、あちらは辛らつだよ。いいときは男に抱き付かれたり。つまんないと何だよお前なんて感じで席を立って帰っちゃう。それで喧々囂々やって揉まれていくよ。ジェームス・エメリー(ギター)は、批評家はミュージシャンになれなかったから悪口を書くんだよなんて。
バール・フィリップスは批評は全く読まないなんていうし、ミシャなんかもそんなの構わないんじゃないか、ケロッとしているし。だけどいいんだ。熱くなれば。なあなあがよくないと思う。日本の人はあまり意思表示しない、嫌いでもなんか言ってよ。よかったよー、なんてどうでもよかったのかも。つまんなくても最後までいるよな。初来日の外国人なんて、どうなってるの日本って驚く。向こうはI love you とかI hate youとか言わなきゃわかんないわけだから。まーそれも味気ない感じがするけどね。
― 最近は胡弓も演奏。
胡弓は最初ロンドンで、ゲストで入ったストリングカルテットで演った。やっぱり彼らには珍しいし音色が好きなんだよ。あんなのないからね。デレク・ベイリーと阿部のギターは両方良いんだけど、阿部は東洋的というかもっとポルタメントな感じで、デレクと比べると余韻が違う。胡弓は多様な音域を変化・表現させられる。西洋音楽にはなかなかないでしょ、ああいうポルタメントみたいなの。2005年くらいから始めているけど、最初は自信ないからさ。香港に持って行ったけれど、ドキドキしちゃってさ、どうしようどうしようって。香港とか中国とかでは、「やっちまえ!」って初めに自分に言い聞かせないと怖くて音を出せなかった。
おそらく多くのドラマーはメロディ楽器を演りたいものなんだよ。でもメロディがないからセンスが要求されるんだけど。あと、小杉武久さんはちゃんと弾ける人なんだけど、あるLPで凄く下手なヴァイオリンを弾いていて、これは俺が演ってもいいかなって勇気をもらった。あれは本当に弾ける人が演っているから良いんだけど、最初は滅茶苦茶やっているのかと思った。あの影響はあるね。前衛の絵とかで俺でも描けらあってのあるけど、それからが大変なわけじゃない。インプロもきっとね。だから隙を見つけては今だ!と思って弾いたりしてた。初めは1分も演るなんて大変なことだったよ。しかし楽器持って行って弾かなかったりしたらもの凄く悔しい。技術がないから「素」にならないと怖くて音が出せない。
― 海童道祖について。
パリから帰るときに『日本の音楽』という本を手に入れた。それに海童道祖が書いていて、こんな世界があるのかと思った。海童道祖は間章が新潟に呼んだりしていたから、帰国して電話したら、楽器が70年代当時で30万円、それに入門料だって必要だって。そんなオカネないからさ、それでお終いにしてたら、ダグラス・ユワートが80年代にフルブライト奨学金に受かって尺八を習いに来たんだよ。ダグラスが彼に会いたいって言うからさ、横山勝也さんはって言ったら行方不明だって。それで電話したら海童道祖が「私はここにいますよ」って言うから通訳として会いに行った。そうしたら海童道祖は俺に「君面白いね、次いつ来る?」だって。何週も通った、ただ話してなんか食って帰るだけ。あのとき竹の「定具」は百万円だから買えるわけがない。他の弟子が不思議がるから、メンバーにならないかって言われて入門した。凄い出会いだった。竹は日本のトップだよね。僕に言わせれば、アメリカではムハール、ヨーロッパではミシャがトップ。海童道祖は音楽は嫌いなんだけど竹を吹いたら日本一、ということは世界一。「尺八」って呼んじゃダメで「竹」あるいは「定具」。
― 即興について。
横綱が全勝できないように、インプロでも、今日は勝っちゃったか、なんてのがある。音楽はスポーツのような勝ち負けでもないのが良いんだけど。巨匠は怖いですよ。でも横綱と演んなきゃ、っていうのがあるね。
なぜ即興かって言うと僕に向いてるから。そりゃ、ミッキー・カーチスのバンドにもいたし、ビックバンド、ブラバンにもいたし、譜面読めたけど、ステディ、テンポが意外にイヤなんだよ。もっといろんなテンポがあるだろうって。コマーシャルの心地いいテンポなんか、ちょっと壊そうって、ちょっと触りたくなる。だからガムランの揺れ動くところなんて大好き。宇宙にリズムは一杯あるわけだよ。それと音楽が殆ど2拍子、4拍子、3拍子、か8分の6、時にフェルマータとかなんてさ、あまりに狭いよ。音だってモットモット無数にあるはずなんだよ。
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インタビューののち、豊住芳三郎、照内央晴、庄子勝治によるライヴが行われた。外から虫の声が聴こえてくる山猫軒ならではの音空間で、素晴らしい演奏だった。今後も彼らのコラボレーションは続けられてゆくことだろう。
(文中敬称略)