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Interviews~No. 201

Interview #31 ブーカルト・ヘネン (メールス・フェスティヴァル元音楽監督)
Burkhard Hennen Interview (September 2005)

Interviewed & photos by Kazue Yokoi   横井一江
2005年9月17日、ティーラウンジ@京王プラザホテル

 

今年(2005年)9月、東京芸術見本市(TPAM) の招きで、メールスジャズ祭(*1)の元音楽監督ブーカルト・ヘネン Burkhard Hennen が来日した。メールスジャズ祭は、ドイツで最も重要かつ注目されるジャズ祭のひとつであり、その独自のプログラミングは、少し前までは時代の先を読むアンテナだったといえる。そのメールスジャズ祭の音楽監督を34年間務め、今年で退任した彼が、ジャズ祭にまつわる諸事情と本音を語ってくれた。

 


- 今年(2005年)を最後にメールスジャズ祭の音楽監督を退任なさいましたが、その理由をお話いただけませんか。

この10年間、メールス市やケルンのラジオ局は、プログラミングに影響力を持つようになったんだ。私の裁量部分であるプログラミングに口を出されるのは不快だった。自由が侵害されたからね。音楽家がステージ上で演奏する時にあれこれ言われて妥協しなければいけないように、私もプログラミングのコンセプトや制作面で妥協せねばならなくなってしまった。その背景は、ラジオ局はもっとリスナーに受けようとイージーリスニング的な音楽を求めていたからだ。メールス市も、より多くの聴衆を得ようとイージーリスニング的な音楽を求めた。でも、冗談じゃない。フェスティヴァルのチケットはこの数年売り切れで、テントのスペースだって限られているというのに。この手の議論はもうオシマイ。34年間のメールス市とのパートナーシップは終わったんだから、もう振り返らないことにしている。来年はケルンのラジオ局がバックの人間がオーガナイズする。(皮肉っぽく)きっと素晴らしいフェスティヴァルになるに違いない。

- ケルンの放送局と言えばまず名前が浮かぶのがWDRです。以前はスポンサーにその名前がありましたが、今年はありませんでした。WDRがスポンサーから消えたのに何か理由があるのですか。

WDRとは2年前に切れた。彼らが全部仕切ろうとしたんだよ。リストを見ながら、これはOK、これは駄目、彼らのリストを見せてこれを入れろとか。だから、拒否したんだ。でも、去年だってチケットは売れたし、そんなに問題はない。宣伝面で、彼らは貢献したけど。でも、オランダの放送局NPSやベルギーのラジオ局、ルクセンブルグのラジオ局でいろいろ宣伝してくれたので、今年はベネルクスから沢山の人がきたよ(*2)。

- ドイツのラジオ局の名前がありませんが。

ドイツの公共放送は感心しないんだ。クォーター制(割り当て)のことばっかり考えていてるしね。州から援助を受けているが、州法で(メールス市はノルトライン=ヴェストファーレン州にある)ラジオを持っている家庭は毎月15ユーロ支払わなければならないと決められている。州法には、公共放送の責任についても書かれているんだ。音楽にしろ、政治的なことや文化的なことについて、バランスのとれた番組を流さなければいけない。一般的なドイツ人からマイノリティーまでを対象としてね。民放のように広告をもらうためのプレッシャーはない。そんな公共放送のひとつであるWDRについて、民放のようになっていると公共の場で言ったから大変なことになったんだ。
昨年は、フェスティヴァルの3日目、日曜日の午後に行われるプレス・コンファレンスの時、マスクをして出席した。それまでは、市長とラジオ局の人間と私だったんだけど、その時は市長と私だけ。噛みつかないようにするために犬につけるマスクがあるだろ。まさにそれだよ。日曜日中その格好で歩いてたんだ。市長がしゃべるなって言ったしね。カメラマンがそれを撮っていたから、雑誌はこぞってその写真を使ったね。もう政治とかメディアとかこりごりだよ。

- まだリタイアするお歳とは思えませんが、これからのプランは?

とにかくゆっくりしたい。そして、あちこち旅行をしたいね。1999年に日本に来た時は、横濱ジャズプロムナードを訪ねたりして、5日間で1日の休みしかなかった。仕事があったから帰らなければいけなかったから。もう自由になったし、時間もある。義務とか責任とかメールス市との議論とかラジオ局との妥協とかもう考えなくていいから、コンサートに行っても、音楽に心から入っていける。今、サバティカルな時間を楽しんでいるんだ。
将来については、CDやDVDやフイルムを制作したり、本を書くかもしれない。可能性はいろいろある。録音したテープは色々あるよ。96、7年頃かな、テープはあったけど、CDがマーケットに氾濫していて、しかも音楽的に大したことないのが多くって、食傷気味になった。でも、また始めている。マーケットも変化して、空白部分が生じている。今は、インディペンデント・レーベルのプロデューサーにとっていい時期だと思う。インターネットもまた、インディペンデットにはいいツールだね。メジャーレコード会社は、インターネットは売り上げを食ってしまうと言っているけど、それはばかげた言いぐさだ。インターネットは、インディペンデントがメジャーに切り込めるチャンスを作ってくれたね。
今、リリースを考えているのは、ホレス・タプスコットのビッグ・バンド。音楽的には素晴らしい。まずは、リリースする承諾を得ないと。
それから、CDではないけれどフランク・シューマンというドイツのファッション界では知られた写真家がいて、彼はバック・ステージに簡易スタジオを作って、演奏が終わった後のミュージシャンのポートレイトを撮った写真集も出ているよ(*2)。この本の冒頭に文章を書いている。

- もう音楽監督はなさらないのですか。

それも可能性のひとつ。ドイツ国内外、いろいろリクエストはあるんだ。でも、今すぐ新たな音楽監督の任につきたいとは思わない。ひとつだけ確かなのは、もうメールスのようなフェスティヴァルはオーガナイズしないということ。どういうことかと言うと、この10年ぐらい、メールス市にフェスティヴァルを小さくしようと言っていたんだ。この数年は、フェスティヴァル自体が音楽的とは無関係なものなってしまった。公園に来る80%の人はコンサート・チケットを買わない。ヒッピー集会みたいになってしまったんだ。それを望んだわけではないのに。もし、私の望みどおりのフェスティヴァルが出来るとしたら、小さくても音楽が真ん中にあるもの。即興音楽中心で、ダンスや詩人、美術家なども参加する総合的なものもいいね。この2、3年のエレクトリック音楽はエキサイティングだ。TPAMで見た伊東篤宏のオプトロンも面白かったね。ポスト・コンテンポラリーだ。芸術それぞれツールは違うが、みな近いアイデアを持っていると思う。ミュージシャン、画家、ダンサー、みんな違うツールを使っているが、基本的なコンセプトは似通っている。それらを一緒にできたら面白い。それによって何か新しいものを創造できるかもしれない。でも、キャパとしては、1000人から1500人が限度だろう。
大規模なフェスティヴァルは妥協の産物だ。音楽的なこと、スポンサー、メディア、もう妥協は十分したよ。うーん、スポンサーはそんなに問題ではないかな。私の経験では、スポンサーはアートについてよくわかっている。メールスのスポンサーのビール会社もポスターに大きな文字で社名を入れろとは言わない。そう、大事なのはクォリティなんだ。私にとって、この30数年で一番印象に残った広告はIBMで、ドイツで最も重要な雑誌であるシュピーゲルに掲載されたものだった。真っ白いページの真ん中に小さくIBMとタイプライターで打った文字があった。大いに話題になったね。もっと沢山情報を載せるべきだと馬鹿なことを言う人もいたが。そこにあったIBMという文字がメッセージなんだよ。

- 話は変わりますが、80年代初頭、それまで誰も話題にしていなかったジョン・ゾーンなどのニューヨーク・ブルックリンのミュージシャンをいち早く紹介しましたね。ドイツに居ながら、どのようにして彼らのことを知ったのですか。

旅行だよ。71年頃から定期的にアメリカに行っていた。姉が住んでいるので、親族訪問と音楽のリサーチを兼ねて。78年にアンソニー・ブラクストンのクリエイティヴ・オーケストラを呼んだんだけど、そこにウッドストックのニューミュージック・スクールの生徒達がいたんだ。ネッド・ローゼンバーグもその一人。それに参加していた多くのミュージシャンがその後キャリアを築いていく。でも、この当時はみんな生徒で知られていなかった。
80年代初頭、イーストヴィレッジで起きようとしている動きについて、みんなまだ知らなかった。無視していたのかもしれにないけど。丁度同じ時期にイギリスで、クリス・カトラー、フレッド・フリスらによるアート・ロックが起こっていた。フリスは70年代後半、ニューヨークに移り住む。さまざまな世界からやってきたミュージシャンが、そこでインスパイアされ、何かを創造しようとしていたんだ。

― メールスジャズ祭では長年に渡って、日本人ミュージシャンを紹介してきましたね。でも、音楽監督在任中に日本にいらっしゃったのは一回きり。なぜ、ご自分でリサーチしに日本に来なかったのですか

その理由は2つある。ひとつは、情報が得られていたということ。そもそもの発端は、72年の冬。日曜の朝、ケルン駅の近くのバーで朝食をとっていたんだ。そこにマンフレッド・ショーフが入ってきた。日本から戻ったところで、すごくエキサイティングなフリージャズ・ピアニストとそのトリオについて話してくれたんだ。フェスティヴァルに呼べよってね。山下洋輔だよ。それで、ミュンヘンのEnja Recordsのウインケルマンに聞いた。フェスティヴァルに出演して、録音して、ツアーした。74年のこと。ライブはEnjaから出た(*4)。それが山下のヨーロッパ・デビュー。あのエネルギーにみんなノックアウトされたよ。1時間もスタンディング・オベイションが続いたんだ。おかげて他のプログラムが遅れちゃってね。他に日野皓正も呼んだよ。
77年、副島輝人さんに会い、テープやLPを交換するようになり、日本に行く必要はなくなった。チケットはとても高かったし、お金もなかったしね。最初にメールス市からもらったお金は500マルクだよ。電話代にもならなかった。その後はいくらか良くなって、経費も出るようになったけど。当時は、お金以上のものがあったんだ。副島さんと情報交換するようになってからも、そりゃあ行きたいと思ったけど、経済的に不可能だった。1999年は特別な年で、いいお金をもらえたんだ。だから、日本に行けた。他にも行ったことのない国、行きたいとは思っていても行けていない国、例えば南アフリカからもミュージシャンを招いているよ。とにかく昔は飛行機が高かったし、ドル高だった。4マルクが1ドルだったんだよ。
音楽監督には誠実さが大事なんだよ。あるミュージシャンを呼ぶ前にその音楽をよく聴いて、音楽的にいいものを出さないといけない。アドバイザーとして、副島さんはいいミュージシャンを紹介してくれた。友達であるとか、有名無名も関係ない。重要なのは自身のコンセプトを持ち、芸術的に高く、作品が何かを発している、もしくは高い即興性があり、ユニークで自立していること。アドバイザーも同じ考えをもっていればラッキーだ。そうでなければ、自らあちこち行かなければならない。長い年月かけて、いいネットワークを築けたと思っている。ジャズ、即興、エスニック/ワールド・ミュージック、ネットワークはいろいろ助けてくれたよ。情報やアイデアを交換出来てよかった。

- しかし、2003年のベルリンジャズ祭の日本特集では、誤ったコ・キュレーターの人選から、日本のジャズいや音楽シーンがつまらないものであるかのような印象を与えてしまいました。どの新聞の評も散々で、「クズロック・ミュージシャン」とまで書かれましたからね。アドバイサーの人選は非常に重要だと思います。

ベルリンジャズ祭の話は聞いているよ。(観ていない)私はジャッジ出来ないけどね。もう音楽監督ではないから、他のジャズ祭についても言えるけど、ベルリンジャズ祭はそれほど重要だとは思わない。ヨアハム・ベーレントから代わってからはね。規模も小さくなったし、コンサーバティヴだ。ある意味、本当のジャズ祭だとも言える。でも、新しい創造活動に対してオープンではない。観客動員数も1000人くらいだろ。でも、みんななぜベルリンを見るのかなあ。歴史を見ているのかな。今の音楽監督ペーター・シュルツェはいい人だけど、私とは好みが違うね。

- 最後に、メールスジャズ祭で最も印象に残ったステージを教えていただけませんか。

難しい質問だね。それぞれの時代にあるよ。74年の山下トリオ、78年のブラクストンのオーケストラ。81年のオーネット・コールマン・プライムタイム。トロンボーン奏者でチェリスト、ビジュアル・アーティストでもあるギュンター・クリスマンの70年代から80年代のステージとスペシャル・プロジェクト。80年代は、ニューヨークの前衛達、フレッド・フリス。それから、ハイナー・ゲッペルスは重要だったね。70年代から80年代に出演したアフリカのミュージシャン達。渋さ知らズは70年代の山下みたいだったよ。聴衆はノックアウトされたんだ。あの時と同じ状況が起こった。1時間に渡るスタンディング・オベイション。遅い時間なのに終わる気配がない。警官も待機していた。市の人間からステージへ出ていって辞めさせろと言われた。でも、出来ないよ。わかるだろ。メールスの聴衆は恐いんだよ。命がなくなっちゃう。渋さは3回やったけど、今やヨーロッパ中のフェスティヴァルがブッキングしたがっているよ。

- メールスの公園で、ドイツ人などが≪本多工務店のテーマ≫を唄っていたのを聞きましたよ。

そう、公園で唄っていただろ。なぜかコンサートの前に聴衆が唄い始めるんだよ。あれはヒット曲だね。まるで70年代のサンラだ。あの時も聴衆が唄いだしたんだよ。

 

初心に帰って音楽を聴き、充電期間を楽しんでいる様子のブーカルト・ヘネン。しかし、彼の動向は気になるところ。今再びフェスティヴァルの音楽監督をやるのなら、彼の理想を求めてほしいと心から願う。それが、音楽シーンの未来を担うものだと信じるからである。

Burkhard Hennen, Teruto Soejima


*1  当時の名称はインターナショナル・ニュー・ジャズ・フェスティヴァル・メールスで、日本ではメールス・ジャズ祭と書かれることが多かった。現在は「ジャズ」という文言が外され、正式名称はメールス・フェスティヴァルである。
https://www.moers-festival.de/en/
*2  メールス市のあるノルトライン=ヴェストファーレン州は、オランダ、ベルギーに隣接している。
*3  フランク・シューマンの写真集はここでも購入できる。
Frank Schemmann Photography
https://moersfestival.bigcartel.com/
*4 『クレイ/山下洋輔トリオ』(Enja ENJ-1012)

初出:JazzTokyo No. 37(2005年12月5日更新)

 

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。メールス ・フェスティヴァル第50回記。本『(Re) Visiting Moers Festival』(Moers Kultur GmbH, 2021)にも寄稿。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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