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InterviewsNo. 283

Interview #230 Laurie Verchomin (Part 1) ローリー・ヴァホーミン (第一部)

ここのところビル・エヴァンスの周囲が何かと喧しい。1968年の『ライヴ・アット・ロニー・スコッツ』(Resonance 2020) に続いて1969年の『ビハインド・ザ・ダイクス』(Elemental 2021) がリリースされ、タイトルに釣られて購入した『ジャズの秘境』(Du Books 2020)では嶋護氏が「ビル・エヴァンスの最後の日々」について大きく誌面を割いている。とどめを刺したのが新刊 の『ビル・エヴァンスと過ごした最期の18ヶ月』(DU Books 2021.9) だ。著者は、嶋護氏が著作の中で何度か確認のために本人に連絡を入れたと触れているローリー・ヴァホーマンLaurie Verchomin。ローリーはビルの最後の “恋人”で、ビルの最後の18ヶ月を共に過ごし、最期を見届けた女性である。ビル・エヴァンスは僕のジャズ・キャリアの最初期のヘビー・ローテーションのひとりで、その内容にひどく衝撃を受けると同時に、彼女の文体にも大いに興味を惹かれた。ネットで彼女を検索したところマークのインタヴューがヒットし、マークの許可を得て訳出、転載することになった。
インタヴュアのマーク・マイヤースMarc Myers は、The Wall Street Journal の寄稿家で 、著作に『Rock Concert: An Oral History』 (Grove)、『Anatomy of a Song』(Grove) 、 『Why Jazz Happened』がる。インタヴューが掲載された彼のブログ JazzWaxは2007年に開設され、Jazz Journalists Association (全米ジャズ協会)から3度表彰されている。
なお、原文ではローリーに対し “lover” という言葉が使われており、僕の言語感覚に従って、また上掲の自著の内容から “恋人”ではなくあえて“愛人”という訳語を当てることにします。(訳責 稲岡)

第1回 2009年8月17日 インタヴュア:マーク・マイヤース Marc Myers

1979年5月から1980年9月まで、ローリー・ヴァホーマンはピアニスト ビル・エヴァンスの愛人だった。1979年4月にカナダのエドモントンで出会ったローリーとビルは、手紙のやりとりから急速に恋愛関係に発展していった。当時22歳だったローリーは、1ヵ月半後にはニューヨークのエヴァンスを訪問。その後10ヵ月間、彼女は数都市に彼を訪ねることになる。そして1980年4月、ローリーは、恋愛と冷静な目で彼と一緒にいるために、ニューヨークに移り住んだ。薬物中毒のビルは病んでおり、間違いなく死期を自覚していた。ローリーは、エヴァンスが最も力強く、最も内省的な作品を生み出したと考えられているこの最後の時期を共に過ごしたのだった。(写真は1979年撮影)

ローリーは、エヴァンスとの関係、彼女が目撃したこと、そしてふたりの関係の浮き沈みについて、初めて率直に明らかにした。彼女の率直な洞察は、エヴァンスに新たな光を当て、彼のクリエイティブな選択に対しさらなる深い理解と共感を与えてくれる。その結果、私自身、晩年のエヴァンスについての考え方が大きく変わり、エヴァンスの動機や選択をより深く理解することができたのだった。 お分かりのように、この冬のジャズ・ライオンについてのローリーの率直な考察は、感動的であり、胸を打つものであった。

(2009年)8月16日に80歳を迎えることになるエヴァンスの誕生日を記念して、5回に分けて行われたローリーとのインタビューの第1回では、彼女のエヴァンスとの出会い、ニューヨークへの訪問、そしてエヴァンスの肉体、精神両面についての第一印象について語られる:

JazzWax: ビル・エヴァンスとはいつ、どこで出会ったのでたのですか?
ローリー・ヴァフォーマン:私たちが出会ったのは1979年4月13日、アルバータ州エドモントンでした。その日は13日の金曜日でした。97th Ave.にあるウクライナの教会(写真)が中華料理店に改装されていて、そこで出会ったのです。私は、その部屋全体のカクテル・ウェイトレスをしていました。私は地元のジャズ協会のメンバーでもあり、協会がビルに依頼してレストランで演奏してもらったのです。皮肉なことに、この教会のスペースは現在、スープ・キッチンになっています。

JW:エヴァンスに気があったのですか?
LV:実は、ビルが私を選んだのです。私は22歳になったばかりでした。出会った時に彼は私を追いかけてきて、その夜、彼の部屋に来るようにと誘ってきたのです。その時の私にはそれがどういうことを意味するのかよくわかりませんでした。彼は50才でしたし、私の父親よりも年上で、私にはボーイフレンドがいました。でも、素敵だなと思ったんです。それで、多勢の彼のファンたちと一緒に私の家に招待して、お茶を出したんです。彼は私に名刺をくれました。エドモントンを発つ前夜、彼はホテルから私に手紙を書いてくれました。彼の手紙はすでに愛に満ちたものでした。

W:どんな愛でしたか?
LV:彼は、私に対する気持ちをとても率直に伝えてくれて、彼が私と一緒になることが重要だと感じている、というものでした。私は、彼の音楽が私に与えた影響について返事を書き、私が好きなサルトルの言葉を送りました。”あなたが隣人を引き裂くとき、隣人はみな笑うだろう。しかし、あなたが自分の魂を叩けば、すべての魂が泣き叫ぶ。”

JW:エヴァンスは、自分にとって苦しい時期だと言っていましたか?
LV:はい。ビルは2通目の手紙で、兄のハリー(写真)が自殺した数日後に私の手紙を受け取ったと書いていました。ハリーは統合失調症でした。ビルはその手紙の中で、兄との関係や、兄が自分にとってのヒーローであったことを伝えていました。ビルは兄を、音楽家として劣っていたりとかではなく、自分と同等の存在として見ていました。いや、むしろ、ハリーを自分よりも少し上に置いていました。彼はハリーを心から尊敬していたのです。

JW:エヴァンスは当初、あなたのどこを見ていたと思いますか?
LV:私は、とてもクリエイティブな人間で、とても良い人間です。彼は、一緒にいて自分が自分らしくいられる人、そしてエネルギーを引き出せる人だと思ったのだと思います。私が会ったとき、彼はかなり病弱で、余命が長くないことがわかりました。私たちの間では、彼が人生の終わりに近づいていることは明らかでした。彼はそれを隠しませんでした。彼は最後の1年半を支えてくれるエネルギーのある人を探していたのだと思います。私はエドモントンではあまり責任を負っていませんでしたし、彼もそれを知っていました。

JW:あなたがエヴァンスをニューヨークに訪ねたのは、誰のアイデアだったのですか?
LV:ビルが兄の自殺について書いた手紙を受け取ったとき、私はとても胸を打たれました。その手紙を通じてビルは私に「急ぎニューヨークに来てほしい」書いていました。その時初めて私は彼と関係を持つ意味を考え始めたのです。彼が困っていて、誰かに話を聞いてもらいたいという気持ちが伝わってきたからです。

JW:いつニューヨークに向かったのですか?
LV:1979年5月末にエドモントンを出発しました。ビルはニューヨークの空港で私を出迎えてくれましたが、これ以上ないほど優しく気遣いを見せてくれました。すぐに縁を感じました。いずにしても私はニューヨークに戻りたいと思っていたのです。前の年にグリニッチヴィレッジのHBスタジオで演技の勉強をしていたからです。

JW:ニューヨークでのエヴァンスとの関係は、当初からどのようなものだったのでしょう?
LV:最初は、ビルが私の愛人になるとは思っていませんでした。ニューヨークに着いたら様子を見ようと思っていました。すぐに性的なつながりができました。それは本当に美しいものでした。私は二人の将来を想像し始めました。最初は、私が彼を健康な状態に戻すことができると考えていたからです。

JW:それは大変でしたか?
LV:かなり衝撃的でしたね。ビルは当時、ニュージャージー州フォートリーのセンター・アベニューにあるホワイトマン・ハウス(写真)という高層ビルに住んでいました。9階です。彼の部屋はとても落ち着いていて、整然としていました。しかし、彼の肉体は悲惨な状態でした。長年のヘロイン乱用の結果、彼にはほとんど身体が残っていませんでした。魂が身体を動かしていたのです。私は、彼を健康な状態に戻すことは、一見して不可能なことだと思いました。

JW:何がそんなに衝撃的だったのですか?
LV:ビルの身体です。

JW:もう少し詳しく。
LV:私が彼に会ったとき、ビルはコカインの静脈注射常習者だったのです。そのため、慢性的な感染症にかかっていて、それが彼の健康状態そのものを悪化させていました。また、ヘロイン中毒の跡が治りきらず、皮膚が石化したような状態になっていました。肝臓は8分の1しかなかったようです。

JW:どう思いましたか?
LV:いいですか、私は22歳だったのです。私の知っている人たちはみんな若くて、引き締まった若々しい身体をしていました。ですからビルの身体には驚かされました。彼はまるで戦地から現れてきたかのようでした。文字通り満身創痍でした。しかし、彼には活力がありました。驚くほど生き生きしていました。彼が自分の身体に負担をかけながら生き延びたことは驚きであり、ショックでした。

JW:エヴァンスは自分の身体をどう見ていたのでしょう?
LV:彼は自分の状態を受け入れていましたが、それはエヴァンスにとってもショッキングなことでした。私はそれを受け入れました。彼は痛みを感じていませんでした。彼の肉体は何年も前からそうだったのですが、彼はそれを恥ずかしいとは思っていませんでした。若いときは、何でも自分で気にしてしまうものです。あなたは新しくて美しい。私は髪の毛を気にしていました。なんてひどい髪だって。しかし、若くて完璧な状態ではない人は、その虚栄心を失ってしまうのです。意識が違ってくるものです。

JW:エヴァンスはあなたにどのように接していましたか?
LV:彼はとても丁重でした。彼は私を対等に扱ってくれました。私は、そのように接してくれる男性に会ったことがありませんでした。私はどこにでもカウボーイがいるような田舎町で育ちました。ビルは私が知っている男たちとは正反対でした。彼は私がこれまでに出会った中で最も親切で寛大な男性でした。彼は自分の持っているものすべてを私に提供してくれました。私が空港のエスカレーターを降りた瞬間から、彼は人間として完全な存在でした。彼は私に気を配ってくれて、何の見栄も張りませんでした。私は自分自身でいることができました。

JW:エヴァンスはあなたをどのように見ていたのでしょう?
LV:彼は私に恋をしていました。彼は私をインスピレーションの源として見ていました。また、ひとりで死んで行きたくなかったのです。

JW:恐ろしいとは思わなかったのですか?
LV:そのためにはそのレベルに行かなければならなかったのです。ビルは、彼が最後の創作活動をしている間、私を彼のスペースに招き入れてくれたのです。私は、その経験をする準備ができていました。私は、誰かに自分全体を見てもらいたいと思っていました。彼はそんな私を見て、自分の経験を共有することを許してくれたのです。

明日は、エヴァンスの作曲した「Laurie」がどのようにして生まれたのか、曲の構成に込められた意味、エヴァンスの陰鬱な感性の原点、ローリーとエヴァンスが唯一喧嘩した時のこと、エヴァンスのコカイン中毒との付き合い方などについて、ローリーが語ります。

1979年のローリーの写真(上)と、2人が出会ったウクライナの教会の写真は、ローリー・ヴァホーマンの提供によるものです。ローリーは、ビル・エヴァンスとの関係や経験をまとめた本を執筆中です。詳しくは、こちらのサイトをご覧ください。

Reprinted with the permission by Marc Meyers/JazzWax.
JazzWax:https://www.jazzwax.com

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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